表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/9

1.クロスプレーの結果、俺の左腕は

 最終回だった。

 それもただの最終回じゃない。こちらが表の回の攻撃で何とか一点勝ち越して、その裏だ。

 もぎ取った虎の子の一点を守りきれば勝てる。

 この試合――都市対抗野球の決勝戦にだ。


 だから俺――土浦大樹は思うんだ。

 いくらそのクロスプレーが危険だったと分かっても、俺はそれをするだろうって。

 ホームベースを守るのはキャッチャーの仕事だから、俺はそれをやらなきゃならないだろうって。


「ランナー三塁回った!」


 歓声。

 それに続いて誰かが叫んだ。聞こえているさ。


「中継間に合う! 絶対阻止しろ!」


 悲鳴のような叫び声。

 分かってるさ、言われなくても。


「バックホーム!」と俺は叫んだ。

 中継したセカンドが振り返り、こちらを向く。

 コマ送りのような感覚が神経を支配する。

 もどかしさに駆られたまま、キャッチャーミットを構えた。


「止められるぞ、土浦ぁ!」


 俺の名前を呼んだのは、誰だったのだろうか。

 知るものか。

 俺が集中しなければならないのは、とにかくランナーをアウトにすることだけだったのだから。


 捕球……同時に視界の左端に捉えていた。

 ランナーが滑り込んでくる。

 スライディング、させるか。

 この一点を守り切れば終わるんだ。


 ランナーの脚を払うように、キャッチャーミットを叩きつける。

 間に合えと全身を唸らせた。

 当たる。ボールを掴んだミットが、ランナーの脚を叩く。


 アウトかどうかだけを考えていたんだ。

 だからとんでもない衝撃が俺の左肘を襲っても、文句は言わない。

 激痛をこらえきり、俺はランナーを防ぐ仕事を完遂した。


 妙に長い沈黙の後、勝負を分ける結果が下された。


「アウトぉ!」という審判の声を聞いた時、安心感が襲ってきたんだ。

 そう、痛みに飛び上がりそうになりながらも、勝ったことが嬉しかったからな。



✝ ✝ ✝



「ここ、この黒くなっている部分ですね。左腕の上腕二頭筋が部分断裂してるんです。痛くて当たり前ですよ」


「はあ……すみません」


 医師の説明に、俺はわけもなく頭を下げた。

 やれやれというように、初老の医師は表情を曇らせた。

「まあ、レントゲンを撮る前からそうかなとは思っていたけれども」という彼の呟きが、診察室の空気を揺らす。


「上腕二頭筋の部分断裂、ですか」


「ええ。すぐにとは言いませんが、手術をお勧めしますね。保存療法では難しいと思われます」


 聞きたくなかった単語に、俺の肩がビクリと震えた。

「手術?」とバカのように返す。


「ええ、手術です。それほど難しい手術にはならないでしょうけれどね。一泊二日で十分ですから、お勤めされていても大丈夫ですよ」


 俺が不安そうに見えたのか、医師は穏やかに説明してきた。

 違う。俺が不安なのは、心配なのはそこじゃない。


「その、手術した場合は、野球が出来るようになるまでにどれくらいかかるんですか」


「野球? ああ、そうでしたね。土浦さんは社会人野球をされていたんですね……そうですね、三ヶ月ほどリハビリした後かな」


「三ヶ月も……」


 目の前が暗くなる。


「ええ。もちろん、その後すぐに全力プレーは出来ないでしょう。現時点では明言出来かねますけれど、そこから更に三ヶ月程度は実戦復帰のトレーニングが必要じゃないでしょうか」


