3.それでも試合には出たいんだ
日本選手権にベストなチーム状態で持っていくこと。
そしてそこで結果を出すこと。
今、俺が優先すべきなのは、その二点だった。
そこに俺自身の怪我が加わると、どうしても迷いが生じる。
一人で冷静に判断することは難しかった。
「まさかそこまで大怪我だったとはなあ」
目の前では、俺の相談相手――高橋さんが難しい顔をしている。
三十四歳、チーム最年長のベテランだ。
彼の堅実な外野守備に助けられた回数は数え切れない。
「医師に相談したところ、保存療法も選択肢にはなるようです。実戦復帰出来る時期は見込みが難しいですが、それでも三ヶ月はかからないだろうと言われました」
「手術よりは全然短いってわけか。それでもリスク0じゃないんだろ?」
「選手権の時期に試合をするなら、痛み止めの麻酔は必須だそうです。それも体を慣らすために、練習の段階から何本か」
再診時の話を思い出しながら、俺は高橋さんに説明する。
そこまでやっても、精々80から90%しか回復しないだろうということ。
完治しない段階で野球をしたら、後々響くかもしれないということ。
それら全てを話した。
「やる価値はあるかもってとこだなあ。いや、うーん、でも後遺症のリスク付きだと迷うな。どの程度のダメージになるか分からないから難しいけれど」
「そこは正直言うと、自分でも迷います。必ず後遺症が残るわけでもないですし」
「そうだな」
そこで高橋さんは一度口を閉じた。
コーヒーカップを持ち上げながら、ゆっくりと口元に運ぶ。
ワイシャツ姿も相まって、こうして見ると普通の社会人だ。
野球をしているかどうかは外見からは分からない。
「気持ちの上では、やっぱり俺は出たいです。皆で野球が出来るのは、これが最後の舞台ですから」
「だろうな。俺もそれは分かるつもりだよ」
「ただ完調ではない俺がいても、チームの役に立つのか……それが引っかかってはいます」
主将としては、戦力としての自分も考察しなくてはならない。
高橋さんだけに怪我のことを打ち明けた理由の一つは、他者からの意見が必要と判断した為だった。
俺の問いに、高橋さんが眉をひそめる。
「つまり土浦より、他のやつがキャッチャーとして出た方が良いかもしれないと?」
「ええ。順当にいけば第二捕手の田上が出るんでしょうけどね」
「そこまでいくと、監督の仕事じゃないかと思うんだがな。主将になると大変だな」
「よりにもよって、その主将が負傷してしまってこんな事態なのでね。責任は感じています」
「苦労性だな、お前も」
小さく苦笑してから、高橋さんは表情を引き締めた。
「田上の成長は認めるよ。だけど土浦がプレー出来るなら、その方がいいだろう。キャッチャーは扇の要だ。動かさずに済むなら、それに越したことはないな」
「ありがとうございます」
「とは思うけど、実際に当日の調子で決めるしかないんじゃないか? スタメンの選手が当日風邪ひいたから、控えの選手が出るとかよくあるしな。今の段階で気に病むことじゃないと思う」
「まあ、そうですね。三ヶ月後にどうなっているか、分からないですからね」
「だろ? 俺が心配なのはさ、むしろ土浦のメンタルだよ。だましだまし左腕の回復を待ちながら、この三ヶ月を乗り切らなきゃいけないんだぞ。辛いぞ」
「まるで見てきたようにいいますね。いや、そうか。高橋さんも怪我で離脱したことありましたからね」
思い出した。
ホームラン性の当たりを追って、外野フェンスに衝突したことがあったんだ。
決まりが悪そうな顔になりながら、高橋さんがコーヒーを啜る。
「あの時は右足首の骨折で全治二ヶ月だったな。筋力の衰えを戻すのに、更に一ヶ月以上はかかったか。辛かったよ」
