#172 勝負の週末
別に、旭くんが引退を決意したからといってその日のうちに引退の発表がされるわけではない。
通常、契約満了ではない引退はライバーとマネージャーによるヒアリングが数回行われることになっている。
そこでライバーは現状に対する運営への不満だとか、これからの要望だとか、そういった意見を運営と摺り合わせて、お互いに納得の行く落とし所があれば残留、方向性の違いがあれば惜しまれつつ引退になることが多い。
早ければ一月、遅ければ半年や一年。摺り合わせの期間はライバー側の求めるものによって前後するが、だいたいは長期化することがほとんどだ。ちなみに、これは摺り合わせの期間であってそこから引退の発表までは更に数ヶ月掛かる。
が、これはあくまでもライバーが運営に不満を抱いて引退を申し出た場合のケースだ。
たとえば引退してやりたいことがあるとか、健康面での問題とか、やむにやまれぬ個人的な事情がある場合はあまり話し合いが長期化しないことが多い。話してもどうしようもないとか、話す時間が勿体ないとか、プライベートとか、そういう理由で。
おそらく、旭くんの引退については彼自身が強く意思を固めているのでいくら話し合いをしたところで覆ることはないだろう。
メンタル、精神的な事情であれば運営としてもあまり強く残るように勧めるわけにもいかないし、あるてまのフットワークの軽さがあれば年内に詳細が詰められて早ければ1月の中頃に発表、引退は3月か4月になる。とは色んなVTuberのあれこれを見てきた我王の考え。
つまり、逆に言えばまだ詳細が詰められていない今なら、わたしたちが説得するチャンスは残っている、というわけだ。
とはいえ、今は12月12日。クリスマスまで二週間を切っている。
VTuberにとっては何かと忙しくなるクリスマスが目の前に迫っている。
炎上の残り火で公式にお呼ばれしないわたしだけどクリスマス前後は予定が入っているし、我王だって去年に続き今年も公式配信に呼ばれているからあまりこの件を長引かせると自分たちの活動に支障を来すことになる。
だから、勝負は週末。
この土日で旭くんの問題を解決する必要がある。
……いや、アスカちゃんのときもそうだったけどさ。
メンタル的な問題は長期的に治すものであって、一日でどうにかしようってのがそもそも間違いなんだよなぁ。
◆
そして、わたしたちは週末を迎えた。
迎えた、と気合を入れるために大仰に言ってはみたものの、別にこれといって今日まで旭くん対策に何かをしたとか緊張で眠れぬ夜を過ごしたとか、そういう特別な出来事はなかった。
そもそも、旭くんに手ひどく言い包められたのが木曜日の出来事で、今が土曜日だから間は一日しかなく、その昨日だって普通に学校へ行っただけだ。
これがファンタジー世界で魔王を倒さなければ世界は終末を迎える、とかなら仲間と語り合ったり作戦会議をしたり、ヒロインに告白したりとか一日だけでイベントが盛り沢山なんだろうけど、どこまでも現実的なこの世界では普通に先月受けた期末テストの結果が悪くて、先延ばしにしていた補習を放課後に受けただけで終わった。
配信業をしながら同僚の悩みに向き合い学業も頑張る。我ながら偉すぎると思う。……頑張ってる人間は補習を受けない? 頑張ることと結果が伴うことは別なんだよ。
「おい、黒猫! 聞いているのか!」
「え、あ、なに?」
「はぁ……。これから旭を捕まえるというのに、上の空とは随分余裕だな」
やれやれ、と妙に芝居がかった仕草で我王が額に手を当てる。
どうやら色々考えている間に我王が喋っていたらしい。まあ、我王の話なんて半分以上が無駄話だから、ちょっと聞いていないくらいが丁度いい。
とはいえ、人の話を聞いていなかったのは事実なのでここは素直に謝っておく。
「あー、ごめん。頭の中で数式がぐるぐるしてて……」
「ほう、これから先の未来を計算していたのか。実に面白い」
「いやドラマで物理学者が謎の数式書くやつじゃねーよ!」
ミステリーとかのあれ、なんの意味があるんだろうね。
つい反射的に我王のボケにツッコミを入れてしまったが、我王がわたしの言葉に反応することはなかった。それどころか急に真顔になり、
「黒猫、少し静かにしろ」
と言った。
そして、しばらくするとカツカツとヒールが床を叩く音が背後から聞こえた。
「……よし。もういいぞ」
我王の合図に合わせて背後へ振り向く。
スーツ姿の女性が廊下の先へ消えていくのが見えた。
土曜日とはいえ、一般的な業種ではないAoftheGは休日勤務の社員がそれなりに出社している。
おそらく今のは、スタジオ前でコソコソと作戦会議をしていたわたしたちを、どこかの部署の女性社員が怪訝な表情で見ていたのだろう。
当然のことだが、社員全員がわたしたちライバーの顔を把握している訳ではない。ただでさえVTuberは身バレに厳しい業界なので、首から下げている入館証がなければ、この場においてわたしたちの身分を証明するものはないのだ。
だというのに、ただでさえ超絶美少女のわたしと、芝居がかった喋りと仕草をする目付きの悪いオレンジ髪の成人男性(22歳)は目立ち過ぎる。
あまり騒ぎすぎると事情を知らない社員が警備員さんを連れてきて大事になる可能性がある。そうなると最悪、マネージャーも飛んで来て反省会が始まり、旭くんと話し合うことも出来なくなってしまうだろう。
というか、わたしのせいで変な目で見られた雰囲気になっているけど、騒ぎの原因はだいたい我王のボケのせいでは?
