薔薇園の少女
すごすごと立ち去る少年を見送る庭師の背中に向けて、揶揄するような少女の声が響いた。
「ちょっと、大げさなんじゃなぁい?」
庭師がその声を無視して自分の持ち場に戻ろうとすると、声の主が追いかけてきた。
が、長いドレスの裾を踏んで、派手に転ぶ。
「……きゃっ」
その音と声を聞いて振り向いた庭師が慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか? お嬢様」
助け起こそうとした腕を、少女が鷲掴みにする。
「…………捕まえた」
そうつぶやいて少女がおもむろに体を起こす。
「やっぱりこの手はよく効くわね」
その言葉を聞いて庭師が本日何度目かの溜め息をついた。どうやら少女はわざと転んだと見える。
幼い頃からこの手で足止めをしてきているので、転ぶ真似は頗る巧い。
「よく効くわね、じゃないでしょう。放置しておいて、もし万一お嬢様に何かあったら……」
「あったら?」
少女が庭師の顔を興味深そうに覗き込む。
「私が旦那様に叱られてしまいます」
「……それだけ?」
「………………事と次第によっては、私はここを追い出されるかもしれません」
「そうじゃなくて……っ」
少女が苛立たしげに首を振る。
「まあいいわ。あんた最近わたしの事避けてない?」
「避けています」
あっさり肯定されると思っていなかった少女が、一瞬、言葉に詰まる。もし、そんな事はない、と否定されたら、滔々と事例を並べて責め立ててやろうと準備していたのだ。
「……何で?」
庭師が少女の手を引いて、立ち上がらせながら、相手に言い聞かせるように言葉を口にする。
「嫁入り前の、年頃の、良家のお嬢様が、家族でもない男性と、親しくするのはまずいでしょう? 特に、使用人階級の者とは」
少女が怪訝な表情を浮かべる。相手が自分との間に隔てを置こうとするのは、ここ数年よくある事だが、今まで『身分』を持ち出した事はなかったので。
「兄妹同然に育ったのに?」
少女が長身の庭師の顔を見上げて睨みつける。
「兄妹同然でも、です。実の兄妹ではないのですから」
「……理不尽だわ。逆ならアリなのに」
少女が忌々しげにつぶやく。
理不尽と言われても、世間とはそういうものなのだから仕方がない。
それにしても、逆ならアリとは何を指すのか、と庭師が首を傾げる。
……もしかしたらアレか。彼女が今ハマっているとかいう恋愛小説。
全く以て傍迷惑な。
「……とにかく、お怪我がないようでしたら、館の方にお戻りください。坊ちゃまが余計な仕事を増やしてくれたせいで忙しいんです」
少女のペースに巻き込まれまいと我に返った庭師が、咳払いした後、早口でそう言う。
「余計な仕事?」
「見てらっしゃらなかったのですか?」
「何を?」
義弟のした悪戯は見ていなくて、叱られていたところを見かけただけか。
「……薔薇を定植しようと準備していたところに、食べ残しのニンジンを埋められたのです。明日は天気が崩れそうなので、今日中に植え付けを済ませてしまいたかったんですが……しばらく延期にしなくてはならないかもしれません。お嬢様まで邪魔をなさるようなら、もっと遅くなるでしょうね」
庭師が無意識の動作で古傷の残る左腕を撫でる。
「だったら、手伝うわ」
庭師の左腕の傷は、少女が子供の頃のやんちゃのせいで負ったものだ。日常の動作には支障がないが、重いものを運ぶ時などに多少不自由しているのは少女も知っている。
「ご遠慮願います。坊ちゃまにも申しあげましたが、薔薇は繊細な植物ですので。余計な手出しをなさらないでください」
言外に、素人が手を出すな、と言われて少女がむっとする。
「……わかったわ。お仕事、頑張ってちょうだい、ね」
吐き捨てるようにそう言うと、少女が踵を返して駆けだす。長いスカートの裾を、転ばないように器用にたくしあげながら。