1%の断絶、本郷への坂
――ヒュルヒュルヒュルヒュル!!
蔵の土壁越しに、空を切り裂くような不気味な風切り音が降り注ぐ。直後、近くの屋根を何かが突き破る「バリバリッ」という破壊音と、ガソリンが爆ぜるような「ボフッ」という不快な音が重なった。
ナパーム弾だ。
B29が撒き散らしているのは、ただの爆弾じゃない。街を、人を、根こそぎ焼き殺すための火の雨。
私は、明滅を繰り返すiPhoneを両手で包むように握りしめている。
『1%』
もう、いつ切れてもおかしくない。
画面は勝手に暗くなり、スピーカーからは砂嵐のようなノイズが溢れ出していた。
「……リ……さん……聞こえ……っ……隅田川……っ……絶対……だめ……っす……」
ケンジさんの声が、遠い異次元からの通信のように途切れる。
「ケンジさん! よく聞こえない! 何がダメなの!?」
叫んだ直後、蔵の扉を叩く音が、悲鳴と共に一段と激しくなった。
「開けてくれ! 頼む! 川まで持たないんだ!」
「熱い! 熱いよぉ!!」
扉の隙間から、目に刺さるような白い煙が、細い糸のように入り込み始めていた。外はもう、呼吸すらできない焦熱地獄になっている。
「もうダメだよ、ここにいたら蒸し焼きだ!」
ハナがガタガタと震えながら、閂を必死に押さえつけて叫ぶ。
「川へ行こう! 隅田川へ! あそこまで行けば水がある、みんなあっちへ逃げてるんだ、助かるんだよ!」
「ダメ……ケンジさんが、ダメだって……」
「何がダメなんだい! このままじゃ、あんたもあたしも、ここで炭になっちまうんだよ!」
ハナの叫びは正しい。この地獄の中、誰もが「水」を求めて東の隅田川へ走っている。
けれど、iPhoneから漏れたケンジさんの断片的な怒号が、私の脳にこびりついて離れない。
『……隅田川……行くな……ネットに……っ……そこが……一番死ぬって……書いてある……っ……!!』
「……っ……!」
その瞬間、画面の光が一段と細くなり、最後の一絞りでケンジさんの声が響いた。
『……サオリさん、信じて……! 川は……ダメだ……扉を……開けるな……っ!』
ブツッ。
嫌な音を立てて、液晶が黒く沈んだ。
――電池切れ。
本当の暗闇が、蔵の中を支配した。
ケンジさんの声も、二〇二五年との繋がりも、全部消えた。
ただの冷たい鉄の塊になったスマホを抱きしめて、私は真っ暗闇の中で震えた。
「ハナさん……待って、行かないで」
「離しなよ! 死にたいのかい!」
ハナが私の腕を振り払い、閂に手をかける。
このままでは、彼女に押し切られて隅田川へ向かうことになる。あっちへ行けば死ぬ。ケンジさんはそう言った。でも、どこへ行けばいい?
その時、パニックでぐちゃぐちゃになった頭の中に、ふっと「ある景色」が浮かんだ。
(あそこ……本郷の、あの坂の上……)
営業の外回りで、何度も、何度もパンプスを鳴らして歩いた場所。
本郷の台地。東大の周り。
あそこには、すごく古い門や、レンガ造りの建物が、当たり前のように二〇二五年まで残っていた。
「残っていた」ってことは、今夜、あそこは燃えないんだ。
高卒で営業一筋の私が、歴史なんて詳しいはずがない。でも、自分の足で歩いて、自分の目で見た「二〇二五年の景色」だけは信じられた。
「本郷! 本郷の方へ行くの!」
私はハナの肩を強く掴み返した。
「隅田川はダメ。人が多すぎて全滅する。坂を上がるのよ、妻恋坂を越えて、山手の方……本郷の台地まで逃げるの!」
「何言ってんだい、あっちに水なんてないよ!」
「いいから! あそこは燃えないの、私は知ってるの! お願い、私を信じて!」
何の根拠もない。けれど、私はかつての「営業スマイル」をかなぐり捨て、必死の形相でハナを睨みつけた。
ゴォォォォ……ッ!
蔵の外で、火災旋風が空気を吸い込む巨大な唸り声が聞こえる。
「……わかったよ。あんた、死んだら承知しないからね!」
ハナが叫びながら、閂を跳ね上げた。
扉が開いた瞬間、蔵の中に流れ込んできたのは、熱風と、真っ赤に染まった夜の光だった。
私たちは、隅田川へ向かって濁流のように流れる人混みを逆走するように、西へ、山手の方角へと走り出した。




