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6/9

6.そして社会人日本選手権が始まった

 目の前に貼られたトーナメント表をじっと見る。

 この日本選手権では、全国から選ばれた32チームが勝ち抜き戦を競う。

 俺たち四岸重工の一回戦の相手は、タヨダ自動車だ。

 大企業だけに応援団の数は多く、それに圧倒された苦い思い出もある。


「いくら見ても対戦相手は変わらないぞ」


「ですね」


 高橋さんの言う通りだ。

 トーナメント表から視線を外し、俺は傍らのキャッチャー用の防具を手に取る。

 キャッチャーマスクもプロテクターもレガースも、長年使ってきたものだ。

 愛着と同時に思い出もある。

 それらを一つ一つ手に取っていると、高橋さんに肩を軽く叩かれた。


「いけるんだよな、土浦」


 それは質問じゃなく、ただの確認だ。


「はい、もちろん」


 俺の返答も解答じゃない。

 ただの確認だ。

 強がりでもなんでもなく、怪我はほとんど治っている。


「良かったな。俺と監督の他には誰も知らないんだろ。楽しんでいこうぜ」


「ありがとうございます」


 互い頷き、軽く拳をぶつけ合う。

 否が応でも戦意が高まる。

 この試合に負けたら、もうこのチームでやる公式戦は無いんだ。

 無様な真似だけは出来ない。


 俺は周囲を見渡す。

 ロッカールームは広く、他の選手達もそれぞれに準備をしている。

 この四岸重工野球部が無くなった後、皆はどうするのだろう。

 野球を続けるのか、辞めるのか……その問いに答えを出した者もいれば、まだ保留にしている者もいる。

 こうするべきだとは、俺には言えない。

 主将に出来ることはただ一つだ。


「皆、聞いてくれるか」


 口を開いた。

 俺の声を待っていたかのように、ロッカールームが静まり返る。

 皆が俺の方を見る。

 うん、引き締まったいい表情をしているな。


「皆も知っての通り、俺たち四岸重工野球部は来春に廃部になる」


 ざわ、とロッカールームの空気が揺らいだ。

 今更何をということか。

 けれどそれを無視して、俺は話を進めていく。


「だからこの日本選手権が最後の公式の大会となる。負けた瞬間に、俺たちの歴史は終わる。それを胸の片隅に刻んでいてもいいし、気にしなくてもいい。ただ、一つだけ言わせてほしい」


 一息いれた。

 膝を掴んだ手に、知らず知らずの内に力が入った。

 俺は何を言おうというのか。


「この野球部の伝統は確かに尊いものだと思う。だが、今日ここでプレーするのは歴史じゃない。あくまでこのロッカールームにいる俺達だ。俺達が野球をやるんだ。これを最後にユニホームを脱ぐやつもいれば、クラブチームで続けるやつもいるだろう。草野球ならやるよというやつもいれば、もう十分と思っているやつもいるだろう」


 心の底から、思いが溢れてくる。

 綺麗な洗練された言葉にはならない。

 だけど、伝えたいことは確かにあるはずなんだ。


「四岸の伝統の重さも大事かもしれない。だけど、俺はもっと大事なものがあると思う。野球が好きだ、野球をしたい。その気持ちは大なり小なり皆持っているだろう。だから……それを見せてやろう。勝負を超えた何かってやつを、俺達のプレーで見せてやろうじゃないか」


