虚像
まばゆいモノクロの空を背に、錆びくれたジェットコースターの軌道がうねうねと絡まる様子を見上げながら、彼は幼い日のことを思い出していた。
友人たちと係員に駆け寄り、先を争って、なけなしの小遣いで買ったのりもの券を突き出す。いつも先頭の席は奪い合いで、結局はジャンケンでその所有権を争うことになるのだが、それでも彼らは競ってホームへの一番乗りを目指すのだ。
彼は階段を駆け上り、最後はジャンプを一つ決めて、無人のホームに飛び乗る。振り向けば、一歩及ばなかった友人の苦笑いがあった。間もなく他の仲間も追い付き、輪になって拳を構え、声をそろえて言う。ジャン、ケン――真っ黒に日焼けして、歯ばかりが白い少年たちは、もうどこにもいなかった。彼はきょろきょろと辺りを見回す。トカゲの死体を咥えた猫と、目が合った。彼女はメヒシバが穂を伸ばす、ひび割れたアスファルトに座り、金色の目で彼をじっと見据えていた。
「すまない、待たせたね。ちょっとばかり、昔のことを思い出して――」
彼の謝罪と言い訳を聞き終える前に、猫は腰を上げて歩き出した。彼は慌てて、ぴんと立った尻尾を追い掛ける。彼女が、どこへ向かおうとしているのかはわからない。それでも彼女の歩みは自信にあふれていて、彼に知りえない目的地が、その小さな頭の中にはっきりと描かれていることは明らかだった。
日々は途切れることなく続いていた。不穏な出来事を告げるニュースが世間にあふれていたとしても、彼の日常は要塞のように堅固で、決して揺らぐことはない。それを幸福と呼ぶ者も多いが、人生の終わりまでの距離が縮む以外に何の変わり映えもしない日々を、人たちがどうしてそう呼べるのか、彼はまるで理解できなかった。
もちろん彼も、自分が日常に生かされていることを知っている。水がなければ魚は生きられないように、人もまた、日常と言う穏やかで濃密な液体の中でなければ生きられない。しかし、古代の魚がヒレの代わりに手足を得て、陸上への進出を果たしたのであれば、同じく進化を遂げて日常を這い出すものも世の中にはいるのである。
自分もそうあればいいのに――と、彼は願った。そして、願うだけで何もせず、ただ齢を重ねた。重たい鞄を手に提げ、通勤のためにバス停へと向かう自分が、すでにありったけの矜持を奪い去られた抜け殻であることを、自覚していたからだ。
一匹の猫が、高い塀の上から飛び降りて、彼の前に降り立った。その口にトカゲを咥えた彼女は、彼を金色の目でじろりと睨み、ぷいと鼻を振ってから先に立って歩き出す。彼は猫を追い、バス停の脇を通り過ぎた。そうした理由は様々にある。例えば、この小さな野獣に「ついて来いと」と言われたような気がしたからだとか、命を散らしたトカゲの行く末を見届けたいからだとか。いずれにせよ、それらは自分の義務を放り出すための、口実に過ぎなかった。
猫が導いた先は、彼の自宅からほど近い遊園地だった。幼い頃に何度も訪れた、彼にとっては思い出深い場所だが、施設の老朽化に加え、他のテーマパークとの競争に破れ、十数年前に廃園の憂き目を見る。最近になって、ようやく取り壊しが決まり、跡地には七〇〇戸あまりのコアマンションが建つとのことだった。閉ざされた正面口の門扉の横には、その完成予想を描いた看板が掲げられている。
猫は、錆びて塗装の浮いた鉄の門扉のすき間を抜け、当たり前のように園内へ侵入する。彼はためらいながらも門扉を押し、どう言うわけか、それが開くことを突き止め、遠慮がちに開いた三〇センチほどの隙間へ身体を押し込み、無人の園内へ足を踏み入れた。幸い、辺りに人影は無く、彼の不法侵入を見咎める者はいなかった。彼は追跡を再開し、荒れ果てた園内を、灰色の雌猫と共にさ迷い歩いた。
ジェットコースターの前を去り、次いで彼女がメリーゴーラウンドの前を通り過ぎた時、彼はまたもや足を止めた。長らく風雨にさらされ、放置された白い木馬には、洗車を怠った車によく見られる黒い筋が浮かび、回転する鉄製の床は腐食して、所々に穴が開いている。そこかしこに貼られた鏡は錆と埃で曇り、そこに映るのは不明瞭な景色だ。かつてきらびやかだった姿は、もう見る影もない。
