2.葛藤するのは仕方がないけど
「リハビリに三ヶ月、そこから更に三ヶ月か。思ったより重傷だな、土浦」
「すみません」
「お前が謝ることじゃないだろ。まあ座れよ」
しわがれた声に従い、俺はパイプ椅子に腰を下ろした。
身長184センチ、体重85キロの体格に椅子が軋みをあげて抗議する。
向かい合うのは野球部の上司――すなわち、野崎監督だ。
今年六十歳の大台を迎えた監督は「やれやれ、とんだことになったな」と太いため息をついた。
「何度もクロスプレーはしてきましたが、こんな怪我は初めてです」
「だろうな。入部時から、お前は怪我には強かったからなあ。しかしまあ、よりによってか……」
「はあ、そうですね」
野崎監督の目には、俺がまだまだひよっこに見えているのだろう。
今年で三十歳になり主将も務めているのだが、それでも若輩者らしい。
仕方ないので、俺は無事な右手で頭をかいた。
「都市対抗は優勝したものの、選手権にお前がいないのは痛いなあ……土浦よ」
「はい」
監督の真っ直ぐな視線を、俺は受け止める。
勘付かれたか。
「お前、手術せずにやり過ごせないかとか考えてるだろ? 正直に言え」
「考えています」
全く、この人の前では嘘はつけない。
「やっぱりそうか。そうだよな」と野崎監督は唸った。
沈黙でそれに応えながら、俺は監督室の壁を見る。
何個かのトロフィーと数々の賞状が、味気ない壁を彩っていた。
俺が所属する四岸重工野球部の、これまでの輝かしい戦歴だ。
それを眺めていると、ぽろりと言葉が漏れた。
「監督」
「ん」
「俺は、この四岸重工野球部の主将です。自画自賛になりますが、キャッチャーとして四番打者としてこのチームを引っ張ってきた自負もあります」
「おう、そうだな」
「だから、最後の最後までこのチームでプレイしたい。そう思うのはいけないことでしょうか」
企業が持つ野球部の運営には、年間三億円程度の維持費がかかる。
これまでは従業員の士気高揚のため、それが許容されてきた。
けれども時代の流れだろうか。
会社の赤字削減の一策として俺達野球部が解体されることが、今年の株主総会で決まったんだ。
プレーを希望する選手のために、受け皿としてクラブチームは設立するとは聞いている。
だが、会社の正式な野球部としては今年が最後だ。
"だからこそ、俺は"
胸の内で軋むものを止められないでいる。
それが顔に出ていたのだろう。
野崎監督はゆっくりと言葉を選ぶように、口を開いた。
「いけなくはない。わしも野球に係るものとして、お前の気持ちはよく分かる。個人的には、お前がプレーしたいというならそれもやむを得ないと思ってはいる」
一息ついた。
その眼鏡越しの眼光が鋭い。
一筋縄ではいかないだろうなと覚悟した。
「だがな、土浦。完治せずにプレーしてその後を台無しにしてきた選手も、わしは山ほど見てきたんだ」
「……はい」
「確かに野球部が解体されれば、ここで野球は出来なくなる。だがクラブチームの選手として、まだプレーは出来る可能性はある。その時に怪我を悪化させていたら、どうするんだ? 二度と野球出来なくなるぞ」
ズン、とその言葉が胸に響いた。
イヤミでも悪意でもないからこそ、痛かった。
「俺も三十路ですからね。怪我をきっかけに野球から永遠に引退というのは、あり得ますよね」と返すのが精一杯だ。
「冗談抜きであり得る話だな。土浦よ、お前その覚悟はあるのか?」
「覚悟ですか」
「ああ。野球が全く出来なくなって、ただ見ることしか出来なくなる覚悟だ。そんな自分を許容しなきゃいけない覚悟だ。お前、その覚悟はあるのか」
答えられなかった。
その可能性について、自分で検討しなかったわけじゃない。
