下
「真澄、今日休み?」
「んー……休みだよ」
「なら、デートしよ」
「あぁ、うん。デートね……………デート⁉︎」
お茶を飲むのを寸前で止められた私を褒めたい。もし、飲んでたら大惨事だよ。もう、机の上の新聞なんで古紙回収にも出せずに燃えるゴミ行き。さよーなら。大事な資源を無駄にしてはいけません。
いや、別に資源とかどうでもよくて、よくもないけど。突然、こいつは何を言い出すのか。
「せっかく休みなんだし、仕事も一段落ついたみたいだし…」
なぜ、私の仕事事情まで知っている。確かに、溜まっていたノルマを消化して、ここ最近はゆっくり出来ていたけど。ちゃんと毎晩、ベットで寝れているけど。
「俺は忘れているから、前まではどうだったかは知らないけど、偶には恋人らしいことをしてもいいのかなって。何かを思い出すきっかけになるかもしれないし」
何の悪気も無いことは、分かってる。だけど、あいつが何かを思い出そうとする度に、私の心は焦燥感に駆られる。あいつが恋人だと言う度に、私の心は罪悪感に満たされる。
「別に、そんなに頑張って思い出さなくても、大丈夫だよ」
何も思い出さなくていい。
今のまま、何も知らず、何も分からず、笑っていて。
「本当そればっかりだね………」
「えっ……?」
「ううん。何でもないよ。だとしても、忘れたままっていうのは何か嫌だし……早く思い出したいから。協力してくれない?」
………ずるいよ。
そんな顔で言われたら、断れないよ。
「……わかった。けど、遠出は駄目ね。もうお昼前だし、近場でね」
「ありがとう」
嬉しそうに笑うあいつを見ていると何だかどうでも良くなってきた。「真澄ー。早く準備しよー」なんて、何処となく浮き足立っているように見えるのは多分気のせいじゃないと思う。やっぱり、昔から変わらない。砂川は遠足の前日とか、わくわくし過ぎて眠れないタイプの人だったから、こんな風にそわそわしながら準備をしているところはよく見た。もちろん、結果、当日の朝は目を真っ赤に充血させて、移動中に寝ることになっていたけどね。だけど、移動中にエネルギーを貯めたのか、その後は誰よりも楽しんでいた。わーわー言って騒いでいる砂川の笑顔が大好きで、私はいつも見ていた。私の視線を何かと間違うのか「お前も来いよ‼︎」なんて振り返ってくれるのも、お年頃の女の子には男の子と遊ぶのに抵抗があって、なかなか動こうとしない私の手を「しょうがないなー」なんて呆れながら取ってくれるのも、文句をいう私に「うっせー。んなこと、ほっとけ」って笑ってくれるのも、全部大好きだった。砂川の笑顔が私は大好きだったのに、
今は何とも思わないのは、どうして。
*・゜゜・*:.。..。.:*・・*:.。. .。.:*・゜゜・*
結局、一緒に出かけると言ってもデートというよりは、ただの買い出しになってしまい、近くのスーパーの袋を片手に家に帰った。
「デートじゃなかったね」
「でも、一緒に、出かけられたから楽しかったよ」
もちろん、空いているお互いの手を握りながら………これ、すごく恥ずかしい…。「恋人です‼︎」って、世間の皆さんに発表しているみたいだし、うわぁー。公害、とか思われていないよね。大丈夫だよね。もうすぐ家だけど、ご近所さん誰も見ていないよね。
「今日は、ご飯手伝うね」
「別に、大丈夫だよ。せっかくの休みなんだから休んでて、ってその休みに外に連れ出した俺が言えるセリフでもないけ…ど………」
砂川の言葉が、不自然に尻窄みになった。
「ん?どうしたの?」
そのまま、立ち止まるものだから不覚にも繋いでしまっていた手によって、私の体が後ろへ傾いた。だけど、その原因たる本人の目に私なんかは映っていなかった。表情が全て抜け落ちた顔で呆然として、ある一点を見つめている。
その視線を追いかければ、部屋の前に一人の女性が立っていた。
ゆるく巻かれた茶色い髪は風に揺れていて、マフラーに顔をうずめて寒さに耐えている。マフラーから半分だけ覗いている顔の肌は真っ白で、少し鼻だけ赤くなっている。伏せられた目の睫毛も長く、上向きにカールしている。何処と無く儚い印象を受ける、可愛らしい女の子。
立っているのは間違いなく私の部屋の前だけど、私の記憶にこんな人はいないはずだけど……
「………み、なみ………?」
えっ?………今、名前を呼んだ?砂川が覚えているのは、砂川の家族や友達の数人だけのはず。その全員と私は認識がある。今、砂川が知っていて、私が知らない人なんていない……はず。それなのに、今……
砂川の声は小さくて、目の前にいた私が辛うじて聞き取れる程度だったのに、部屋の前の彼女の耳には届いたようで、瞼に隠されていた瞳ゆっくり開く。
「………洋くん?」
まるでここに私がいないかのように、二人の視線が絡み合い、そこに二人だけの世界があった。
正直、何が起こっているのか分からない。彼女が誰なのかも、何故ここにいるのかも、分からない。
「洋くんだよね」
洋くん?砂川のことをそんな風に呼ぶ人なんていた?