 こんな言葉で良かったのだろうか。

 もっと上手く言えたんじゃないか。

 いや、いい。

 いくら飾っても、俺は綺麗な言葉はひねり出せないだろうから。


 だからこれでいいんだ。


「……俺、土浦さんと同じ野球部で良かったです。やりましょう、土浦さん。思いっきり投げますから、リードお願いします」


 葛西が不敵な笑顔を見せる。


「まったく、まだ試合も始まってないのに感動させるなよ。ま、おかげで気合入ったけどな」


 グローブを軽く叩きつつ、髙橋さんが立ち上がる。


「っし、燃えてきたぜ。タヨダに俺達の意地見せてやる」


「こっちは都市対抗と選手権の二冠狙ってんだ。初戦で負けられるかよ」


「主将にだけいい顔させないっすからね!」


 空気が変わる。

 チーム全員に火が入ったかと思えるほど、士気が高揚したのが分かる。

 俺の中の何かが震えた。


「っしゃ、行くぞ!」


 心残りは微塵もない。左手の怪我はもう気にならなかった。



✝ ✝ ✝



 試合前には、少しだけ練習時間が設けられている。

 キャッチボール、内野のボール回しなどをこなしながら、皆が体を暖めている。

 もちろん俺もその例外じゃない。


 捕る。素早くボールを右手に握り、一塁へ投げる。

 頭の中では敵チームのランナーを想定している。

 一塁まで四秒と少しの俊足と仮定しても、大丈夫だ。

 このタイミングなら刺せる。

 納得して練習から外れた。


「いい肩だな、土浦」


「監督」


 声をかけてきた野崎監督に一礼する。

 眼鏡の奥の目を細め、監督はグラウンドを、そして観客席を眺めた。

 両チームの応援団が、内野席に陣取っている。


「いい眺めだな」


「はい」


 とりあえず相槌を打つ。

 三塁側の方を見ると、四岸重工の応援団がいた。

 うちの家族は……ああ、俺の名前の書かれた旗を振っている。

 五歳になる健太は、俺が野球をやっていることを知っている。

 もしあいつも野球をやるなら、教えてやれるかな。

 二歳になる愛華は、まだここが何処かも理解してないだろう。

 ようやく赤ちゃんじゃなくなったな、という感じだし。

 二人をよくここまで育ててくれたな、広美

 それに俺が社会人野球に打ち込めたのも、彼女が家庭を支えてくれたからだろう。

 本当に感謝しているよ。


 その横にいる二人は、多分水上とニ舟さんだろう。

 婚前旅行なんてからかったけど、仲が良さそうで何よりだ。

 東京から大阪までほんとに来てくれたんだな。

 不意に高校時代を思い出して、少しセンチメンタルになる。

 毎日毎日練習はきつくて、でも純粋に白球を追ってユニホームを泥だらけにしていたっけ。

 まったく、ここはあの頃の土のグラウンドじゃなくて人工芝のドームなのに。


「十年も監督をしているとな、この試合前の眺めにも流石に飽きる。試合ってもんがルーティンワークになってしまうんだな、良くも悪くも」


「そんなものなのですか」


「ん。慣れってのは怖いからな。だが、今日は妙に新鮮な気分だ。これで見納めかと思うとな」


「監督」


「何だ?」


「そういう台詞は、全てが終わってからにしましょう。まだ試合が始まってもいないんですから」


 昔より丸くなった監督の背中を見ていると、ついそんな風に言ってしまった。


「ふっ、そうだな。老いては子に従えとはよく言ったもんだ。お前、引退したら監督やってみんか? いい監督になると思うぞ」


「そうですか? 考えたこともないですね」


「おっ、わしの眼力を疑うのか。キャッチャー出身の監督が多いことくらいは知っとるだろうに。こう見えても人を見る目はある方だぞ」


「いや、でも監督、老眼ですしね」


「……土浦」


「はい」


「今日、試合に出たくないのか?」


「や、冗談ですって。でも将来のことは、今は考える余裕はないので」


 さて、こんな会話が出来るのもそろそろかな。

 試合開始まであと僅かだ。

「戻りましょうか」と声をかけ、俺はベンチへと引いた。

 最後にもう一度、応援席の方を見る。

 手を振ったけど見えているだろうか。


 いいさ、目を離すなよ。

 俺の最後の野球になるかもしれないんだから。

 勝利を約束することは出来ないけれど、全力プレーを見せてやることだけは約束するよ。

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