震える指先
本郷の蔵の隅で、サオリは膝を抱えていた。
指先が、まだわずかに震えている。脳裏に焼き付いているのは、あの路地裏で工藤の鳩尾を抉った拳の鈍い音と、自分をゴミのように見下ろした男たちの冷酷な眼差しだ。
(……怖い。本当は、もう一歩も歩きたくない)
だが、iPhoneの画面に浮かぶ二〇二五年の地図が、残酷なまでに完璧な「未来」を突きつけてくる。あそこを埋めなければ、自分はこの時代で、ただの浮浪者として野垂れ死ぬ。
「……お嬢、無理すんじゃねえ。あいつらは、言葉が通じる相手じゃねえんだ」
脇腹に新しい晒を巻き直した工藤が、掠れた声で止める。
サオリは、震える手で築地の権利書を握りしめた。
「……わかってる。でも、これしかないのよ」
四月二十日。夕暮れの銀座。
四丁目の路地の入り口には、あの日と同じ、岩のような大男が立っていた。サオリの姿を認めると、男は鼻で笑い、ゆっくりと拳を握り込む。
サオリの足が、思わず止まった。心臓が早鐘を打ち、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げる。
「……また、殴られに来たのか。瑞穂屋の小娘」
大男の声が、地響きのように路地に跳ね返る。
サオリは、引き攣りそうな顔を必死に抑え、震える手で泥にまみれた紙切れを差し出した。
「……これ、見てください。築地の、一等地の、権利書です……」
声が、情けなく裏返った。
大男は動かない。サオリは、消え入りそうな声で、言葉を絞り出した。
「……銀座は、もう何もないでしょう? でも、築地は……築地には、海があるんです。これから、あそこには軍の物資も、闇の食べ物も、全部集まってくる。……あそこは、日本で一番大きな、闇市になるわ」
男の眉が、わずかに動いた。サオリは、喉を鳴らしながら続ける。
「……ここを守っていても、明日のご飯は手に入りません。でも、築地のショバ代なら……。荷揚げの利権なら、あんたたちの若い衆を、全員食べさせてあげられる。……これ、上の人に届けてください」
大男は、サオリの細い指が握る権利書を、値踏みするように見つめた。
サオリは、殴られるのを待つように、身を強張らせていた。
「……ここは、五月二十五日に焼けます。私の……勘ですけど、一ミリも残らず、焼けるわ」
サオリは、確信というより、祈るような必死さで言った。
「……でも、築地のこの土地は、焼けない。……銀座を捨てるんじゃなくて、銀座が焼けている間、あそこを『金庫』にすればいいじゃない……。お願い、届けて……」
サオリは、権利書を男の胸元に、震える手で押し付けた。
男はしばらく無言でサオリを見下ろしていたが、やがて、その太い指で、乱暴に権利書をひったくった。
「……明日、またここに来ます。……返事を、ください」
サオリはそれだけ言うと、逃げるように踵を返した。
背後に、冷たい視線を感じる。いつあの拳が飛んでくるか、いつステッキで叩き伏せられるか。工藤の肩を借り、這うような足取りで路地を抜け出した。
角を曲がり、完全に視線が切れた瞬間。
サオリの膝がガクガクと砕け、工藤とともに地面に崩れ落ちた。
「……は、あ……っ、ふぅ……っ……」
荒い呼吸が止まらない。涙が、一筋、煤けた頬を伝って落ちた。
「……お嬢……」
「……怖かった。……工藤さん、本当に怖かった……」
サオリは、感覚のない指を強く握りしめた。
銀座の四丁目の闇は、まだ何も答えてくれない。
だが、サオリが差し出した「餌」は、確実にその深淵へと吸い込まれていった。