だが、この人から言われると重みが違う。
左腕。
利き腕じゃないが、片腕には違いない。
十分に動かせなくなれば、野球だけの話じゃない。
日常生活にも支障が出るかもしれなかった。
「――分かりません」
重苦しい心で、重苦しい返事をする。
それしか出来なかった。
「すぐに決断出来ることじゃないだろうな。土浦、よく考えろ。高校生ならわしが無理にでも止めるが、お前はもう大人だ。自分で決めろ」
「お心遣い、感謝します」
頭を下げる。
それしか出来なかった。
✝ ✝ ✝
怪我をしているので当然練習も出来ない。
だがそのまま帰る気にもならなかったので、グラウンドに寄ってみた。
「あっついなあ」
思わず口走っていた。
八月上旬の午後、野外の日射しは殺人的だ。
高校時代はこんな暑さの下でも、何時間でも練習出来ていた。
今はもう無理だろう。
「あ、土浦さーん。お疲れ様っす」
「怪我どうでしたか。大したことないんですよね?」
「主将がいなくてもちゃんと練習してますよ! いや、ほんと!」
練習の手を休めて、チームメイトが集まってくる。
心配はしているのだろう。
けれども、どの顔も深刻そうじゃない。
言えるか、こいつらに本当のことなんか。
「ああ、ちゃんと診察してもらってきた。ちょっと肘をやっただけだ、心配ないよ。しばらく安静にしていれば治るそうだ」
嘘だ。でも嘘でもつかなきゃ、やりきれなかった。
手術はしたくない、けれども保存療法でやり過ごせるのか。
曖昧な気持ちのまま、俺は怪我への答えを後回しにしている。
「良かったー。都市対抗を優勝したからこれで十分とは言えるけど、どうせならね」
「選手権も勝ち取りたいもんな。土浦さんいないとキツイっすからね!」
社会人野球の最高峰は、夏の都市対抗だ。
秋の社会人野球日本選手権は、それより格落ちするとされている。
けれども取れるものなら全部欲しいのが人情だ。
"俺はその舞台にいなくて、それでいいのか"
重い自問が沸く。
"待てよ。中途半端な状態でそんな舞台に上がるのか。後遺症が怖くはないのか?"
それをまた別の自問が塗り潰す。
分かっている。どちらも俺の気持ちだ。
どっちも正しい。
間違いなんか無いんだ。
少なくとも今の時点では。
「悪い。誰かトス放ってくれるか」
胸の中の暗い気分を振り切りたくて、そう声をかけていた。
「えっ、でも土浦さん、右手しか使えないでしょ」
「右手一本で振る。大丈夫だ、軽く打つだけだ」
そうでもしないとやりきれなかった。
空いているトスバッティング用のゲージに近寄り、バットを右手一本で握る。
後輩の一人が横に座り、ボールの入ったカゴを持ってきた。
「投げますよ」
「おう」
短いやりとりの後、ぽぅんとボールが放られる。
白い放物線が俺の視界の右から滑り込んできた。
ほんのわずかの間、ためを作った。
腰の回転を意識して、右手一本でバットを振る。
軽い手応えと共に、ボールがネットに突き刺さる。
胸のもやもやが、ほんの少し軽くなったような気がした。
「次」
振る。
左手の引きが使えないから、不安定なスイングだ。
それでも何もしないよりましだ。
「次」
バッティングの基本は変わらない。
頭は動かさず、インパクトの瞬間まで目線は切らずだ。
「次」
左手が使えなくても出来ることはあるんだ。
トスバッティング程度しか出来なくても、俺がチームメイトに見せられるものはあるんだ。
「次!」
真芯で捉えた打球が、ネットに深々と突き刺さった。
グラウンドの喧騒を感じながら、いつしか夢中で振っていた。
黒く澱んだ焦りを叩き割るために、俺はトスバッティングを続けた。
動かない左手を不格好にかばいながら。