「ごめん、今更なのは分かってたけど、どうしても我慢できなくて」
申し訳なさそうにしながらも、はっきりした意志を持った目が私の上を通過する。
「ますみ……おれ………」
「砂川⁉︎」
言いかけた言葉を最後まで言えずに、頭を抱えるようにして、しゃがみこんでしまった。
慌てて呼び掛けたけど、聞こえているのか、いないのか、全く反応しない。
苦しそうに顔を歪めたまま、声にならない声が溢れてる。
落ち着くべきなのに、冷静になれと命じれば命じる程、砂川の荒い息と声が脳内に響きわたる。どうしよう。どうしたらいいの。何が起こってるのかわかんないよ。砂川は大丈夫なの?大丈夫だよね。死なないでよ。お願いだから。
「あの‼︎とりあえず中に‼︎」
ほとんど砂川に覆い被さるみたいになっていた私の肩を掴んで、半ば強引に上を向かせたのは、私の知らないその女性だった。
「…………あっ、はい‼︎」
私自身、混乱したままで、正直どうしたか覚えていないけど、おそらく二人で何とか砂川を部屋の中に入れて、ベットに寝かした。
「…………大丈夫ですね。ただ寝ているだけみたいです」
ベットサイドに座り込んで、砂川の様子をみていた彼女が、最後に掛け布団を肩まで掛けて、立ち上がりながら言った。
「そうですか。でも、すごいですね」
「これでも看護師をしてますから」
ふんわり笑った彼女に、思わず見惚れた。多分、砂川はこんな女の子が好きなんだろうな。
「………あの、とりあえず少し喋りませんか?ずっとこうしているわけにもいきませんし」
「そう、ですね」
「こちらへ、どうぞ」なんて言って、後は機械的な動きで、コーヒー片手に彼女の向かい側の席に着いた。
「突然お邪魔してしまって、すみません。『はまの みなみ』と言います」
そう言って、彼女はぺこりと頭を下げた。
浜野美波 。
何故か、漢字に変換されて脳裏をよぎった。なんでだろうって、思ったけどすぐに分かった。私は知ってたから、彼女のことを。あのクリスマスの日に、砂川のスマホに表示されていた名前だ。砂川の彼女の名前。
「瀬尾真澄です。はじめまして、ですよね?」
「そうですね。はじめまして」
「あの、今日はどのようなご用件で?」
「………今更なのは分かっているんです。けど、どうしてもお話ししたいことがあって…」
……本当、今更だね。
あれから、もう一ヶ月近く経っているのに、今更彼女面?ふざけないでよ。
「話って、何も話すことなんてないと思いますけどね」
多分、今、私の口角は嫌な感じに上がっているんだろうなぁ。
「去年のクリスマス。洋くんが事故にあったクリスマス。あの日の話をしたいんです」
「そうですか。けど、あの日のことなら、よく覚えていますし、今更改めて話さなくても、大丈夫ですよ」
忘れられるはずないでしょ。全てを変えてしまった、あの日のことを。
「でも、『私』から視た、あの日のことはご存知ないですよね。その話をさせて下さい」
「………どうぞ」
「ありがとうございます」
「けど、その話に私は関係無いのではないですか?あなたが、その話をしに来たのは私ではなく、砂川にでしょう?」
「もちろん、洋くんにも話すつもりです。けど、あなたにも話すつもりでした。あなたにも関係のある話ですから」
「関係がある?私に?」
私に関係が有るにしろ、無いにしろ、それが一ヶ月の間、何もしなかったことの理由にはならないし、今更何をされたって正直、鼻で嗤うけど。
「あのクリスマスの日、私は、偶然、お昼頃に駅前を通ったんです」
出来たら要点だけ手短に話て欲しいなぁ。って、そんな考えを隠そうともしないで、露骨に表している私の態度は相当嫌な感じなんだろうな。
「それで、信号待ちをしている間、何となく向かいにあったファミレスを眺めていたんです」
どうでもいい。この話はいつまで続くのかなぁ。
「あのクリスマスの日のお昼頃、駅前のファミレスを、私は見いてたんです」
…………え?
