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4.不意に顔を覗かせた旧友に

 一日一日を積み重ねていく。

 出来る限りの状態に戻すために、地味なトレーニングを続けていく。

 体力を維持し、勘を鈍らせないために。

 選手権の試合でキャッチャーマスクをかぶるために。


 努力の甲斐はあったらしい。

 あれから二ヶ月、ようやく左手の包帯は取れた。

 選手権まであと四週間弱ある。

 今はゆっくりと実戦に近い練習を取り入れているところだ。


「おはようございます、土浦さん!」


「おはよう、葛西。早いな」


 声をかけてきた相手を見上げる。

 日曜日なので、今日は野球部としての練習日じゃない。

 だが、熱心な部員は自主的に顔を出しているというわけだ。

 この男もその一人だった。


「怪我、もう大丈夫ですか?」


「ああ。まだキャッチングには不安はあるけどな。選手権までには間に合うよ」


 不安が全くないわけじゃない。

 けれども、ここまでの回復は順調だ。

 基礎トレーニングのおかげで体力も落ちていない。


「良かった、やっぱり土浦さんが捕ってくれた方が安心出来るんですよね。早く戻ってきてくださいよ」


 白い歯を覗かせながら、葛西が笑う。

 まだ二十台前半だが、うちのエースピッチャーだ。

 キャッチャーの俺のことはやはり気になるらしい。


「心配無用だ。それよりちゃんと練習してるんだろうな? 都市対抗で優勝したからって、選手権で打たれないとは限らんぞ」


「うわ、心外だなあ。シャドーピッチングも走り込みもちゃんとしてますって。やっぱ最後の大会だし、手抜きしたくないんですよね。俺にもプライドはありますから」


「それならいい。お前の肩にかかってるからな、頼むぞ」


「もちろんそのつもりですよ。まあ、それに……俺も人生かかってるんでね」


 フッと不敵な笑みをこぼしながら、葛西はマウンドを見る。

 その野心を隠さない表情が頼もしい。

 150キロ近いキレのいいツーシームに加え、変化球はスライダーと去年覚えたシュートが持ち味だ。

 上手くいけば、今年のドラフトでプロ入りも夢じゃない。


「そうだな。うちも無くなるし、それもいいかもしれないな」


「子供の頃から憧れてましたからね。やっぱりプロ野球ってかっこいいじゃないですか。あのマウンドに立って投げてみたいって、中学生の頃から思ってましたよ」


「お前なら行けるさ。何人かスカウトも見に来てるんだろ?」


 これは気休めでも何でもない。

 実際、社会人野球からプロに進む選手は何人もいる。

 狭い門ではあるけれども、実力が飛び抜けているなら無理ではないんだ。


「ええ。都市対抗の前あたりから、挨拶されて名刺もらったりしてますね。そうなるとちょっと意識しちゃいますよね」


「だろうな。俺には縁がない世界だけどな」


「土浦さんはプロになりたいと思ったことはないんですか? 声かかってもおかしくなかったんじゃ」


 葛西の問いに、俺は首を横に振る。

 視線を練習する他の選手に向けた。

 ノック中だ。

 右に左に動き、内野手が軽快に打球をさばいている。

 グラブにボールを収め、無駄の無い動きでスローイング。

 ノッカーの「よっしゃ、次ー!」という威勢のいい声が、秋晴れの空に響いている。


「そこまでの才能は無かったからなあ。キャッチャーとして何が足りないというよりは、総合的にちょっとずつな。割りと早い段階でプロは諦めたよ」


「そうですか、何かもったいないですね。俺、土浦さんが捕ってくれるとすげえ投げやすいんで」


「そうか」


 ごく短く答える。

 プロか。仮に入れたとしても、多分活躍は出来なかっただろう。

 そうだな、俺は現状に満足している。

 社会人野球の名門で長くプレーするというのは、誰にでも出来ることじゃない。


「はい。あ、そろそろ練習やりますよ。俺、土浦さんと一緒に試合するの楽しみにしてますからね」


 軽く投げるふりをしながら、葛西が自分の練習に戻る。

 俺も時間を無駄にするわけにはいかないな。

 そろそろやるかと、キャッチャーミットを左手にそろそろとはめた。

 軽くならボールを使った練習も出来るだろう。


「おーい、誰かキャッチボールの相手してくれないかー。ゆっくりでいいんだけどな」


 さあて、実戦復帰の第一歩だ。



✝ ✝ ✝



 練習が終わった時には、正直ほっとした。

 練習がしんどかったからじゃない。

 左腕がほとんど痛むこともなかったからだ。

 程度は軽めだったとはいえ、第一関門はクリアした。


 "この調子ならどうにか間に合うか"


