9.五年後、俺はもう一度キャッチャーミットを
心地よい熱が陽射しから伝わってくる。
梅雨はもうあけたのだろうか。
カラリと乾いた空気を、俺はゆっくりと吸い込んだ。
カーン、という馴染み深い音が聞こえた。
そうだ、あれはバットがボールを打ち返す音だ。
"もう一度、こうやって野球が出来る日がくるなんてな"
左腕を軽く動かす。
大丈夫、何も問題はない。
野球をしても支障はないと、医者も言ってくれている。
"五年ぶりか。長かったな"
――あの日の記憶が甦る。
延長十回表に俺の2ランで5―3とリードして、四岸重工はそのまま逃げ切った。
ハラハラしながら、俺はベンチでそれを見守っていた。
左腕の負傷のためだ。
ホームインした後に交代させられ、最後の守備にはついていない。
とてもそんな状態じゃなかったからな。
"めちゃくちゃチームの士気は盛り上がって、でも結局は二回戦で敗退しちまって"
一発勝負のトーナメントだけに、運や調子の良し悪しも実力の内だ。
エースの葛西が精彩を欠き、主将の俺が欠場と悪条件が重なった。
だから敗退は半ば必然だったと言える。
そして、四岸重工野球部はそのまま最後のシーズンを終えて廃部となった。
決まっていたこととはいえ、心の中にポッカリと穴が開いたような感触はいやなもんだったな。
やり残したことは無いはずなのに、おかしなもんだ。
"あれから、皆それぞれの道を歩んできたよな"
脳裏に懐かしい顔が浮かぶ。
野崎監督は引退して、今は悠々自適の隠居生活を営んでいる。
「野球しか知らんかったからなあ。世の中他にも色々あるんだし、もっと視野を広げんとな」なんて、この前メールしてきた。
元気なシニアだよ、まったく。
葛西は念願のプロ野球選手になった。
今は敗戦処理用のリリーフだけど、腐らずに投げている。
「いつか日本シリーズで投げたいんですよね!」なんて、この前会った時に笑ってたな。
そうだな、俺も応援するよ。
髙橋さんはクラブチームで二年プレーして、それから引退した。
今は週末に少年野球のコーチをしているそうだ。
「最近は少子化でチーム組むのも一苦労なんだよ」とこぼしていたっけ。
それでも楽しそうだから、多分心配いらないだろう。
そんな風に思い出せる人たちがいることが、ただそれだけのことが純粋に嬉しい。
うん、つまりはそういうことなのかもな。
楽しい思い出も苦い思い出も、俺の大切なあの頃には変わり無いんだ。
「パパー、何やってるの早く早く! この試合終わったら、パパのチームの番なんだろ!」
右を見る。
俺を見上げる健太はもう十歳になる。
去年から少年野球をやり始め、時折俺に質問してくる。
「ああ、そうだったな。行こうか」
「うん。ねえ、パパ。ほんとにもう怪我大丈夫なの? 野球やってもいいの?」
「何ともないよ。お医者さんもゴーサイン出してくれたんだし、心配するな」
「ほんと? じゃあパパが野球するとこ見られるんだね!」
「そうだよ。そういえばママと愛華は?」
「んっとね、用事済ませてから、こっちに直行するって! ママ、すごく浮き浮きしてたよね!」
「はは、じゃあいいところ見せないとな」
健太の頭を軽くなでながら、俺はグラウンドに下りる。
さっきまでプレーしていたチームとすれ違いながら、軽く一礼する。
その時、後ろから声がした。
ああ、俺は知っている。
これは俺の懐かしさを呼び起こす声だ。
「久しぶり、土浦くん!」
「よっ、元気そうじゃん」
振り返った俺の目に映るのは、ニ舟――いや、今は水上祥子さんと水上裕司が肩を並べる姿だった。
祥子さんの腕には、小さな女の子が抱かれている。
今年もらった年賀状ではベビー服を着ていたけれど、今は幼児用の夏服だ。
二人と小さな一人がいい笑顔を浮かべている。
「ああ、元気にしてるよ。お子さんは平気か? 割りと陽射し強いぞ、今日」
「ありがとう、大丈夫よ。ちゃんと日陰の下から観戦するから」
「だよな。ところでほんとに俺が投げていいんだな?」
「もちろん。うちのバッテリー両方が風邪でダウンしちまったからな。悪いんだが、ピッチャーについては水上が頼りなんだ」
そうなのだ。
去年から俺はこの草野球のチームに、コーチ兼任――というかほとんどコーチ専任で所属している。
怪我持ちだからと一度は断ったのだが、いるだけでいいからと頼まれた。
そこまで言われればイヤとは言えなかった。
その時は、まさかプレー出来るほど回復するとは予想はしていなかったんだが……これは野球の神様からの贈り物なのかもな。
「ああ、全然いいよ。去年引退してから投げてないけど、草野球くらいならまだいけるだろうし」
「無理はするなよ。適当に投げてくれれば、あとはどうにかするからな」
「いやあ、無理するなはむしろ俺が言いたいよ。五年ぶりだろ、土浦がキャッチャーマスクかぶるの」
「そう言われると、返す言葉もないな」
苦笑しつつ、俺はキャッチャーミットをはめる。
心得たもので、水上もボールとグラブを手にする。
あいつが向かう先はマウンドで、俺が向かう先はホームベースだ。
夏の風がゆるりと吹いた。
土埃がふわりと舞って消えてゆく。
「何年ぶりかな、こうしてお前のミット目がけて投げるのは」
水上がワインドアップで大きく構える。
高校の頃のフォームと変わっていないから、ちょっと嬉しくなるじゃないか。
「十七年ぶりだ。あっという間だな、振り返ってみれば」
腰を落として、俺はキャッチャーミットを構える。
心が踊る。
無理ないな。
後遺症の不安も無くもう一度野球が出来る。
それも高校時代を共に過ごしたあいつと。
水上、お前がプロで投げてきた球を。
俺に手加減なしで投げてみせろよ。
そしてもう一回、大好きな野球を一緒にやろうぜ。
他の何かじゃ換えが利かない、俺達が好きでたまらないやつをさ。
例え草野球でもいいじゃないか。
俺たちが三十五歳でもいいじゃないか。
投げて打って走って捕って、ひたすら白球を追い続けていれば、それで十分楽しいんだから。
水上が投げて、リリースされて――そして白いボールは真っ直ぐに十七年の時間を超えた。