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8.これが俺の最後のバッターボックスだとしても

 隠そうと思って隠せる状態じゃなかった。

 呻き声をあげた俺を見て、ベンチが騒然となる。

 まずいとは思うが、どうしようもない。


「すいません、監督」


「いい、そんなことより大丈夫なのか!?」


 野崎監督も切羽詰まっている。

 ベンチ裏でうずくまりながら、俺はどうにか声を絞り出した。


「だいぶ痛めてしまいました……さっきのクロスプレーで」


 元々完治していなかったところに、とどめが来た感じだ。

 くそ、こんな時にと思う。歯噛みする。

 だが、それで痛みが引くわけじゃない。

 また部分断裂か。


 痛みを噛み締めながら、俺はグラウンドの方を見る。

 こちらの攻撃は始まっている。

 どうする、もう無理と申告するか。

 一番打者の髙橋さんからだから、一人でも出たら俺に打順が回ってくる。

 この腕じゃ、とてもバットを振る自信は持てない。


 心の中のせめぎ合いを抱えながら、グラウンドを見つめる。

 四球を選び、髙橋さんが出塁した。

 ダブルプレーにならない限り、俺まで回ってくる。

 決断しなければ。


 "これが四岸重工最後の公式戦なんだぞ"


 心の一部がそう叫ぶ。

 正しい。全く正しい。

 怪我をした俺は、もう下りるべきだ。

 俺に代打を出せば、ここでサヨナラのチャンスが得られる。


 "今プレーしている全員が勝ちたいと思っているんだ"


 俺はグラウンドを睨む。

 自分の左腕を睨む。

 残念だが、俺の野球はここまでだ。

 言おう、監督に。

 代打を出してくれと。それがベストの選択だ。


「監督」


「土浦、わしは代えんぞ」


 耳を疑った。

 俺の動きが止まる。

 俺の方を振り向かず、野崎監督はそのまま言葉を続ける。

 ベンチにいる全員に向かって、口を開いた。


「皆、そのまま聞いてほしい」


 しん、とその場の空気が静まり返った。

 その空気をかき分けるように、老将は話し始める。

 それは、俺が野崎監督に打ち明けた怪我のことであり、俺が保存療法を選んだ理由だった。



 手短にまとめた話は終わった。

 どういう顔をしていいか分からないまま、俺はただ黙って聞いていた。

 気恥ずかしさはもちろんある。

 後ろめたさもないではない。

 けれども。


「今、わしが話した通りだ、皆。土浦は手術を避けてまで、この日本選手権に賭けていた。最後の公式戦に出て、全力でプレーしたい為にな」


 グラウンドがワッと沸く。

 大きなファールだ。

 俺は腰を浮かす。


「その意を汲めば、もしかしたら土浦をここで下げるべきなのかもしれん。チームの勝利のために、もうこれ以上の無理はしないでほしい。そう考えもする。だが、あえてわしは……土浦に打席に立ってもらいたい。このチームをこれまで支えてきた男には、もう一度打席に立つ権利がある。そう考えているからだ」


「……監督」


 俺の呟きに、他の選手の呟きが重なる。

 戸惑う、だがこの心の昂りはなんだ。


「たとえバットを振れなくてもいい。三球三振でもいい。それでも、結果を度外視してでも、わしは土浦に打席に立ってほしいんだ。一人の野球人としてな」


 それは監督としては失格だろうと思った。

 俺を下げるのが普通だろうと思った。

 だけど、そんな正しいはずの理屈を、正論をぶち抜くほどの何かが胸に溢れてくる。

 左腕の痛みが、その熱い何かにはねのけられてゆく。


「……まったく。俺に怪我のこと隠して、キャッチングしてたとか。水くさいじゃないですか」


「すまん、葛西」


「いや、いいですけどね。俺は賛成ですよ。ここまできて下がるなんてしないでしょ、土浦さんも」


 期待してくれているとは流石に思えない。

 普通に考えたら、この左腕では無理だ。

 だが、それでもだ。


「いいんだな、皆」


 問いはシンプル。

 反対の一つくらいはあるかと覚悟していた。

 けれども。


「全然構わないですよ。託しましたよ、主将!」


「ここまで俺達がやってこれたのって、全部土浦さんのおかげじゃないですか。結果なんか気にしないから、行ってきてくださいよ」


「もし点取れなくても、この回抑えてまた次の回に点取ればいいんですからね! 気楽にいっちゃってください」


 馬鹿野郎が。


 馬鹿ばっかりだよ、お前らは。


 普通に考えたら下げるだろうが。

 俺のわがままなんか、拒否ればいいのに。

 代打送ってサヨナラの一打に賭ける、それが定石だろうに。


「――すまん、ありがとう」


 だからそんな愛すべき馬鹿たちに、俺は応えてやりたいんだ。

 これが人生最後のバッターボックスになったとしても。



✝ ✝ ✝



 一番打者が出塁した後、二番打者と三番打者は三振に終わった。

 2アウト、ランナーは一塁のみ。

 チャンスと言うには物足りないか。


 "しかも左腕は負傷中か"