 用具を片付けながら、頭の中で目算を立てる。

 徐々に練習の強度を上げていけば、かなり戻せるだろう。

 基礎トレーニングのおかげか、スタミナには問題がなかった。

 一定の手応えを感じながら、顔を上げた時だった。


「よっ、土浦。久しぶり」


 記憶にある声だと分かったのは、振り向いた後だった。

 土手の上から、男が見下ろしている。

 その顔は高校の時の同級生の顔であり、同時に最近はプロ野球中継で見かける顔でもある。


「水上……? 待て、お前何でここに?」


「何って、電車乗り継いで最寄りの駅からは徒歩だけど」


「いや、そうじゃなくてだな」


 ひょうひょうとした返事に、頭を抱えたくなった。

 土手に造られた階段を降りながら、水上裕司が笑顔を見せる。

 高校の頃から変わらない真っ直ぐな笑顔だった。


「あれ、ちょっと、浦安ラッテマリナーズの水上投手じゃないのか?」


「えっ、土浦さんの知り合い? 知らなかったぞ」


 チームメイトがざわめく。

 無理もない。今まで話していなかったのだから。

 どうしようかと対応を迷っている間に、水上は俺の目の前まで近づいていた。


「何て顔してんだよ。連絡くれたから、わざわざ様子見にきたんだぞ。元気そうだな」


 確かに数日前、通信アプリで二言三言近況報告はしたけどな。


「いや、まさかお前がわざわざ来るとは思ってなかったからな。びっくりして言葉を失った」


「そんなに意外か? 怪我したって――」


 水上は急に声をひそめた。

 俺の表情で事情を察したらしい。

「秘密なのか?」と小声で聞いてきたので「悪い、今はな」とだけ返す。

 幸い分かってくれたようだ。


 ちょっと驚いたが、懐かしいことには変わりがない。

 去年、ニ舟祥子という共通の知人を通して改めて連絡先を交換したから、それ以来か。

 普段は画面の向こうの人間が身近に居るのは、不思議な気分になるものだ。


「ちょっと待っててくれるか、着替えてくる」


「ごゆっくり。ここで待ってるよ」


 水上は穏やかな顔だ。

 少しくらい帰りが遅くっても、今日は問題ないだろう。

 こいつにしか話せないこともあるしな。



 俺はプロ野球選手が普段どんな生活をしているのか、知らない。

 もしかしたら飲食するにしても、とんでもない高級店しか行かないのかもしれない。

 だけど、水上によるとその理解は違うらしい。


「そりゃ、ナイターの後に六本木や赤坂のいい店行くこともあるよ? だけど、それも一軍のばりばりのレギュラーだけかな。俺みたいな当落線上の選手は、ごく普通の店しか行かないね」


「要は年俸によるってことか。結構世知辛いんだな」


「そうだね。一億くらいもらってたら世間の目もあるから、結構ドカッと使うけれどね」


 割りとセンシティブな話題でも、旧友が相手なら聞けるものだ。

 相手の金銭感覚が自分とさして変わらないと聞いて、ちょっと安心した。


「聞いておいてよかったよ。こっちはしがないサラリーマンだからな。使える小遣いもしれている」


「いやあ、三十歳で子供二人いてマイホーム持ちなんだろ? このご時世に大したもんだと思うよ、イヤミじゃなくね」


「いや、まあ、そうなのかな」


 曖昧に言葉を濁しつつ、俺はアイスティーをストローで啜る。

 ハンバーガーショップなので、周りの客は中高生が多い。

 ある意味懐かしかった。

 その懐かしさを感じること自体、歳を取った証拠だろう。

 いや、それは今は重要じゃないな。

 水上の方へ改めて顔を向ける。


「さて、本題に入っていいか?」


「もちろん」


「俺の左手の怪我のことを知ったから見に来た、と思っていいのか」


「ああ。メッセージだけじゃ、実際の様子が分からなかったからな。昔の相棒が無事かどうか、確かめにきたんだよ」


 アイスコーヒーを一口啜ってから、水上はふっと視線を外す。

 それに釣られて、窓の外を見る。

 穏やかな秋の陽射しの下、穏やかな街の風景があった。

 何の変哲もない日曜日の一コマだ。


「で、どうだった。実際に練習を見た感想は」


 聞くのは怖くなかった――と言えば嘘になるだろう。

 だが、水上の気持ちを無視するわけにもいかないだろう。

 シーズンが終わった直後で比較的時間があるとはいえ、直接足を運んでくれたのだから。


「まあ、そうだね。率直に言えば、まだまだかな」


「まだまだ、か」


 覚悟はしていたが、やはり刺さる。


「けど、あと三週間あるならだいぶましになるだろうし。多分大丈夫じゃないかな。それより土浦。俺、お前に聞いておきたいんだけどな」


「何だ?」


「お前、仮にこれ以上野球が出来なくなっても後悔しないって言い切れるのか?」


 その問いに答えろというのか。

 本当に容赦ない奴だよ、お前は。

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