死にたくないなら走りなさい!――燃える上野と、バリ5のiPhone
「――いつまで地べたに這いつくばってんだよ! 死にてえのか!」
鼓膜を劈くような怒号とともに、肩を強く揺さぶられた。
顔を上げると、そこには眉根を寄せた少女が立っていた。泥に汚れたもんぺ姿、頭には不格好な防空頭巾。私と同じくらいの年齢に見えるけれど、その瞳に宿る「生」への執着は、現代の私たちがとうに忘れてしまったほど鋭く、痛い。
「あ、あの……ここは……」
「返事はいらないよ、立ちな! 走るんだよ、こののろま!」
少女に腕を強引に引かれ、私はよろけながら立ち上がった。
右手に握りしめたiPhoneの画面には、まだ「一九四五年三月十日」という絶望的な数字が浮かんでいる。頭のどこかでは、まだ「明日までの修正案」を探している。でも、三センチヒールのパンプスが瓦礫を噛む感触と、鼻を突く火薬の匂いが、強制的に私をこの「地獄」へ引き摺り下ろす。
このパンプスが、瓦礫と泥が入り混じった土の上では最悪の相性だった。一歩踏み出すたびに足首がグニャリと曲がり、鋭い小石が薄いストッキングを突き破って肌を削る。営業回りで鍛えたはずの足が、ここでは赤ん坊のように頼りない。
「……っ、痛い、待って……!」
「待てるかってんだ! 丸焼きにされたいのかよ!」
空からは、ちぎれた紙屑のような火の粉が雪のように降り注いでいた。
さっきまで棒立ちになっていた場所が、巨大な火の塊に飲み込まれる。熱風が背中を叩き、髪の毛の先がチリリと焼ける嫌な匂いが立ち込めた。
逃げ惑う群集の絶叫、赤子の泣き声、そしてそれらすべてを圧殺する、空を埋め尽くす重低音。B29の爆音は、もはや音というより、空気が震える物理的な暴力となって肌を刺す。
リクルートスーツのタイトスカートは足捌きを邪魔し、私は何度も転びそうになる。そのたびにハナが、千切れんばかりの力で私の腕を引っ張り上げた。
「あんた、どこのお嬢さまだよ。そんなおかしな格好して……! いいから前を見な、はぐれたらおしまいだよ!」
ハナの言葉が耳を通り過ぎる。彼女の手も、小刻みに震えているのが伝わってきた。それでも彼女は、得体の知れない格好をした私を見捨てようとはしなかった。
なんで、こんなことに。
私はただ、サービス残業に追われる毎日から逃げ出したかっただけだ。「人生、リセットボタンがあればいいのに」――あの日、何度目か分からないその願いを、神様が最悪の形で叶えてしまったというのか。
視界が涙と煤煙で白く濁り、肺が冷たい空気と火薬の匂いを吸い込んで悲鳴を上げる。
もう、一歩も動けない。
そう思って膝が折れかけた、その時だった。
――ブブブ、ブブブブッ!!
スーツの右ポケットが、壊れたように震え出した。
「……え?」
場違いな、あまりにも聞き慣れた電子の振動。
ありえない。一九四五年、昭和二十年に、こんな音が鳴るはずがない。
なのに、私のiPhoneは、確かに「生きた振動」を太ももに伝えてきている。
走りながら、震える手でそれを取り出した。
眩しい。液晶の光が、火災の赤に染まった世界の中で、異質なほど白く輝いている。
画面を確認しようとして、私は目を見開いた。
一九四五年に電波など通じているはずがない。
なのに、液晶の右上に並ぶアンテナマークは、見たこともないほど力強く、最大値の**『バリ5』**を示していた。
そして、画面いっぱいに表示されたのは、二〇二五年の世界から届いた着信画面。
『ケンジ』
「……っ、ケンジさん!?」
私はすがるような思いで、画面をスワイプした。
次の瞬間、ノイズ混じりのスピーカーから、聞き慣れた早口の絶叫が飛び出してきた。
『――サオリさん!? サオリさんですよね!? 今どこっすか、マジで消えたからゲーセン中パニックっすよ!』
「ケンジさん、助けて! ここ、一九四五年なの、空襲なの……本当に、全部燃えてるの!」
隣を走るハナが「何を独り言言ってんだよ! 気が触れたのかよ!」と驚愕の表情でこちらを振り返る。その目に、私の持つ「光る板」がどう映っているのかを考える余裕はなかった。
ビデオ通話の画面の向こう、ケンジさんは一瞬絶句し、それから猛烈な勢いでキーボードを叩く音を響かせた。
「サオリさん、落ち着いて聞いてください」
キーボードの音が止まる。
「今、歴史データ見てます、その日付……」
ノイズの向こうで、ケンジが息を呑む。
「――それ、東京大空襲の日っす」
私の足が止まる。
「あと三時間で……」
ケンジの声が震えた。
「十万人、死にます」




