#106 キミは
「ほら、これに着替えて」
「……ん」
カラオケルームの一室にて。
ずぶ濡れになってしまった制服の代わりに、十六夜桜花──柳 八重に渡されたここの制服に着替える。
いくら扉がすりガラスになっていて外からは容易に見えないと言っても、隙間から覗けば中が丸見えだしこういう空間で服を脱ぐという行為はなんとなくイケナイことをしているようで、不安と緊張からドキドキしてしまった。
「………」
「なにじっと見てんの」
「え!? いや変に目を逸らすのもあれかなと思って」
「まあ、別にいいけど」
雨の中傘も差さずに駅前を歩いていたせいで、下着までぐっしょり濡れてしまった。だから一度全部脱いでからタオルで全身を拭く必要があった。
衣服はぶかぶかでも柳八重が貸してくれたから大丈夫だけど、下着は流石にサイズが合わない上にそもそも変えがないから乾くのを待つしかない。
だからどうせ女同士だし、他人でもないんだから緊急時に裸を見られるぐらい気にするほうがどうかしてると思う。
……まあ、平時のわたしなら慌てふためいていた可能性が大いにあるけども。
「それにしても偶然黒音さんに会えて良かったよ。あのままじゃ絶対に風邪を引いてたからね」
「……そこに関しては感謝してる」
丁度、バイト帰りの柳八重に出くわしたわたしは、そのまま彼女が勤めているカラオケ店へと連れてこられた。
そして部屋を一室借りて彼女が裏から持ってきたタオルや予備の制服を渡されて今に至るのだが……、感謝の気持ちと同時に、以前イザコザがあった場所に連れてこられた複雑な気持ちが綯い交ぜになって、なんとも言えない微妙な気持ちになってしまった。
「ドライヤーで乾かすけどちゃんと乾くまでにちょっと時間がかかるから、それまではボクの制服で悪いけど我慢してね」
「うん」
170cmを越える柳の制服はすごいぶかぶかだったけど、流石に濡れているわたしの制服より余程マシだ。ただ胸元がちょっとだけ窮屈なのが不満だったけど、こればっかりは文句を言っても仕方ない。
柳はドライヤーで乾かした下着を、裏から持ってきたハンガーで吊るしながら、
「それで、黒音さんはどうして傘も差さずに歩いてたんだい?」
「……別に、そういう気分だっただけだし」
「いやいや、気分で歩くには大雨だったけど」
「……傘盗まれた」
「どこで? まさか学校で?」
「喫茶店」
そう言うと彼女は腕を組みながら小さく唸った。
「本当は聞かないほうが良いんだろうけど、敢えて空気を読まずに聞くよ。……誰かと喧嘩でもした?」
「べ、べつに」
「じゃあ黒音さんはひとりで喫茶店にいたのかい?」
「うっ」
まさか黒音今宵がひとりで喫茶店に入れるわけがない。
「誰かと一緒に喫茶店にいたなら別れ際に傘がないことに気づくはずだから、ひとりでずぶ濡れになって歩いてるのは不自然……、仮に用事で別々に退店したとしても、黒音さんが先に出れば傘がないことに気づくし、まさか黒音さんが相方のいない喫茶店に長時間ひとりでいるとは思えないから、先に出ることはあっても後から出ずに一緒に退店しようとするはず。ってことは必然的に誰かと喧嘩をして一緒に帰れない状況になって、後からひとりで喫茶店を出たって考えられるね」
「前職は探偵かなんかか?」
怒涛の推理に思わず口を挟む暇すらなかった。
コイツはわたしに関しては空気を読まない行動が多いけど、他の相手にはちゃんと空気を読んだ行動が多い。
要は敢えて空気を読まない行動をすることで構ってアピールをしているわけなんだけど、このときばかりは空気を読んでほしかった。