「――そんなにかかりますか」


 それだけ答えるのがやっとだった。

 完全に戻るには、半年間が必要ということだ。

 半年? そんな時間、俺にはない。


「土浦さん、どうしましたか?」


 医師がかけてくれた声に、俺は声を絞り出して返す。


「手術をしたら間に合わないんです」


「間に合わない? 何に対して間に合わないんですか」


「十月の社会人野球日本選手権に……俺たちのチームの最後の選手権にです」


 苦い言葉を吐き捨てた。

 言ったところでどうしようもないと知りながら、言わずにはおれなかった。


「十月ですか。それにはちょっと」


「……すみません。診察ありがとうございました。少し考えさせてください」


 立ち上がる。

 一礼して部屋を出る。

 白っぽい電灯が照らす廊下を歩いたけれど、頭がぐるぐるして追いつかない。

「次、八番の札の方、お願いしまーす」という看護師の声だけは、妙に記憶に残っている。

 変なことだけは覚えているもんだな。



✝ ✝ ✝



 俺も長年野球をしてきたから、これまでに怪我の一つや二つはしてきた。

 だが、今回ほど深刻な怪我は初めてだった。

 包帯で吊るした左腕に目をやり、重いため息をつく。


「どうしたの、あなた?」


「うん、ちょっとな」


 妻の広美に答える。

 二人の子供はもう寝ているので、リビングは静かだ。

 今日の診察結果のことは、まだ誰にも話していなかった。


 "言わなくちゃいけないのは分かってるさ"


 無言のまま、テレビのリモコンを右手で掴む。

 何気なく押すと野球中継をやっていた。

 よく知っている名前をピッチャーの背中に見つけ、俺は「今日も投げているんだな」とぽつりと洩らした。


「あ、水上さんね。昨日も投げてなかった?」


「投げてたな。最近は抑え投手も任せられるようになったって、この前聞いたよ」


「へー、すごいわね。あなた、高校の頃にこの人とバッテリー組んでたんでしょ? やっぱりその頃からすごかったの?」


「いいピッチャーだったよ。でもまさかプロになるとはって感じだったな。大学で伸びたんだと思う」


「そっかー。しかも自由契約になってから、去年のトライアウトで拾われてでしょ。ドラマチックよねえ」


「よくやってると思うよ、ほんと」


 相槌を打ちながら、俺は画面の中の水上裕司の投球を見つめる。

 カウント1ー1から投げたのは、外角低めへのストレートだ。

 バッターは何とか当てて、ファウルで逃げた。

 上手い。

 空振りは取れなくても、これで2ー1。

 追い詰めた。


 "あいつは今もこうやってマウンドに立っているのか"


 膝の上で右手を握る。ギリ、と微かに奥歯を噛み締める。


 "なあ、水上。お前ならどうする"


 社会人になってからも野球を続けてきた。

 プロにはなれなくても、ずっと野球を続けてきたんだ。

 会社の方針で野球部が無くなるのは仕方がない。

 だが、その最後の舞台に立つことさえも……俺、土浦大樹には許されないのだろうか。


「広美、少し今いいか」


「え、はい」


 俺の改まった声の調子に気がついたのか、広美が姿勢を正す。

「消そうか?」とリモコンを手にしたので「そのままでいい」と答えた。


「今日病院に行って、昨日の怪我診てもらってきたんだ」


「あ、ごめんなさい。そう言えば、まだ診察結果聞いてなかったわ。どうだったの?」


「完全に治すには手術しかないらしい。手術後にリハビリして、三ヶ月。そこから完調に戻すには、更に三ヶ月だそうだ」


「え……」


 俺の言葉の意味が分かったらしい。

 絶句した後、広美は右手を自分の額に当てる。


「今日が七月三十一日よね。あなたの出る最後の大会って、確か十月末だったわよね」


「ああ、選手権な。だから三ヶ月しかない」


「大樹さん、出られないの?」


 自分では覚悟していたが、他人に言われるとまた痛みの種類が異なるもんだな。

 だがこの時、俺は一つの考えを思い浮かべていた。


「手術したら……な。けど、もし手術せずに済むならあるいは」


「切らずに治すっていうこと? うーん、それは自然治癒が可能なら、その方がいいとは思う。でもお医者さんが手術を口にするなら、危ないんじゃないかな。それこそ後遺症が残ったり」


「かもしれない。だけど検討する余地はあると思っている」


 もしも来年があるなら、俺も迷わず手術を受けただろう。

 だが、俺にとっての真剣な野球は今年が最後だ。

 可能性があるなら、追求してみたかった。

 例えそれがどれほど小さくてもだ。


 ワッとテレビの音声が大きくなる。

 40インチの液晶画面の中に、水上が映っている。

 どうやら今日のヒーローインタビューはあいつらしい。

 ちゃんと最後の打者を抑えたようだ。


「あいつ、凄いな。うん、ほんとに凄い」


 ボソリと吐き出しながら、右手で左肘をそっと触る。

 なあ、俺の左腕。

 お前、昔はあのピッチャーの球を受けてたんだぞ。

 なのに、このまま終わっていいのか?


 返事などあるわけもない。

 もう一度奥歯を噛み締めると、小さく軋む音が聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