亭主関白のはずの吾輩
吾輩はペンギンである。
一家の主である。
少なくとも、そのつもりで生きてきた。
見た目で判断してはならぬ。
たしかに吾輩は、全体的に丸い。
歩けばよちよちするし、立っていれば妙に愛嬌があるらしい。
だが、それと威厳は別問題である。
可愛いと頼もしいは両立する。
少なくとも吾輩の中ではしている。
そもそも、夫たるもの、家庭の中心にどっしり構えていてこそである。
進むべき方角を示し、危うい時には前に出て、日々の営みにぶれぬ柱を通す。
そういうものを、吾輩は理想としてきた。
ゆえに吾輩は、つがいとなった当初から、それなりに威厳を意識していた。
胸を張る。
声を低めに出す。
少し先を歩く。
振り返る時はゆっくり振り返る。
大事なのは雰囲気である。
家庭というものは、案外そういう演出で回る部分がある。
ところが、である。
現実の我が家は、どうにも吾輩の理想どおりには進まぬ。
「あなた、そっちは風が強いわ」 と奥様が言う。
吾輩は、いや、こちらの方が景色がよい、と答える。
すると奥様は、景色ではなく卵のことを考えてくださいな、と返す。
まったくもって正論である。
正論ではあるが、そう毎度正面から斬られると、こちらの威厳というものにも少しは配慮していただきたい気持ちになる。
ペンギンは、種類にもよるが、基本的に夫婦で子育てを行う例が多いと紹介されている。つがいで協力して繁殖し、役割を分けながら雛を育てるのである。つまり最初から、家庭運営は共同事業なのであって、一方だけが威張ってどうにかなる仕組みではないらしい。たいへん不都合な事実である。
もちろん吾輩だって、何もしていないわけではない。
立っているだけの夫ではないのである。
寒ければ耐える。
任された時は卵も温める。
必要とあらば海へも出る。
ただ、そのたびに奥様の指示が的確すぎるだけである。
「今よ」 「まだ早いわ」 「そこ、詰めて」 「あなた、今ちょっと雑です」
どうもおかしい。
吾輩の想像していた亭主関白像では、もう少しこう、夫のひと言で全体が動く予定だったのだ。
それが実際には、夫が動き、妻が全体を見ている。
気づけば吾輩は、主導しているつもりで、だいたい誘導されていた。
ある日、吾輩は思い切って聞いてみた。
「この家の方針は、誰が決めておるのだろうな」
奥様は首をかしげ、穏やかに答えた。
「気づいた人が決めております」
吾輩はしばらく黙った。
たいへん耳にやさしい言い方だが、内容としてはかなり厳しい。
要するに、気づくのが遅い方には決定権が回ってこないのである。
思い返せば、思い当たる節は多かった。
寒波が来る前に場所を見直したのも奥様。
餌の出方を読んで動いたのも奥様。
吾輩が、今日はなんとなく右な気がする、と言った時に、それは気分であって根拠ではありません、と静かに却下したのも奥様である。
ぐうの音も出ぬ。
だが吾輩にも、吾輩なりの言い分はある。
家庭に必要なのは、効率だけではない。
象徴も要る。
精神的支柱というものがある。
奥様が現実を回すなら、吾輩は理念を担えばよいのではないか。
そう考えた吾輩は、その日から少しだけ佇まいに気を配ることにした。
胸を張る。
風を受ける。
遠くを見る。
何かを知っている者の顔をする。
すると奥様が横で言った。
「格好つけてないで、そろそろ交代してくださいな」
吾輩は黙って持ち場についた。
ペンギンの繁殖では、雌雄が交代で抱卵する例が知られている。種類によって差はあるが、交代しながら卵を守ること自体は珍しくない。つまり家庭とは、威厳で保つものではなく、持ち回りで保つものなのかもしれぬ。そう考えると、吾輩の理想はだいぶ古風で、現場の実情にはあまり合っていない気もしてくる。
それでも吾輩は、亭主関白の夢を完全には捨てていない。
夢というものは、少し現実に負けたくらいでは消えぬからである。
ただ最近は、こうも思う。
本当に強い夫というのは、命令がうまい者ではなく、必要な時にちゃんと立ち続ける者なのではないか。
前に出るばかりが頼もしさではない。
寒い場所で黙って卵を守ること。
交代の時刻に遅れぬこと。
奥様の正論に耐え、すみやかに持ち場へ戻ること。
そういう地味な務めを果たす者こそ、案外一家の柱に近いのかもしれぬ。
もっとも、その境地に達したなどと奥様に言えば、
「やっと分かりましたか」
で終わる気もする。
まことに遺憾ながら、我が家は今日もだいたい奥様の見立てで回っている。
そして吾輩は、その中で精いっぱい胸を張っている。
亭主関白のはずだった。
はずだったが、現実は共同経営であった。
しかしまあ、それも悪くない。
なにしろ奥様が優秀なので、吾輩が少々見栄を張っていても、家はちゃんと回るのである。
一家の主とは、案外そういうものかもしれぬ。
表向きは威厳。
中身は全面協力。
そして最終判断は、だいたい奥様。
……いや、それでは本当にただの補助要員ではないか。
今のは聞かなかったことにしていただきたい。
吾輩にも、守るべき体面というものがあるのである。




