残量4%の遺言
『4%』
右上の小さな数字が、今にも消え入りそうな細い赤色で私を嘲笑っている。
画面の明るさを最低にし、不要なアプリを全て落とす。営業の外回りで培った「電池を持たせる姑息なテクニック」を総動員するが、数字の減少は止まらない。
「……ケンジさん、聞こえますか」
声を潜めて呼びかける。スピーカーから漏れる声は、すでにノイズの海に沈みかけていた。
『……サオリ……さん……ビデオは……切って……。いいっすか、その4%は……あなたの命の……灯火と同じ……っす。絶対に、無駄な操作は……』
「わかってます。でも、消すのが怖いんです。これを消したら、私……」
このわずかな光を失えば、自分がいよいよ一九四五年の暗闇に飲み込まれ、二度と現代に戻れない気がした。
「……あんた、さっきから何をしてんだい」
暗闇の奥から、鋭い、けれど震える声が響いた。
一緒に逃げてきた、あの「もんぺ姿の少女」だ。
彼女は少し離れた場所で、火打ち石を打ち鳴らし、蔵に備え付けられていた古びた行灯に火を移した。揺れる灯が、彼女の泥だらけの顔を照らし出す。
「その、不気味に光る板。あんた、本当はスパイなんだろう。でなきゃ、見ず知らずの他人の蔵に、あんな迷いもせず飛び込めるはずがない」
少女の手には、瓦礫の中から拾ったのか、鋭い木片が握られていた。
「違います……! 私はただ、道に迷って……。これ、スパイの道具じゃありません。ただの、携帯……その、ライトの代わりなんです」
沙織は震える手で、スマホの画面を自分ではなくハナの方へ向けた。最低限にまで落とした光が、ハナの足元をぼんやりと照らす。
「見てください、武器なんて持ってません。私はただの、会社員で……」
「カイシャイン……?」
聞き慣れない言葉に、ハナの眉が不審げに跳ね上がった。けれど、目の前の女が震えながら必死に掲げているのが、自分を害するような鉄砲でも爆薬でもないことは伝わったらしい。ハナは警戒を完全には解かないまま、鼻を鳴らした。
「……変な格好だね。そんな薄っぺらな服で。あんた、どこの誰だい」
「サオリ、といいます。……そちらは?」
「……あたしはハナだ。この蔵の……いや、もう家なんてありゃしないか」
ハナ。
その響きだけを頭の隅で反芻した。けれど、それを深く考える余裕は一ミリも残っていない。
それよりも、意味がわからない。
なんで私は、こんな煤けた蔵の中で、古臭い喋り方の女の子と見つめ合っているんだろう。
さっきまで、私はゲーセンにいたはずだ。一息ついたら家に帰って、真っ白なままの修正案を朝までかかって仕上げるつもりだった。一行も、一文字も書いていない。
――ピロリン。
静寂を裂いたのは、カレンダーアプリの無慈悲な通知だった。
『3/10 10:00 修正案提出・会議』
画面の時計は、午前零時三十分。
「……っ、ふふ……あはは……っ」
笑いが漏れた。
日付が変わった。会議は「明日」ではなく「今日」になった。
あと九時間半後には、私は丸の内のビルにいなきゃいけない。
なのに、なんで私はここにいる? なんでB29が飛んでいる?
PCもない、資料もない。あるのは、切れかかったスマホ。
脳が、自分のいる場所を拒絶して、激しい吐き気がした。
「おかしいよ……。何が、会議だよ。なんで、私がこんな目に……っ!」
私は膝に顔を埋め、声を殺して泣き出した。
「歴史を生き抜く」なんて高尚な覚悟なんて微塵もない。ただ、わけのわからない状況に放り込まれた恐怖と、積み残した仕事への強迫観念が混ざり合って、心がズタズタに引き裂かれていく。
「……あんた、本当に頭が焼けちまったのかい」
ハナの声から、殺意が消えた。代わりに、呆れたような、ひどく悲しいような響きが混じった。
彼女は泥だらけの手を伸ばし、震える私の肩をそっと掴んだ。
「……今日なんて、誰にも来やしないんだよ。この火を見な。世界が全部、終わろうとしてるんだから」
ハナが私の隣に、ゆっくりと腰を下ろした。
『2%』
あと二回、この数字が動けば、私は「当たり前だった私の世界」との唯一の線を失う。
その時だった。
蔵の重厚な扉を、外から狂ったように叩く音が響き始めた。
「開けてくれ! 頼む、入れてくれ!!」
「熱い、熱いよおぉ!!」
逃げ場を失った人々の悲鳴が、土壁を越えて入り込んでくる。
ハナが顔を強張らせ、私の肩をさらに強く掴んだ。