「一緒に乗ろう?」と、少女は言った。
もちろん彼は、ジェットコースターの方が良いのではと、妥当な提案をする。小学生男子の彼が、アドレナリンと無関係な遊具に、小遣いを叩いてまで乗るだけの価値を見出せないのは当然のことだった。しかし、少女は頑固に首を振った。結局のところ、彼は彼女の言いなりになるしかなかった。同じクラスの女子である彼女に、好きだと告白したのは彼で、それなら次の日曜日にデートしましょうと誘われ、二つ返事で受けたのも彼だったからだ。ただし、馬車に並んで座る事だけは断固として拒否した。
少年は少女が座る馬車の隣りの木馬に跨った。はじめは座席の上で不満げに唇を尖らせていた彼女だったが、彼が馬上から身を乗り出して手を伸ばすと、笑顔になってその手を取った。電飾の輝きと、それを反射する鏡の光の中で、少年は今を少しだけ幸せに思い、時間が来て回転が止まるのを、少しだけ残念に思った。
記憶が作り上げた白昼夢から目覚めると、彼はすぐに猫の姿を探した。ふと見ると、彼女はトカゲを地面に置き、毛繕いをしながら彼を待っていた。待たせたことを再び詫びると、彼女は何も言わずトカゲを咥えて歩き出した。
「次はどこへ行く?」と、少女は目を輝かせて訊いてくる。
「観覧車はどうかな」と、彼は答える。
「だめよ。あれは最後」
「どうして?」
少年がたずねると、彼女は顔を赤くして彼の耳元に口を寄せた。少女の香りが鼻孔をくすぐり、心臓がどきりと胸の中で跳ねた。
「デートの最後はキスをしなきゃでしょ。観覧車のてっぺんで?」
驚いて彼女を見ると、その顔は真っ赤だった。
「今、乗りたい」それは反射的に口を突いて出た言葉だった。少女は目をぱちくりさせ、ますます顔を赤らめて、しばらく彼をじっと見つめていたが、しまいにはとうとう一つうなずいた。
幼いカップルは観覧車に乗りこみ、はじめは向かい合って座ったが、一周して地上へ戻った時には同じ座席に並んで座っていた。係員の老人は「もう一周するかい?」と笑いながら聞いてきたが、彼らは揃って首を振り、慌ててゴンドラを飛び出した。
少年と少女は手を繋いで歩きながら、しばらく互いに黙りこくっていた。少年は何かをしゃべるべきだと考えたが、言葉は一つも浮かんでこなかった。結局、先に口を開いたのは少女だった。赤い顔に悪戯っぽく笑みを浮かべ、「あとで、また乗ろう?」と言うのだ。少年は馬鹿みたいに頷くことしかできなかった。
今や、その観覧車は、放射状に錆びくれた腕を伸ばすだけの、無意味なオブジェに成り下がっている。二人を運んだゴンドラは、すでに撤去されていた。思い出の場所を失い、冷たい失望を味わっていると、猫がこちらを睨んでいることに気付いた。さっさと来いとでも言いたげな顔に、彼は足を動かした。
間もなくたどり着いたのは、ピエロの頭を模した建物だった。彼がここへ入ったのは、ただの一度きりで、少女とのデートで訪れたのが、最初で最後だ。
「競争する?」
少年がミラーハウスに初挑戦であることを知ると、少女は恋人役を忘れ、子供らしい負けん気を発揮した。もちろん、少年は受けて立った。明らかに彼女は、少なくとも一度はここを攻略している。少年は、自分に勝ち目がないことを承知していたが、少女に花を持たせ、いい気分にさせておくことに損はないと考えた。このあと、また二人で観覧車に乗るのだから、彼女には仏頂面よりも笑顔でいて欲しい。
けばけばしい赤色をした、ピエロの口の横に立つ係員にチケットを渡し、扉を抜けるなり少女は駆けだした。少年は手を抜いたと思われることを恐れ、全力で彼女を追った。しかし、彼は散々迷い、長らく迷路の中をさ迷い歩いた。そして、どうにかたどり着いた出口に少女の姿はなく、彼は閉園時間まで待ちぼうけた挙句、彼女は少年の何かに腹を立て、先に帰ってしまったのだと結論付け、家路についた。
