『ブレイン・アンカー』第三部 日常と異常の境界
第 21 章 昼
研究室の自動ドアを抜けると、昼下がりの空気は思いのほか重かった。
アスファルトの照り返しが、昨夜からモニターを見続けていた榊の目に痛い。
「昼でも食うか」
荒木が白衣を脱ぎながら言った。
二人は駅前の定食屋へ向かう。荒木が店先の張り紙を指差した。
「それ、今日まで?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
「店員に聞けば?」
「面倒くさい」
榊の横を二人の学生が通り過ぎる。
「今日、電車遅れてる?」
「さあ」
「見てないの?」
「スマホ、充電切れた」
パン屋の自動ドアが開き、自転車のベルが鳴る。配達トラックが赤信号で止まり、青になると何事もなく走り出した。
第 22 章 街
定食屋を出て、二人は病院へ向かった。
途中の交差点では、道路の舗装工事が始まっていて、警備員が黄色い旗を振っている。
病院の自動ドアをくぐり、受付の窓口へ歩く。
荒木が周囲を見回し、ぽつりと言った。
「ここ、昨日と同じ匂いだな」
「……昨日?」
「昨日も来ただろ」
「ああ」
榊は答えた。病院の自動ドアが閉まる音が、背後でした。
待合の椅子には高齢の女性が一人で座り、膝の上には診察券の入った透明なケースが置かれている。
第 23 章 空白
病棟の廊下は静かだった。
D-418の病室の前で、榊は小さな窓から中を覗いた。
患者は三年前と変わらない姿勢で天井を見つめていた。
しばらくして、ノックの音もなく看護師がカーテンを開けた。
「失礼します。D-418さん、体位変換しますね」
返事はない。
「今日は少し汗をかいてますね」
看護師は手際よくシーツを整え始めた。
榊はベッド脇のモニターを見た。心拍は一定だった。壁の時計の秒針だけが、規則正しく進んでいた。
看護師は軽く会釈し、そのまま静かに病室を出て行った。
第 24 章 帰路
空の端が茜色に染まり始めていた。
病院を出た二人は、言葉少なに駅へと歩く。
「腹減ったな」
荒木が首を鳴らしながら言った。
「途中のコンビニで何か買って帰るか」
「そうだな」
自動ドアが開き、店内の冷気が二人を包む。
「温めますか」
「あ、お願いします」
「袋どうします?」
「大丈夫です」
電子レンジから取り出された弁当の容器はまだ熱を持っていて、荒木はそれを両手で少し持ち替えた。
店員が「ありがとうございました」と言った。二人は同時に頭を下げて、店を出た。外の湿った夜気が、コンビニの冷気を塗り替えていく。
第 25 章 夜
研究室に戻り、二人はそれぞれのデスクに座った。
荒木は缶コーヒーのプルタブを引っ張り、疲れたように息を吐く。
「なあ、榊」
「ん?」
「俺たち、今日何食ったっけ」
「……昼は定食」
「夜は?」
「コンビニ」
「そっか」
荒木は一口飲んで、缶を机に置いた。
「……で、何調べてるんだっけな」
窓の外で、終電間際の電車が鉄路を揺らす音がガタゴトと響いていた。
第 26 章 午前四時十三分
深夜になり、研究室の照明は半分だけ落とされていた。モニターの青白い光だけが、二人の机を照らし出している。
モニターのタイムコードが静かに進む。
午前四時十二分。
榊の呼吸が、わずかに変わった。
午前四時十三分。
榊の目が、開いた。
しかし、榊は椅子から立ち上がらなかった。
荒木が息を呑み、手元の端末の時計を見る。
04:13:02。
榊は目を開けたまま、天井を見つめている。
04:13:05。
榊は動かなかった。
04:13:10。
荒木が小さく息を吐いた。
04:13:12。
窓の外を、静かに清掃車が通り過ぎていく。
荒木が立ち上がりかけた。
「何か食いに行くか」
「この時間、店やってるか?」
「駅の方なら……」
そのとき、荒木の視界の端で小さな表示が点滅した。
04:13:12
D-418 アクセス要求
「……榊」
「ん?」
荒木は画面を見たまま、答えなかった。
窓の外では、清掃車が交差点を曲がっていった。
(第三部ー完)