「そうだよ、その通りだよ。喧嘩ってわけじゃないけど友だちと気まずくなって傷心中だよ。だからほっといてほしいんだけど」
雨宿りする場所と着替えを貸してくれたことには感謝しているけど、それとこれとは話が別だ。
今はそっとしておいて欲しい、それがわたしの本音だった。
「嫌だよ。キミが拒否してもボクはキミを放っておかない」
「はぁ? 普通に迷惑なんだけど」
少し、苛ついた。
この体は些細なことですぐに感情が揺らぐ。
「何ならこのままもう一度濡れて帰ってもいいんだけど?」
「それは困るよ。せっかく助けた意味がなくなるし。でもね、」
柳はそれまでのおちゃらけた、まるで道化のような態度から一変して真剣な眼差しで、
「泣きそうなキミを黙って放っておくほど、ボクはお利口じゃないから」
「………」
なんだよ、それ。
わたしは別に泣いてなんか……。
「これは空気を読まないボクのただのお節介だ。壁だと思ってくれても構わない。だからさ、溜め込んでるもの全部ここで吐き出してよ。他の人には言えないようなことも、ボクだったら言えるかも知れないでしょ?」
「………それ、は」
普段だったら嫌いなわけじゃないけど、面倒な相手だと思って避けている柳八重。
だけど、このときばかりはそういうどうでもいい相手なら後腐れなく何でも言えるかも知れない、と思ってしまった。
わたしの気持ちを。
想いを。
弱音を。
「アスカちゃんが、転生するって言ってきたんだ」
「立花アスカさんが?」
「うん……。今の状態でこれ以上続けるのが無理だから、HackLIVEでイチから始めるって」
「HackLIVEといえば最近よく聞く名前だね。元は個人や企業で扱いづらかったりクセの強い個性的なライバーを中心にしたグループだったかな。炎上慣れした人が多いから多少のアンチじゃびくともしないってことで今かなり勢いがあったような。……立花さんがそこに移るなんて意外だね」
「アスカちゃんはアンチが多いから……」
「あー、なるほどね」
別に、アスカちゃんがHackLIVEに声を掛けられた直接的な理由はアンチが多いからっていう理由ではないだろうけど、そういう面もあったんだと思う。
転生組が多数所属しているにも関わらず今なおHackLIVEに所属しようとするVTuberが多いのは、そういう何かしらの傷がある人が多い──同族意識が一番の理由かもしれない。
だから、やっぱりアスカちゃんがHackLIVEに行くのは今後のことを思うとやっぱり最善策で……。
「ボクも黒猫さんに絡みすぎたせいでアンチが多いからねー。ましてや彼女は個人VTuber、ボクの比じゃないぐらい悪意に晒されてたんだろうね」
「今まで、そんな素振り見せなかったのに。急に限界が来たって……」
「人が限界を迎えるときは何の前触れもなく、唐突に来るものだよ。むしろ彼女は今までよく誰にもその姿を見せずに、ファンのために活動してきたと思う」
「この壁よく喋るな」
「あはは、ごめんごめん」
まあ、一方的にひとりで話し続けるよりマシだけどさ。
「それで、個人じゃ黒猫燦と一緒にいるには釣り合わないから、企業でイチから頑張るって」
「なるほど、ね。それで黒音さんはなんて言ったらいいか分からなくて、立花さんが先に帰っちゃったんだ」
「だって、笑って見送れって言われたら、そうするしかないじゃん……ッ!」
それが立花アスカの幸せなら、わたしのせいで歪んでしまった彼女の人生なら、そうするのがわたしのせめてもの償いだから。
「そうだね。それが彼女の唯一の望みなら叶えてあげるのが友だちかもね」
「だったら……!」
「でも、そこに黒音さんの気持ちはあるの?」
「え……」
わたしの、気持ち?
