供物(くもつ)の鮮度
空襲警報が遠くで咽び泣く中、サオリは工藤の蔵の奥へと踏み込んだ。
「ハナ、これを持っていくわよ」
サオリが指差したのは、最深部に隠してあった最高級の清酒の樽と、配給の目を盗んで蓄えられていた数升の白米。
工藤と共に手押し車へ手際よくその物資を積み込んだ。それは今、この東京で何よりも重い「命の通貨」だった。
深夜の築地。海風が運ぶ生臭さと、火山の噴火前夜のような不気味な静寂が澱んでいる。
岸壁沿いの巨大な木造倉庫群には、荷揚げを終えた「沖仲仕」や、倉庫番のゴロツキたちがたむろしていた。彼らは銀座のヤクザのような洗練さとは無縁だ。煤けた半纏を羽織り、首には真っ黒な手拭い。その手には、重い荷を引っ掛けるための、鋭利に研ぎ澄まされた鉄鉤が握られていた。
サオリは、疎開の準備で荷造りに追われる一軒の老舗鮮魚店の前に立った。
「……あの、おじさん。お忙しいところ申し訳ありません」
サオリは努めて腰を低くし、丁寧な口調で店主に声をかけた。
「あぁ!? 見りゃわかるだろ、逃げる準備で手一杯なんだ。瑞穂屋の看板だろうが何だろうが、構っちゃいられねえよ!」
「はい、おっしゃる通りです。……でも、一つだけご相談させてください。……その、大切にされてきたお店、私に預けていただけませんか?」
サオリは、手押し車の布をそっと捲り、中の白米と清酒を見せた。
「今夜、空襲が来ます。権利書を持って逃げても、ここが焼けてしまえば再建は難しいはずです。……でも、このお米と酒があれば、疎開先でご家族が半年は食いつなげます。……どうか、ご家族の命と、この『紙切れ』を交換してはいただけないでしょうか」
店主の目が、白米の眩しさに揺れた。欲望よりも、明日をも知れぬ命への不安が、彼の心を揺さぶっている。
だが、そのやり取りを横で見ていた倉庫番の男たちが、鉄鉤をチャキリと鳴らしながら近づいてきた。
「……おいおい、姉ちゃん。ずいぶんと物騒なもんを持ち歩いてるじゃねえか。その米、俺たちが検品してやろうか?」
一人がニヤつきながら、鉄鉤の冷たい先端をサオリの細い喉元に添えた。工藤が前に出ようとしたが、脇腹の傷に顔を歪めて膝をつく。
その時だった。
――キィィィィィィィィン……ッ!
夜の静寂を、耳を劈くような甲高い金属音が切り裂いた。
東京湾の海面すれすれを這うように、銀色の機影が滑り込んでくる。米軍の傑作戦闘機、P-51ムスタング。層流翼を持つその優美なシルエットは、月光を反射して冷酷な光を放っている。機首の下に大きく開いたラジエーターが、空気を吸い込む巨大な口のように見えた。
「……ッ、伏せろ!」
工藤の叫びと同時に、一六〇〇馬力のパッカード・マーリン・エンジンが、空気を引き裂くような咆哮を上げた。
ムスタングが市場の屋根を掠めるほどの超低空で反転した。翼の付け根に内蔵された六挺の十二・七ミリ重機関銃から、パパパパパッ! と断続的なオレンジ色の閃光が吹き出す。
ダダダダダダッ!
曳光弾の赤い光が、サオリたちのすぐ横にある木造倉庫を薙ぎ払った。厚い板壁が、まるで巨大な金槌で叩かれたように弾け飛び、火花と木っ端が夜空に舞う。キャノピーの風防越しに、酸素マスクを着けたパイロットの黒い影が、這いつくばる人間たちを冷徹に見下ろして通り過ぎるのが見えた。
圧倒的な質量を持った排気音が遠ざかり、命中した倉庫から黒煙が上がり始める。
「……くそっ! 米軍(アメ公)めっ! どいつもこいつも、虫ケラみたいに……っ!」
工藤が泥水を吐き出しながら天を仰いで叫んだ。その咆哮に、腰を抜かしたゴロツキたちは鉄鉤を放り出して暗がりへと逃げ去っていく。
サオリは、破片を浴びてガタガタと震えている店主を、静かに見つめた。
「……おじさん。今の飛行機、ただの始まりです。……次は、本物の火の雨が降ります。……決めてください。ご家族の命か、この紙切れか」
目の前で燃える倉庫の熱気と、本物の死。店主は震える手で筆を握り、サオリの差し出した譲渡証に名前を叩きつけた。
手に入れた、泥とインクにまみれた築地の権利書。
サオリはそれを胸に抱き、iPhoneで時間を確かめた。午後八時過ぎ。
銀座の空の端が、本格的に赤く染まり始めていた。
工藤が呪った米軍も、誰も彼もを焼き尽くす火の雨。
サオリはそれを、最強の「追い風」として待ち望んでいた。




