6.逆走の『生存地図』
蔵の扉を蹴り開けて外に飛び出した瞬間、私は自分の選択を後悔しかけた。
視界の端から端まで、すべてがどす黒い赤色に染まっている。
「……あ……」
熱風で肺が焼ける。秋葉原から上野にかけての空が、文字通り「燃えて」いた。
空を埋め尽くす焼夷弾の風切り音と、バキバキと家屋が崩れる音。そのすべてが巨大な濁流となって、私たちの背後――死を待つ隅田川の方角へと流れている。
「おい、サオリ! やっぱり川だよ! あんなに人が行ってる、あっちに水があるんだよ!」
ハナが私の腕を脱臼しそうなほど強く引き戻そうとする。彼女の瞳には、炎以上に恐ろしい「周囲への同調」が浮かんでいた。
「ダメ、こっち! 蔵前通りは人が詰まる、路地に入るの!」
私はハナの震える手を掴み、東へ向かう群衆を「肩」で割りながら、無理やり西へと突き進んだ。
逆走は、想像を絶する暴力だった。
「どけどけぇッ! 邪魔だ、死にてぇのか!」
怒号が飛び、荷物を抱えた大人たちと正面からぶつかり、泥だらけの路面に突き飛ばされる。手の中には、電池が切れてただの重たい文鎮と化したiPhone。ケンジくんとの通信は途絶え、残量は0%。私はこの地獄に、たった一人で放り出されたんだ。
「あんた、狂ってるよ! みんな向こうへ行ってるじゃないか! こっちには火が回ってきてるんだよ!」
ハナが泣き叫ぶ。彼女にとって、誰もいない暗闇の西へ向かうのは、出口のない迷路に飛び込むのと同じに見えるはずだ。実際、数メートル先では民家が火を吹き、火の粉が吹雪のように舞っている。
(信じるしかない。私の足が覚えている、あの坂の上を……!)
営業靴として履き潰してきたパンプスのヒールが、瓦礫を踏んで嫌な音を立てて折れた。私はそれを引きちぎり、裸足に近い状態で走り続ける。
その時、横転した大八車の影に、不自然なほど動かない人影が見えた。
煤で汚れながらも、仕立ての良いスーツを身に纏った中年男性だ。足に焼夷弾の破片でも当たったのか、動けずに火の粉を浴びて震えている。
「……助け……助けてくれ……」
ハナが思わず足を止めた。
「……おい、あんた! 立てるかい!」
「ハナさん、ダメ、急がなきゃ!」
私は咄嗟に叫んだ。
薄情だと言われてもいい。後ろからは火が、前からは理性を失った人間が押し寄せてきている。自分たちが助かるだけで精一杯だ。
けれど、男の絶望しきった瞳と目が合った瞬間、私は胃のあたりが激しく疼くのを感じた。
これは、営業でミスをした時や、理不尽な上司に頭を下げなきゃいけない時に感じる、あの「不快感」だ。
(ここで見捨てて逃げたら……私は一生、この感触を忘れない)
二〇二五年、冷房の効いたオフィスでコーヒーを飲んでいる時に、ふとした拍子に「あの時、一人殺した」と思い出す。そんな呪いを背負って生きていくのは、死ぬより真っ平ごめんだ。
「……っ、もう! 分かったわよ!」
私は地面に落ちていた太い竹の棒を拾い上げ、男の前に突き出した。
「ハナさん、反対側を持って! 一緒に運ぶわよ!」
「えっ? こっちに行くのも間違いかもしれないのに、病人まで連れていくのかい!? 重くて走れなくなるよ!」
「一人で逃げるより、三人の方が怖くないでしょ! それに……」
私は、震える手で男の腕を自分の肩に回した。生身の人間の重みが、ずしりと私の身体に「生」の責任を突きつける。
「……見捨てて逃げたら、私の『営業成績』に関わるから! 契約不履行なのよ!」
わけのわからない言い訳を叫びながら、私は男を無理やり担ぎ上げた。
「……すまない……済まないお嬢さん……」
男の謝罪を無視して、私は前だけを見た。
本郷。湯島。坂の上。
一分一秒を争う状況で、私たちは最も効率の悪い「三人四脚」で、猛火の迷宮を北へ、北へと走り出した。