翌日の月曜日、重苦しい気分を味わいながら彼は登校する。置いてきぼりはひどいと彼女をなじるべきか、はたまた身に覚えのない失態について謝るべきか。しかし、それはいずれも果たされなかった。教室に彼が恋した少女の姿はなく、それどころか彼女の机すらなかった。友人たちにたずねても、そんな女子は知らないと言うし、他の女子も同じ答えを返してきた。担任の出席簿も覗き見たが、やはりそこに彼女の名は無い。それで、ようやく彼は確信した。あの時、あのミラーハウスで、何か奇妙で恐ろしいことが、彼女の身の上に起こったのだ。
以来、彼はこの遊園地を訪れるたび、必ずミラーハウスの前へ足を運んだ。彼女は、きっとこの中で、彼が助けに来るのを待っているに違いない。しかし、言い知れぬ恐怖が、そこへ踏み込もうとする彼の足を留めた。そうして何もできないまま日々が過ぎ、いつしか彼が、この遊園地を訪れることもなくなった。
猫はミラーハウスの扉の前に来て、トカゲを地面に置いてから、振り向いてにゃあと鳴いた。彼が歩み寄って扉を開くと、彼女は再びトカゲを咥えて中へ飛び込んだ。彼はあ然とそれを見送り、すると自分はこのためだけに呼ばれたのだろうかと考え、苦笑いを浮かべた。となれば、彼はもう用済みであり、自由だった。この朽ちた遊園地を出て、遅刻の言い訳を考えながら仕事へ向かうもよし、あるいは――いや、他の選択肢などない。このささやかな冒険に見切りをつけ、再び日常へと戻る以外に彼がたどる道はないのだ。何よりも、例のいわれのない恐怖が彼を縛っている。姿を消した少女を探しに、鏡の迷路へ足を踏み入れることなど、できるはずがなかった。
彼は息をのみ、扉に掛けられたままの自分の手を見た。選択肢はあったのだ。ただ、虚ろな恐怖を乗り越えさえすれば、彼はそれを選び取ることができる。何より彼はもう大人で、実体のない影におびえるほどの想像力は、もう持ち合わせていない。
扉を開け放ち、彼は凍り付いた。ピンク色の巨大なウサギの頭が、通路の真ん中に置かれていた。それは、この遊園地のマスコットキャラクターの着ぐるみで、おそらく廃園の際、始末に困ってここに放り込まれていたのだろう。驚かされた腹いせに蹴飛ばすと、その下から艶のある黒っぽい甲虫が何匹も這い出してきた。彼は怖気を覚えながら、急いで迷路の奥へと進んだ。
無数の鏡に映る無数の少女が、駆けながら少しだけ意地悪な笑みを浮かべ、肩越しに彼を一瞥した。少年ははぐれまいと彼女の背を追い掛け、ずいぶん進んだところで、それが鏡の作りだした虚像であることに気付いた。自分がすっかり迷ってしまったことを知り、このまま出られないのではないかと言う不安が、心臓を締め上げた。
「こっち、こっち」
少女の声が聞こえ、少年はほっと安堵の息をもらす。彼は声を頼りに迷路を駆け続けた。こんなに迷っては、きっと彼女に笑われるに違いない。いや、すでに彼女のくすくす笑う声は、先ほどからずっと彼の耳に届いている。迷路に翻弄され、右往左往する彼を、きっとどこかの角からか眺めて楽しんでいるのだ。なんて意地悪な女の子だろうと彼は腹を立て、観覧車の中で感じた少女の柔らかな唇を不意に思い出し、すぐに彼女を赦した。
「こっち、こっち」
例の恐怖が湧き起り、彼は思わず足を止めた。この声はなんだ。わかっている。彼女の声だ。しかし、そんなことがあるだろうか。彼女はもう二十年以上も前に、ここで姿を消している。いや、そもそもあの少女は実在したのだろうか。クラスメートたちは誰も彼女を知らず、出席簿にすら名前がないとなれば、あれは彼の想像が生んだ幻ではないのか。仕事を放り出してまで探す意味など無い。さっさと、こんな廃墟を抜け出して、バスに乗るべきだ。そうして会社へ行き、上司の小言を聞いてから自分のデスクへ向かい、同僚のからかいを適当にあしらって、終業時間まで益体もない数字の列と格闘する――彼は頭を振って、その考えを追い出した。そもそも、自分は何のためにこんなところへ足を踏み入れたのか。彼女が幻かどうかについては、扉を抜ける前に考えることだ。それに彼は、彼女の笑顔を、においを、唇の感触を、はっきりと覚えている。世界は彼女を否定するが、彼は彼女を忘れていない。それで、もうじゅうぶんだった。
