7.試合はもつれるものなんだ
ヒュッと空を切り裂くような音を立てながら、葛西が投げる。
右投手のスライダーなので、相手の左バッターの膝元に食い込んでいく。
よし、狙い通り打ち損じてくれた。
セカンドが拾い、二塁へ。
カバーに入ったショートが捕り、素早く一塁へ投げる。
絵に描いたような4―6―3のダブルプレーだ。
"八回終わって三対三の同点か。接戦だな"
ベンチに引き返しながら、キャッチャーマスクを外す。
社会人強豪として名高いタヨダ自動車だけあって、相当手強い。
葛西が初回から全力で飛ばしていなければ、あと一、二点は取られていただろう。
「すいません、土浦さん。ちょっと抑えきれなくなってきて」
「気にするな。さっきの回は何とかゼロに抑えただろう。ランナー出しても点さえやらなきゃいい」
「はい……」
ベンチに座り込みながら、葛西が何とか答える。
声に疲労がにじみ出ている。
無理もない。
強打を誇るタヨダ打線が相手だ。
プレッシャーも相当だろう。
「相手がお前のツーシームに慣れてきている。変化球主体でかわすぞ。シュートとスライダーで左右に散らす」
「了解です、仕方ないですね」
「そう悔しそうな顔をするな。まだシンカーは投げられるな?」
「ちょいちょい目先変えるくらいなら、ですかね。疲れてきたせいか、ちょっと指先の感覚が不安ですけど」
「それくらいなら十分使えるさ」
このままいけば延長戦の可能性も高い。
少なくとも九回は葛西が続投だろう。
俺の仕事は、この男をそこまで保たせてやることだ。
"だが左腕は"
痛み止めの薬を射ったにも関わらず、流石にぴりぴりし始めている。
我慢出来ない程じゃない。
だが、試合でキャッチングとバッティング両方をこなすには、まだ治り切っていなかったって訳か。
"とはいっても、まだいける。交代する程じゃない"
無言で自分に喝を入れる。
まだ何も成し遂げていないんだ。
ここで代わってたまるものか。
気持ちを強くもちながら、ベンチからグラウンドを見つめる。
うちのバッターが三振に倒れたのが見えた。
「3アウトチェンジ、ここで守って延長に賭けますか」
「いけるさ」
ポンと葛西と拳を合わせ、ベンチを出た。
左腕の痛みが小さくなっていく。
✝ ✝ ✝
追い詰められた。
"2アウト、だが、ランナー二塁。一打サヨナラか"
相手の代打攻勢が功を奏した結果だ。
球に力がなくなったのを見透かされ、先頭打者に甘く入ったシンカーを叩かれた。
何とか2アウトまでこぎつけたものの、ピンチには変わりない。
しかも次のバッターは相手の四番だ。
右打ちの強打者であり、打線の核となっている。
状況としては最悪と言っていい。
「落ち着け、葛西。あと一人だ」
マウンドに駆け寄り、声をかける。
内野の選手全員がぐるりと囲む形になった。
一塁側からはタヨダの歓声が、三塁側からは四岸重工の必死の応援が聞こえてくる。
「大丈夫です、ええ」
こくりと頷いてから、葛西がぐるりと肩を回す。
まだ投げられるというアピールだろう。
「全然いけますよ、ほら」と言い放った。
いい度胸だ。
「よし。分かっていると思うが、一点もやれない。とはいっても、向こうも四番だ。出来る限り厳しくコースをついて、打ち取るしかないな」
「はい。コントロール気をつけます」
「多少ずれてもいい。気迫だけは負けるなよ」
俺の檄が効いてくれればいいんだがと、心配が先に立つ。
けれども皆の顔を見て、葛西も落ち着いたらしい。「お願いします」と呟いてから、帽子をかぶり直す。
エースが決意を固めたなら、俺達が応えるしかないだろう。
「しまっていこうぜ!」
声を張り上げる。
内野も外野も「おう!」と大声で答えてくれた。
両軍の応援席からワッと声が響き、ドームの天井を突く。
「プレイボール!」という審判の声がかかり、フィールドの空気が更に加熱する。
ここを……抑えきれるか。
警戒心を最大にする。
普通では打ちとれない。
本当は、一球目は外して様子を見たいところだ。
だが、そうすればカウント的には不利だ……ならば。
外に投げさせた。
バッターはピクリとも動かない。
ボール球だものな。
しかし、そこからシュートならばストライクゾーンに。
「ットライーク!」
よし。まずは成功だ。
次、内角ぎりぎりにシンカーを要求。
厳しいコースを見切られて、これはボール。
いい選球眼だ。
もし入っていたなら、かなり有利になったんだが。
"仕方ない、切り替えよう"
決め球は低めと決めていた。
そこから逆算して、かなり高めに外させる。
何の変哲もないツーシームだ。
カウント1―2。そろそろ振ってくる頃か。
"外角低めいっぱい、スライダー"
持てる変化球の中で、一番信頼出来る球を。
俺のサインを見て、葛西が頷く。
セットポジションから、しなやかに腕を振って――投げた。
いいコースだったと思う。
指もかかった、切れのいいスライダーだった。
内野ゴロに打ち取れるはずの。
だが――相手がその上をいった。
強烈な打球が二塁近くを抜ける。
基本に忠実なセンター返しか。
読んでいたのか、こっちの配球を。
いや、考えるのは後だ。
ランナーがもう三塁を蹴っている!
「バックホーム!」
センターの髙橋さんが飛び込むように捕球する、と同時に返球の構えに入る。
流れるような滑らかなモーションだ。
まだ間に合う。いや、間に合え。
"クロスプレーになる。あの都市対抗の時と同じ"
心の片隅を恐怖がよぎった。
左腕にあの衝撃があればどうなる?
"何だ、だからどうした"
その臆病な自分を蹴り飛ばして、俺の体が勝手に動く。
染み付かせた練習は、俺を裏切らないらしい。
"止めてやるさ!"
視界の左端から、ランナーが滑り込んでくる。
くそ、速いな。
だが……髙橋さんからのバックホームをキャッチして。
そのまま白球を掴んだキャッチャーミットを、相手の足に叩きつけた。
間に合えと全身で叫びながら、ホームベースをかばうように。
土ぼこりが立ち込めた。
静かだな、と思ったのは一瞬に過ぎなかった。
「アウトォ!」
聞こえる。審判のジャッジが聞こえる。
悔しそうにランナーが俯いている。
ドウッと球場の空気が揺らぐ。
そうか、何とか防いだか。
まだ、このグラウンドにいられるんだな。
安堵しながら、ボールを審判に返す。
だが、代償無しとはいかなかったとその時ようやく気がついた。
「っ、くそ、さっきのクロスプレーで」
ダラリと左腕を下げる。
ついに限界が来たらしい。
まだ完治していない筋肉には、ちょっと負荷が大きすぎたか。
ようやく知覚した痛みは予想以上に鋭く、そして重かった。