妻恋坂を右折せよ。液晶の光が導く生存ルート
「……十万人……?」
ケンジの声が、爆風の中でやけに冷たく響いた。
画面越しの彼は、二〇二五年の快適なゲーセンで、歴史の教科書を捲るような顔で、私たちが今から死ぬ確率を突きつけている。
『サオリさん、動いて! 迷ってる暇はないっす! 万世橋の北側……数分後にそこは火災旋風で蒸し焼きになる!』
「……っ!!」
足が震えて動かない。
万世橋。さっきまでキラキラした看板が並んでいた場所。そこが今、巨大な火の粉が舞う地獄の入り口になっている。
(十万人死ぬってことは、明日、会社に行くどころじゃない……。中央通りが燃えてるなら、地下鉄も動かない? そしたら、十時の会議はどうすればいいの……?)
パニックに陥った脳は、依然として「社畜のスケール」でこの惨劇を捉えようと、必死にエラーを吐き出していた。
「おい、何をぼさっとしてんだよ! 死にてえのか!」
ハナが私の腕を引っ張った。彼女はまだ知らない。自分が今、歴史上もっとも悲惨な一夜の真っ只中にいることを。
「あの……こっちへ! 妻恋坂の方へ、坂を上がるの!」
私は、震える手でiPhoneを掲げた。画面の中では、ケンジが血眼になって二〇二五年のGoogleマップと当時の地図を照合している。
『サオリさん、大通りに出ちゃダメだ、あそこは人が殺到して詰まって全滅する! 記録にある生存ルートをなぞってください!』
「そこを右! 細い道の方!」
「バカ言っちゃいけないよ! あんなとこ、火が回ったら袋のネズミだよ!」
「いいから! 私の……私の『お得意様』が、こっちだって言ってるの!」
とっさに口に出た嘘は、営業で使い古した言い訳のようだった。
――空を埋め尽くすB29の重低音。
――雨のように降り注ぐ焼夷弾。
高台から見下ろすと、さっきまで私たちがいた街が、滝のような火に飲み込まれていくのが見えた。
『――左! 突き当たりを左です! その先に、耐火構造の蔵がある。記録では、そこだけが周囲百メートルで唯一焼け残った、奇跡の「生存の空白地帯」なんす!』
ケンジの怒号に従い、私はハナを連れて、火を噴く路地を駆け抜ける。
パンプスのヒールはもう折れ、素足に伝わる地面の熱さが、これがVRではないことを残酷に突きつけてくる。
「……あ、あった!!」
煙の向こう、黒光りする重厚な扉が見えた。
それは、周囲の木造家屋が紙細工のように燃え落ちる中で、時代から切り離されたかのように静かに佇んでいた。
「……嘘だろ、こんなところに蔵なんて……」
ハナが目を見開く。
その瞬間、背後で空気が爆ぜた。
巨大な火球が、夜空を真っ赤に染め上げる。
「開けて!! 早く!!」
二人は蔵の観音扉に体当たりした。閂を外し、命懸けで中へ滑り込む。
重厚な扉を閉めた直後、外で全てを焼き尽くすような轟音が響いた。 厚い土壁が熱気を遮り、蔵の中は一瞬で耳が痛くなるほどの静寂に包まれる。
私は真っ暗闇の中で、荒い息を吐きながら、震える手でiPhoneの画面を覗き込んだ。
そこには、私の運命を弄ぶような「中途半端な数字」が灯っている。
アンテナは依然として、この時代にあるはずのない『バリ5』。
けれど、その横で。
『電池残量、4%』
「……4パーセント」
喉の奥から、乾いた声が漏れた。
完全に切れていれば、諦めて泣き喚くこともできた。けれど、このわずかな残量は、私に「まだ未来と繋がっていられる」という残酷な希望を捨てさせてくれない。
画面の向こう、ビデオを切った音声だけのケンジさんが、ノイズ混じりに叫んでいる。
『……サオリ……さん……聞こえ……っ……電力……節約して……!』
「あんた……一体、何者だい」
暗闇の奥から、ハナの低く鋭い声が響く。
青白く光る液晶に照らされた私の顔を、ハナが化け物を見るような目で見つめていた。
"加賀美沙織のiPhone"が、命の砂時計を刻み始める。
明日の午前十時まで、あと――十時間。