彼は決然と足を進めた。角を一つ折れたところで、あの雌猫と目が合った。彼女はにゃあと一つ鳴き、床の上のトカゲを咥え、尻尾を立てて歩き出した。迷いのないその足取りが、彼の恐怖をぬぐい去った。間もなく猫は角を折れ、姿を消した。
「ありがとう」と言う、少女の声が響いた。
足を早め、同じ角を曲がるとそこは袋小路で、床の上にしゃがみ込んで猫を撫でる少女がいた。髪が長く、肌も白くて人形のように愛らしい、彼が恋してやまない少女だ。彼女の前には、あのトカゲの死体がぽつりと置いてあった。
「でも私、トカゲは食べられないわ」少女はくすくす笑ってから顔を上げ、彼に目を向けた。「遅かったのね?」
「ごめん」
「迷った?」
「うん」彼はうなずいた。「ものすごく迷った」
「大変だったわね」少女は猫の耳の後ろを掻きながら言った。
「ひょっとして、ずっと見てたの?」
「そうね」少女は少し、きまりの悪い顔をした。「実を言うと、ずっと見てたわ」
「それなら、もっと早く助けてくれてもよかったんじゃない?」
「あら」と、少女は意地悪な笑みを浮かべた。「あなたが私を助けに来てくれたんじゃないの?」
「それは、そうだけど」彼は言って、少女から目をそらした。鏡の中から、ふくれっ面の少年がこちらを見ている。彼らは意地悪な女の子に仕返しが必要だと考え、互いにこっそりとうなずき合ってから、少女に向き直った。「パンツ見えてるよ」
少女は慌てて立ち上がり、驚いた猫が素早く退いて彼女から距離を取った。
「そう言うことは、見えてても黙ってた方がいいわ」少女は目を三角にして、ミニスカートの裾を押さえた。「そろそろ行く?」
「そうだね」彼はうなずき、少女に手を差し出した。「この後はどうする?」
「約束したでしょ?」少女は頬を染めて、彼の手を取った。その時になって、彼は少女の手を握る手と反対の手に、重たい鞄を提げていることに気付いた。彼は鞄を放り出し、少女の手を引いて歩き出した。鏡越しに、あの猫が二人のあとを付いて来るのが見えた。
不意に、例の恐怖が彼の中で頭をもたげた。自分は何をしている。いるはずのない少女と手をつなぎ、この奇怪な迷路を脱出しようとしている? 彼女は何者なのか。なぜ彼女は、世界から存在を消したのか。なぜ彼女は、ここで彼を待っていたのか。なぜ、彼女は彼の心を奪ったのか。彼女の向かう先は、本当に出口なのか。
だから、何?
彼は自分の恐怖に問いかけた。恐怖は面食らった様子で黙り込んだ。たぶん――と、彼は拗ねた恐怖に言い訳した。あの日から彼は、ずっと鏡の迷路をさまよい続けていたのだ。何もかもそっくりに見える虚像の世界を生き、今、ようやく本来の世界へと戻ってくることができた。とんでもない遠廻りをしたものだと、隣の少女を見た。視線に気付いた少女は目を輝かせ、彼に視線を返す。
「ちょっと考えたんだけど」少年は言った。「どうして、観覧車じゃないとだめなの?」
「だって」少女は足を止めた。「観覧車なら二人きりだから、他の人に見られずにすむでしょ?」
「今も二人きりだよ?」
「猫がいるじゃない」
少年が目を向けると、猫はそっぽを向いて毛繕いを始めた。彼は少女に向き直り、言った。「何も見てないってさ」
少女は少年をじっと見つめ、しばらく経ってから言った。「エッチ」
「君は、そう言うのは嫌い?」
少年が意地悪く聞くと、少女はぷいとそっぽを向いた。しかし、彼女はすぐに少年を向いて、顔を上向けてから目を閉じた。また、あの恐怖が何事かをささやくが、彼はもう耳を貸さなかった。何であろうと、彼は今、幸せだった。
(7/7)誤字修正