「キミがそこまでして苦しんでるのは自分の気持ちをちゃんと伝えることが出来なかったからだろ? ただ見送ることしか出来なかった自分と現実に悲しみと怒りを覚えてるんだろ?」
「それは……」
「ボクだったら仮に黒猫さんが引退するってなれば何が何でも止めるよ。だって黒猫燦が引退すればボクが好きな黒猫燦にはもう二度と会えないからね。魂が一緒だからたとえ転生しても、また仲良くすればいいなんて、そんなのは言うのは簡単だけどそれは違うよ」
「………」
「だって、ボクが好きになったのは黒猫燦だから。黒猫燦は黒猫燦で唯一だから、引退して転生すればそれはもう別人さ」
そこまで言って、柳は急に慌てたように、
「あ、でもボクは黒音さんも好きだから好きって気持ちに変わりはないけどね!」
別にそんなフォロー嬉しくはない。
「きっとその新しい誰かのことも好きになると思うけど、それはあくまでまだ見ぬ誰かであってボクの好きな黒猫燦じゃない。だからボクは今ここにいる黒猫燦を止めるよ。好きな人が引退するってなったらね。それが身近な友だちの特権さ」
「そんな、簡単に言うけど。でも、」
確かに、去りゆく人を見送ることしか出来ないリスナーと違ってわたしたちは引き止める力を持っているかも知れない。
でも、それは本人の意志を尊重しない、ただのエゴで……。
「友だちに嫌われるのが嫌だから、関係性を壊したくないから。だから人の顔色を伺って、空気を読んで、言いたいことを我慢するの?」
「ちがっ」
「違わないよ。キミがしているのはそういうことだ」
言い返したかった。
でも、
「………」
出来なかった。
無言の肯定、わたしは心の底では理解していた。
崩れかけた関係性に、これ以上の亀裂を入れたくなくて。
わたしはその勇気が出なくて自分の言いたいことを全部飲み込んでいたんだ。
それが彼女のため、と言い訳を繰り返して。立花アスカを都合のいい理由に使って、ただ自分が臆病なだけなのに、その責任を彼女に押し付けていた。
だとしても、じゃあどうすれば……!
「もっと我儘になろうよ。迷惑を掛けなよ。友だちだって言うなら、好きなら、大事なら、自分の心に嘘を吐かずに、自分の心に従いなよ。」
「それが、出来たら苦労してないっ!」
感情が高ぶって、思わずテーブルに拳をガンッと叩きつけてしまった。
急な物音に、しかし柳はピクリとも反応せずにただこちらを見つめている。
「お前には分からないよ。リアルで友だちがたくさんいて、人と話せて、自分の気持ちを他人に伝えられるお前には! わたしには、それが分からないんだよ、出来ないんだよ……!」
コイツはアスカちゃんとわたしが喧嘩をしたと予想した。
でもそれは大間違いだ。
わたしには友だちと喧嘩をする度胸なんてない。
だから、それ以前の話なんだ。
「やれやれ。でも、喧嘩のやり方は充分理解しているだろう?」
「わかんないよ……。今までぼっちだったんだぞこっちは……」
「そんなことないさ。思い出して、キミが、黒猫燦が歩んだ一年を」
黒猫燦が歩んだ一年……?
「リスナーを相手に、ボクを相手に、目に見えないアンチを相手に、啖呵を切り続けたのは他でもないキミ自身だ」
「そんなの、インターネットだから……」
相手が目に見えない文字が相手だから、黒猫燦というキャラクター越しに会話をするから。わたしは常にあのキャラクターでいられた。
だから何も持たない素のままの黒音今宵じゃ……。
「違う。キミはキミだ。黒音今宵は黒音今宵で、黒猫燦だ。そこにインターネットとかバーチャルユーチューバーとか、そんなものは関係ない。キミなら出来る。ボクが心惹かれたキミなら、自分の心に従って思うがままに行動する黒猫燦なら、たとえ相手が推しでも親友でも敵なしだ」
「………」
「それにボクは忘れないよ? ここでキミと出会い、勇気を出したその姿を。そこにバーチャルもリアルも関係なかったよ」
「あれは、」
側に夏波結──暁湊がいたからだ。
でも、今ここには湊はいない。
助けてくれる人は、誰も、いない。
「ボクは夏波さんの代わりになることも立花さんの代わりになることも出来ない。ボクはボクだからね。でも、キミはもうひとりで立ち向かう力を持っていると、ボクは思うよ」
「………」
そう言われたからといって、ハイそうですかと簡単に納得できるものではなかった。
立花アスカが理屈や感情を超えて、あの決断に至ったように。
わたしも物語のように言葉だけで何かが変わるほど、現実は劇的ではなかった。
「それで、キミはどうしたい?」
でも、それでも、
「後悔はしたくない」
心に確かな灯火が宿った。
「キミなら大丈夫。他の誰でもない、この自称黒猫燦の一番のファンが保証するよ」
正解も不正解もない。
どうにもならない難題。
だったら、わたしはせめて、後悔だけはしないように、最後まで足掻く選択をしようと思った。
あんなに冷え切っていた身体は、いつの間にか、熱く、滾っていた。