「そこで、洋くんは、私の知らない女性と会っていました」
…………。
「洋くんは、その人から何かプレゼントをもらっていました。最初は見間違いだろうって思いました。他人の空似だろって。けど、何処からどう見ても洋くんで、私、どうしていいか分からなくなっちゃって、そのまま家に帰りました。
けど、どうしても冷静になれなくて、洋くんに電話をかけました。3コール目くらいに洋くんが出てくれて、さすがに別の女の人に会っている目の前で、電話に出るようなことは無いだろうと思って安心しました。けど、最後の最後、切ろうと思った時に女の人の声が入ったんです」
『……彼女さん?』砂川が電話を切るか、切らないかくらいに、砂川に話しかけた私の声が頭で響く。
「内容までは聞き取れませんでしたから、偶々近くにいた女性の方の声かもしれませんし、そもそも洋くんの知り合いでない可能性もありました。けれど、その時の私には『女性が傍にいる』。ただ、その事実が駅前で見たあの光景が見間違いではなかったのだと判断するには充分でした。
困惑しましたし、何度も否定しました。けれど、上手くいかなくて、何も出来ないまま待ち合わせの時間が迫ってきました。自分で確認の電話までかけた手前、約束にいかないわけにはいきませんでしたから、家を出ました。
待ち合わせ場所で惚けていると、いつの間にか洋くんが来ていて『どうした?』って、いつもと変わらない笑顔で聞いてくれて、その時に思いました。あぁ、この笑顔をあの女性にも向けているんだなぁ、って。そうしたら、何だか、悲しくなってきちゃって、碌に考えもせず『別れよう』って言いました。
私は、とりあえず落ち着きたくて、そこから逃げ出しました。
2、3秒、洋くんは固まっていたみたいでしたけど、すぐに、追いかけていました。まぁ、当然ですよね。約束の場所に行ったら、会って早々に、別れようなんて言われたら、誰だって相手を追いかけますもんね」
自嘲するように、力無く笑う姿を見ながら、少しずつ呼吸が浅くなるのを感じた。
『止めて、聞きたくない』そんな思いと『続けて、聞くべきだから』そんな思いが私の頭で交錯し、手足を震わせた。
「そして、走っている内に、追いかけっこみたいになってしまいました。クリスマスの夜のデートスポットの周辺でしたから、幸か不幸か、道は人で溢れかえっていて、私が追いつかれることはありませんでした。むしろ差は開いていくくらいでした」
そこで少し間が空いて、手の中のカップのコーヒーを回した。
やがて、覚悟を決めるように息を吐いて、私の目を見る。
「お互い相手のことしか考えていない追いかけっこのまま、私は信号が青く点滅した横断歩道に飛び込みました。
といっても、その時は信号を見る余裕なんてありませんでしたから、あくまでもその後の推測に過ぎませんけど………。私の後方を数秒遅れで走ってきた洋くんが横断歩道に飛び込んだ時、信号は赤く輝いていました」
心臓がうるさい。
全身から熱が消え失せ、手足は震えているのに、身体中からの汗は止まらなかった。
「私が聞いたのは鈍い衝撃音と大勢の悲鳴です。正直振り返るのは怖かった。けど振り返らずにはいられなかった。集まり始めた人を掻き分けて中心に出た。そこにいたのは、頭から血を流した洋くんでした。そこからのことはよく覚えていません。ただ、看護師としての私が応急処置や安全確保など、対応をしたみたいです。幸い救急車はすぐに来ました。けど、救急隊員から私は、ただその場に居合わせただけの看護師だと思われたみたいで同乗するようには言われませんでしたし、頭が真っ白だった私は同乗せず、離れていく救急車のサイレンを聞いていました」
………関係ないどころか、全部私の所為だ。私が砂川を呼び出さなければ、こんな事にはならなかった。私が調子に乗って、二人きりで会うようなことをしなければ、こんな事にはならなかった。
私の我儘が全ての原因だった。
「偶然、洋くんが入院した病院は私の勤務先でしたから、洋くんの意識が回復したことも、記憶が抜けてしまっていることも知っていましたし、会いに行こうと思えば、すぐに会いに行けました。実際、会いに行ったこともありました。けど、病室にいたのは洋くんだけではなくて、あのファミレスで見た女性もいました。私が想像していた通り、洋くんが笑顔を別の女性に向けている光景が現実にあって、単純に苦しかった。だから、もうやめようって思いました。別れも告げて、洋くんと私は、もうただの知り合いでしかない。そう思おうとしました。けど、そんなこと出来なくて、今日までずっと、未練がましく、ずるずるとその思いを引きずっていました。けど、二、三日前に偶然、樹増君に会いました」
樹増?翔のこと?