「プレー出来ないからですか?」
「それもあるけどな。もっと辛かったのは、また元のレベルに戻れるかどうか分からなかったからさ。スローペースの調整しか出来ないし、スタミナが落ちるのは手にとるように分かったからな」
想像はつく。
社会人野球でプレーしている選手は、皆かなりの練習を日々こなしている。
週に五、六日、一日に三から四時間といったところか。
プロ野球選手に比べれば少ないかもしれないが、それでも生活の一部として確かに埋め込まれている。
"今の俺はそれが無くなるわけか"
手術するにせよ、しないにせよだ。
ぽっかりと生じる日常の空白を思うと、背筋がわずかに冷たくなった。
"ダメだ、気持ちを強くもたなければ"
高橋さんに答える代わりに、コーヒーを一口啜る。
香ばしい苦さで、葛藤を洗い流す。
"主将として毅然とした姿勢を見せなくちゃいけない"
もし試合に出られなくても、せめてそれくらいは義務だろう。
最後の主将が狼狽したままでは、四岸重工野球部の看板に傷がつく。
「高橋さん、ありがとうございました。この件は他の皆には内緒でお願いします」
「分かった。相談くらいならいつでも乗るよ」
「助かります」
頭を下げた。
伝票を取ろうとすると、高橋さんに横から取られた。
「後輩におごらせるほど落ちてないんでな」と言われたら「ゴチになります」と返すしかないか。
✝ ✝ ✝
手術を回避して、保存治療に賭ける。
何としても最後の舞台である選手権に出るために、それは必要な選択だった。
だが、それはメンタルを削る選択でもあった。
まったく高橋さんの言う通りだ。
まず左手が使えない。
包帯とギプスで固められ、動かすことは厳禁だ。
出来る練習は限られる。
"くっそ、自分で選んだ練習だがこれほど地味できついとは"
エアロバイクをひたすらこぐ。
実際に走ると腕に振動が響くため、そうするより他になかった。
ジムの動かない室内を眺めながら、グルグルとペダルを回す。
「はっ、はぁっ、はあっ」
耳障りだと思えば、それは自分の荒い息だ。
一時間近く漕いでいる。
太ももに乳酸がたまり、どうしようもなく重い。
それでも漕ぐ。
喘ぐような呼吸と共に、俺は酸素を必死で体に送り込む。
"負荷が高過ぎるのか"
めげそうになる。
いや、違う。
ちゃんとトレーナーが作成したプログラム通りだ。
これくらいこなさなきゃ、スタミナが落ちてしまう。
"俺は四岸の主将なんだ"
言い聞かせる。
自分が試合に出たいと主張するからには、半端な覚悟ではダメだ。
誰だってあのフィールドに立ちたいんだ。
「ぜっ、ぜえっ、くそっ」
意地でもこなすと決めたメニューだ。
これくらい完遂出来なくてどうする。
自分を叱咤し、右手で汗をぬぐう。
徐々に重くなるペダルを必死で踏み込んでいく。
"あと二分"
頑張れと、自分の脚に呼びかける。
一秒一秒がやけに長い。
それでも楽は出来ない。
全力で踏み込めなくても、せめて最後まで……いけ。
ピピッと終了の電子音が鳴り、急激にペダルが軽くなる。
汗をもう一度ぬぐいながら、太いため息をついた。
一息つける。
だが、これで終わりじゃない。
わずかな休憩を挟んだ後、筋力トレーニングが待っている。
気持ちが萎えそうになる。
筋力トレーニングは嫌いじゃないが、こうも毎日毎日だと飽きてくる。
これは野球自体ではなくて、野球をやるための別の練習だからな。
楽しくなくても仕方ない。
「土浦さん、息整えたら筋トレです。スクワット3セットから」
「分かった。よろしくお願いします」
トレーナーに答えてから、俺は重い腰を上げた。
やるべきことをやるんだ。
今の俺が出来ることと言えば、これしかないんだからな。