 苦い笑いを一つ、けれども逃げる気はさらさらない。

 覚悟は出来ている。

 一礼しながらバッターボックスに入った。

 頭の中では状況整理は終わっている。


 相手のピッチャーはサウスポーだ。

 サイドスローからのストレートは速くはない。

 マックス140キロといったところか。

 だが球持ちがいいせいか、キレがいい。

 それに変化球が加わる。


 カーブ、それにスプリット。

 カーブには変化が大きいものと小さいものがあるから、実質三種類だ。

 しかもフォームがあまり変わらないから、読みづらい。


 "だが、チャンスはある"


 ここまで三打数一安打。相性は悪くない。

 左腕の負傷はマイナスだが、一打席だけならば。

 構える。

 一振りに賭けようと決めていた。

 視界の端に三塁側の内野席が引っかかる。


 俺の家族――広美に、健太に、愛華に。

 俺の旧友――水上に、ニ舟さんに。


 "見せなきゃいけないもんが残ってるんだ"


 ドクン、と自分の心音が聴こえた。

 第一球、俺の懐に食い込むようなストレート。

 高い、見逃す。


「ボール!」


 首を傾げているな。

 あれが入らなかったことが不満なのか。

 次は入れてくるだろう。恐らく、外。


「ットライーク!」


 いい球だ。

 俺のアウトサイドぎりぎりから、ストライクゾーンに滑り込むカーブだ。

 これを振っていれば、体が泳いだはずだ。

 恐らく打ち取られていた。


 "二球とも厳しい球だ。甘い球じゃなかった。だが……次あたりか"


 どんなにいいピッチャーでも、各打者に一球くらいは甘い球を投げてしまう。

 もちろん確率論の話であり、全球とも手も足も出ない可能性もある。

 そうなればまず打てないだろう。

 けれども、その確率は低いと踏んでいた。


 "ここまでうちの打線を相手にしてきたんだ。それなりに消耗もしているはず"


 俺はキャッチャーだ。

 投手の状態を見る目は、それなりに自信がある。

 相手はコントロールが悪いピッチャーじゃない。

 だが、うちの打線を封じる為にかなり苦心してきたことくらいは分かる。

 一球だけならば、失投はある。

 体力とメンタルをすり減らした状態ならば、それは十分ありえる。


 "こいよ。勝負だ"


 相手のピッチャーと目が合った。

 来る、と理由もなく思った。

 苦しいのは俺だけじゃない。

 相手も同様に苦しいんだ。

 つまり、打たせて取る。

 ならば狙いは。


 白球が投げられる。

 そうか、やはりスプリットか。

 落ちる種類の変化球だ。

 フォークより浅い握り、だから変化も小さい。


 "打たせて取るにはうってつけ――だが"


 コースが甘い、真ん中に寄っちまったな。 


 左足を踏み込む。

 ほんの僅か始動を遅らせてから、一気にバットを振り切った。

 インパクト、激痛、左腕に、だが構うか。

 歯を食いしばり、右腕で押し込む。

 左腕一本くらいくれてやるよ。


 ボールが高々と上がるのが見えた。

 あれ、と思った。あんなに飛ぶのかと。

 俺が今までに見たこともない放物線を描いて……白い軌跡を描いて……そして。


「入った?」

 

 見えたぞ、左翼席前列にスタンドインしたのが。

 嘘じゃない、2ランホームランだ。

 頭の中が真っ白になる。マウンドで打たれた相手が崩れ落ちているのが見えた。

 数瞬遅れて、左腕に激痛がまた走る。

 だけど、その痛みをこらえながらだけど、胸の奥から噴き上がるものがあった。


 "打てたのか"


 この左腕で。


 "俺は見せることが出来たのか"


 最後の真剣勝負の場で、俺の大切な人達へ。


 "チームに報いることが出来たのか"


 例え、もう二度と野球をやることが出来なくなったとしても。


 歓声と悲鳴を耳の片隅で捉えながら、俺はゆっくりと一塁へと歩きだす。

 左腕はもう駄目か。

 いや、むしろよく耐えてくれたな。

 そうだな、俺の役目は……終わったんだ。

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