死んだ会議と、電子の亡霊
東の空が、煤けた光を帯び始めた。一九四五年、三月十日の朝。
本郷の坂の下に広がっていたはずの街並みは、跡形もなかった。建物がすべて炭となり、燻り続ける巨大な火災の跡からは、太陽を遮るほどの重苦しい黒煙が立ち込めている。視界のすべてが墨をぶちまけたような「黒い平原」だ。
「……ひどい……」
ハナがその場にへたり込み、声を上げて泣き始めた。横たわる男は、煤で汚れた顔を歪め、死の臭いが充満する地獄のような朝焼けをただ静かに見つめている。
その時、私の懐でiPhoneが短く、けれど執拗に震えた。
『10:00 修正案提出・会議』
画面を覗き込む。電池は0%なのに、漆黒の液晶の上に通知が浮かぶ。
私は反射的にケンジへメッセージを送った。
『ケンジさん、ごめん、会議、出られない』
すぐに既読がつき、写真が送られてくる。
『え、どうしたんですか? 急な腹痛?
見てくださいよ、外、めちゃくちゃ晴れてます。
秋葉原は花粉がヤバいっす(笑)』
添付された写真には、二〇二五年の抜けるような青空。
ああ、朝だ。
あっちの世界では、コーヒーの香りがして、清潔なシーツがあって、花粉症の文句を言っている。
(……でも、私はもう、あそこには帰れないんだ)
ふいに、心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。
画面に映る青空が、あまりに遠い。この一九四五年の煤けた太陽の下で、私の肺は焼けた死骸の煙を吸い、私の足は熱を持った瓦礫を踏んでいる。
さっきまでなんとなく縋っていた「夢ではないか」という淡い期待が、0%の電池で動く電子の亡霊(iPhone)によって、残酷なまでの「境界線」として引き直された。
私はもう、歴史の観測者じゃない。この泥を啜り、血を流して生きるしかない「当事者」なのだ。
画面の向こうの彼は、まだあの穏やかな光の中にいる。ドラえもんが未来のセワシくんと当たり前のように会話するように、私もまた、この地獄にいながら「平和なあの時」のケンジとなぜか繋がっている。
私があっちを抜け出した「あの瞬間」から、彼の時間は一秒も進んでいないかのように、何も変わらない空気が漂っている。
「……ドラえもんかな、私は。とんだご都合主義なお話ね」
私は乾いた笑いをもらした。まつ毛には煤が降り積もり、喉は焼けた。こちら側には、青空なんてどこにもない。あるのは、すべてが燃え尽きた黒い世界だけだ。
「ケンジさん、悪いけど、その会議はもういいわ。代わりに、別のことを調べて。――今、私がいる本郷の坂の上。ここ、どういう場所?」
『あ、サオリさん。今いる場所、当時の古地図だと地主の大きな屋敷がある一帯ですね。戦後の混乱期に、そこを拠点にした一族がこのへんを仕切ったっていう記録がありますよ』
……なるほど。
私は画面を消し、立ち上がってスーツの汚れを乱暴に払った。
「……男の人。朝ですよ。……いい加減、いつまで寝てるんですか。ここは焼け残った。あなたの領地は、まだ無事ですよ」
男が、ゆっくりと体を起こした。煤で汚れた顔で、私の懐で明滅する「未来の青空」を冷徹に一瞥する。
「……お嬢さん。あんた、一体何者だ」
「……道案内ですよ。死なないための、最短ルートを知っているだけの」
私は男をまっすぐに見据えた。
感謝も同情もいらない。ただ、この場所の主であるこの男の「隣」を確保しなければならない。
「私の言うことに従って。……そうすれば、あなたを死なせない。……その代わり、私とハナさんも、絶対に死なせないで」
男は、喉の奥で低く笑った。そして、初めて己の名を口にした。
「……工藤……毅だ」
「工藤さん、ですね。よろしくお願いします」
工藤は煤まみれの顔を歪め、不敵に口角を上げた。
「面白い。……いいだろう。その『灯り』に導かれて、地獄の底まで付き合ってやろうじゃないか」
私のポケットの中では、何も知らないケンジが「あ、追加情報見つかりましたよ」と、八十一年前の「正解」をのんびりと提示し始めていた。