まあ、そんなしょーもない言い合いでまた騒がしくするのも時間の無駄なので、ここは黙って目立たないように声を潜めよう。
「それで? 旭くんがこのスタジオにいるのは確定なの?」
「ああ。今日スタジオを利用しているのは旭だけだ。そして、この時間に使用しているのはマネージャーに確認済みだ」
「ふーん。担当違うのによく教えてくれたね」
ライバー同士個人的なやり取りでスタジオの利用時間を共有することはあっても、誰がいつスタジオを利用しているかをわたしたちが知るすべはない。
いちおう、男女混合の箱だからプライバシーの問題とかで空き時間はマネージャー経由で把握できても、利用者まではわからないようになっているのだ。
すると我王は自慢げに指を一本立てて、
「簡単な話だ。まずは土日のスタジオの利用状況を確認する。そして年内の収録が既に終わっているライバーを除外して、残った中から今日配信予定のライバーを更に除外。最後にTwitterで予定が確認できるライバーを除けば、奇跡的に今日収録をしているのが旭と特定出来た。まさに天が我たちを導く運命だな」
「うわキショ……」
「なにを!?」
「いや、全員の行動把握して消去法でスタジオの利用者当てるの、やってること完全にインターネットストーカーじゃん……。流石にキショいわ……」
そこまでするなら素直に旭くんに直近の予定聞けばいいのに。
「ぐっ、いや、しかしだな。このタイミングで旭に次ここへ来る予定を聞けば、確実に警戒されるという確信が」
「いやぁ、それにしてもだよ。もっと上手いやり方あるでしょ……。あ、警備員さん呼んできたほうがいい?」
「待て待て、流石に洒落にならん」
はぁ、洒落じゃないんだけどな。
しかし、こうしているうちにもいつ旭くんが扉を開けて出てくるかは分からない。
何時から何時までスタジオを予約しているかが分かっても、収録が早く済んだから早めに退室、なんてのはよくあることだ。
ここは非常に悔しいが、我王をストーカーとして警備員さんに突き出すよりも、旭くんの件を解決するのが先だ。
「旭は収録のミスが少ない。故に我の読みが正しければ、あと十分もしないうちに収録は終わるはずだ。我は一度この場を離れるが、本当に一人で大丈夫だな?」
「ハハハ、任せなって。旭くんの一人や二人、余裕で捕まえれるから」
「くっ、フラグにしか聞こえんっ……!」
我王が心底心配そうな目でわたしを見る。
やめろ、中学時代体育の授業でペアを作れなかったわたしを見る先生の表情を思い出す!
でも、ここには助けてくれる先生も仲間もいないんだ。
いくら心配されても不安でも、わたし一人で何とかするしかない。
「わたしと旭くんの話し合いは、多分一昨日の時点で終わってるよ。これ以上旭くんを説得しようとしても、わたしじゃどうしようもない。でも、それが諦める理由にはならないから、まあ足にしがみついてでも話を聞いてもらうよ」
「そうか。なら、ここは任せる」
そう言って、我王は腕時計を確認すると「時間だな」と言ってこの場を離れた。
去り際にゴチャゴチャと格好つけていかないのは、彼も緊張しているのか。それともあれが彼なりの格好つけなのか。もしかしたら、何も言わないのが信頼の証なのかもしれない。
兎も角、わたしはわたしなりの仕事をするだけだ。




