5.野球から離れられないとしても
俺と水上は高校時代の同級生だ。
ポジションは俺がキャッチャーで、水上はピッチャーだった。
二人でバッテリーを組み、高三の夏には埼玉の県大会決勝まで進んだこともある。
サヨナラヒットを打たれ残念ながら甲子園には届かなかったけれども、それも今となっては良い思い出だ。
そんな旧友だからこそ、聞かずにはおれなかったのだろう。
他の誰かじゃ遠慮が先立ってしまい、聞けないかもしれない。
いや、きっとそうだ。
「正直なところ分からない」
嘘はつかない。それだけを決めた。
「分からないか」
「ああ。お前みたいにプロにはなれなかったけど、俺も野球をやってきた。いい年齢になってもまだガキみたいに野球をしてるのは、やっぱり野球が好きで離れられないからだと思う」
本音だった。
気の利いた言葉が見つからないけれど、俺は俺自身の全てをひねり出す。
ボールじゃなくて、言葉を心のキャッチャーミットから取り出す。
「だろうね。俺も一回解雇されても、結局辞められなかったからな」
「ああ……何て言えばいいんだろうな。社会人になってまで野球をやるとさ、もうそれが無い生活を考えられないんだ。だから」
「だから?」
「後遺症が残るリスクを考えれば、俺は手術を受けるべきなんだろうとは思う。怖いよ、一生野球が出来ない体になったらと想像するのは」
この怪我以来、初めて吐いた弱音だった。
家族にも監督にも、これは言っていなかった。
水上は黙っている。話していいということか。
「別にクラブチームでとは言わない。下手でも楽しめる草野球でもいい。何らかの形で関わっていければいい。それすら出来なくなるかもと思うのは、正直めちゃくちゃに怖い」
「……だろうな」
「選手権なんか諦めて、さっさと治療に専念すべきなのかとも思う日もあるさ。だけどな、水上」
吐き出したのは言葉だけじゃなかった。
水上と白球を追った高校時代の思い出もだ。
右も左も分からないまま、四岸重工野球部のユニホームの重みを背負った時の記憶もだ。
言葉にすると陳腐だが、言葉にしなきゃ分からないことだってあるだろう。
「だけどな、もし俺がここでその道を選んだら、俺は逃げたことになるんだよ。別に四岸重工野球部の伝統からって訳じゃない。俺自身のポリシーから逃げたことになるんだよ」
「ポリシーから?」
「そうだ。キャッチャーってのはさ、最後の砦だろう。相手に点を取らせないために、身を張ってホームベースを守るポジションだろう。そのキャッチャーの俺が後遺症が怖いからって逃げたらな」
逃げたらどうなる。
逃げてどうする。
俺が守ってきたのはホームベースだけじゃないんだ。
もっと大事な何かがあるんだ。
「――俺は、自分が続けてきた野球に背を向けることになる。身を張って守り続けてきた大事なものだからこそ、自分の仁義は通したいんだよ。臆病風に吹かれて逃げるんじゃなく、馬鹿でも最後までな」
「……そうか」
「そうだ。もちろんチームの戦力的にという理由もあるけれど、これが一番大きいかな」
言ってしまえば気持ちがスッとした。
熱くなった気持ちを静めるために、またアイスティーを少し飲む。
そうだ、これが今の本音だ。
「土浦らしいな。勇気ある決断だと思うよ」
そう答えながら、水上は俺の目を見た。
その目元にはわずかに年相応のしわがある。
三十歳か。俺もお前も。
「どうした、水上」
「いや、な。俺が土浦の立場だったら、どうしたかなと思ってさ」
「どうしたと思う?」
「その立場になってみないと分からないというのが本音だ。キャッチャーとピッチャーの違いもある。けど、そうだなあ。俺もやっぱり無理してでも投げたくはなるかもね」
「そうか」
「うん。俺もさ、一回自由契約になった時に野球辞めようかなって思ったんだ。肘が治っても、俺の代わりなんかいくらでもいるしな。でも結局辞められず、独立リーグで投げてさ」
「結果的に良かったじゃないか。トライアウトに引っかかって、今はまたプロ野球のマウンドにいるんだし」
「あくまで結果的にはね。ええと、何が言いたいかって言うとだ。野球しかないんだろうなって思ったんだよ、俺も」
水上の言いたいことは分かる。
もどかしそうな表情だけど、十分伝わってくる。
「理屈じゃないんだろうな、きっと」
だから、その一言でまとめた。
「多分、な。理屈で割り切れるくらいなら、もっと早めに野球に見切りつけてるよ」
「かもな」
顔を合わせる。
どちらからともなく、ニヤリと笑う。
先に口を開いたのは、水上の方だった。
「京セラドーム大阪だったか、日本選手権の会場は」
「そうだが、おい、まさか見に来てくれるのか? チケットは送れるけど、交通費までは出せないぞ」
「いいよ、別に。俺、一応プロ野球選手だぞ? 二舟さんと見に行くよ」
「なんだ、惚気けたかっただけか。婚前旅行なら、大阪よりもいい場所あると思うけどな」
「ばーか、お前の晴れ舞台なんだろ? ニ舟さんも喜ぶって。応援しにいくよ、同窓会みたいなもんだ」
ニ舟祥子は高校の時に同学年で、野球部のマネージャーだった。
だから水上が言いたいことも、分からなくはない。
不自然でもない。
その気持ちがじわりと伝わってきたから。
「……楽しみにしておいてくれ。いいプレー見せるから」
語尾をかき消すように、アイスティーを飲み干した。
駄目だな、歳を取ると涙もろくなってしまって。
✝ ✝ ✝
社会人野球日本選手権までの日々は、状態を回復させるための突貫工事だった。
ボールを使った練習の強度も量も、徐々に増やしていく。
投手の生きた球を取ったり打ったりするのは、一人では出来ない練習だしな。
「おお、いい感じじゃないか。これならいけそうだな」
ちょっと大袈裟なくらい、野崎監督が喜んでくれる。
俺を励ますと同時に、チームに安心感を与えようとしているんだろう。
この人、策士だからな。
本番まであと一週間だ。
チームの士気も重要になってくる。
「ええ、キャッチングもさまになってきました。打つ方もそれなりです」
「順調なようなら、これまで通り四番任せることにする。頼むぞ」
「分かりました。頑張ります」
一つ頷いてから、俺はバットを構えて打席に立つ。
打撃練習だ。
防護ネット越しに、葛西が構えている。
「いいんですか、土浦さん。ちょっと本気で投げますよ」
「おう、こい」
葛西の球なら、自分の状態確認にはもってこいだ。
練習だから全力ということはないだろうが、それで十分。
ひいき目を抜いても一流どころだ。
力みのないフォームから、葛西が投げ込む。
見える。
俺の目はきちんと球筋を捉えている。
癖のないストレート、やや外角――打てる。
意識した時にはバットを振っていた。
速過ぎない程度の速球だ。
呼び込んでから捉えられた。
鈍い手応えは一瞬、鋭い打球が一二塁間を抜けた。
「あー、打たれちゃったなあ。さすが土浦さん」
「大袈裟だな、八割程度の球だろう? キレが足りなかったぞ」
「そりゃ全力じゃなかったですよ。んん、けどあんなにあっさりかあ」
葛西の奴、ちょっと悔しそうだな。
けど、どこか嬉しそうなのは気のせいか。
「ガンガン打って楽にしてやるからな。心配するなよ、エース」
そうとも。
俺はこのチームの主将で四番でキャッチャーなんだからな。
打つ方でもチームに貢献するんだよ。