「樹増君と洋くんと私は、学科は違いましたけど、大学が同じで、同じサークルに入っていたので、大学時代はよく一緒に遊びました。けど、社会人になってからはあまり会わなくなっていたので、久しぶりで、何か話をしようということで近くのお店に入りました。ひと段落したあたりで、樹増君が最近、どうなのかと聞いてくるので、いろいろあって別れたと伝えました。けれど、樹増君は納得しませんでした。別れそうな気配が全く無かったのに何があったのか、って。私は、先ほどと同じような話をしました。話終えると、樹増君は少し考えるような素振りをして、スマホをいじり始めて、
『なぁ、ファミレスで見た女って、こいつ?』
って、ある写真を見せられました。その写真には、洋くんと樹増君と、その女性が映っていました。楽しそうに、肩を組みながら、笑っている3人が映っていました。
どういうことか分かりませんでしたし、物凄く驚きました。それから、三人が幼馴染で、幼稚園の頃からの付き合いなのだと聞きました。だから、全部、私の早とちりではないのかと。
『もう一度、冷静に話し合え』と、ここの住所も、今、洋くんと一緒に暮らしてい女性の方がいることも聞いて、今日ここに来ました」
話は終わりだと言うように、短く息を吐きコーヒーを一口、口に含む彼女を私は見ていた。
全部、私の所為だった。
彼女さんが勘違いをしたのも。二人の間に亀裂を入れたのも。恋人同士で幸せになるはずのクリスマスをめちゃくちゃにしたのも。
砂川が事故に遭ったのも。
全部、私の所為だった。
なのに、私は、一体、何をしているんだろう。
身勝手な我儘を通して、自己満足に浸って、私だけ笑ってた。
みんな、私所為で苦しんでいたのに。私だけ、幸せだった。
私だけ幸せだった。
「………なんだ、そうだったんですね。じゃあ、もう、全部解決ですね」
怖い。この一ヶ月間、ずっと守り続けた、この世界が終わりに告げる、このことが、物凄く怖い。心臓の音が全身を震わせ、背中から冷たい水が流れ落ちる。何も見えない。何も聞こえない。
何も、分からない。
「今の話を砂川にもしたら、全部思い出すだろうし、ちゃんと話合ったら誤解も解けて、全部解決ですね‼︎」
笑え。この一ヶ月間、ずっと騙し続けた、償いとして。私にこの現実を拒むことなんて出来はしないのだから。
今、全てを受け入れよう。
「……あなたは、それでいいんですか?」
私の反応は予想外だったみたいで、困惑した目を向けられた。
けれど、良いも何も、私には受け入れるしか出来ないよ。
偽りの世界は真実という名の世界の前では呆気なく崩壊していく。それは止められないのだから。
馬鹿みたいに笑って、楽しそうに荷物をまとめて、転がり出るように私は、空虚な世界から逃げ出した。
電車を乗り継ぎ、タクシーに乗って、とにかく逃げた。
初めから、私の居場所なんて無かった。砂川の世界に私の居場所は無かった。
素敵な王子様には、素敵なお姫様がいる。二人が笑い合って、周りも幸せになって、みんなでハッピーエンド。そうなるように出来ている。
やっぱり、この世に神様はいるんだ。
たった一人のモブがどう足掻こうと、王子様の隣で笑うことは出来ない。
たった一人のモブが泣こうと王子様がその涙を拭いてくれることはない。
たった一人のモブが叫ぼうと、
──誰の耳にも届かない。