瑞穂屋、完落ち
大旦那の指先は、生まれたての小鹿のように震えていた。
奥座敷へ逃げ戻ってもなお、鼻腔にこびりついた豚の血の生臭さと、鼓膜を震わせる機銃の残響が、彼の「山の手の理」を粉々に砕いていた。
「……大旦那、顔を上げてください」
サオリの声は、冷徹なまでに平坦だった。彼女は震える大旦那の前に、一枚の簡素な白紙と、工藤がどこからか調達してきた万年筆を置いた。
「今、表にいる人たちは、あなたを『命の恩人』だと信じています。……ですが、次の空襲が来れば、瑞穂屋も、この歴史ある奥座敷も、あなた自身もすべて灰になります。これは確定した未来です」
大旦那は、万年筆を握りしめたまま、うわ言のように首を振った。
「……わたしは、五代を数える主であるよ。瑞穂屋の暖簾を、この戦火から守り抜かにゃならん……先祖に対して、申し訳が立たんのです」
その声には、時代から取り残された老商の、悲痛なまでの執着が滲んでいた。
その時、背後で控えていた工藤が、低く、湿り気を帯びた笑い声を漏らした。
彼は懐から、煤けた封筒を取り出した。中から現れたのは、瑞穂屋の裏帳簿の写しと、赤紙にも似た威圧感を放つ数枚の公文書だった。
「五代目の責任、ねえ。……大旦那、あんたの言う『道』の先には、憲兵隊の監察が口を開けて待ってるぜ」
工藤はそれを、大旦那の目の前にある茶碗のすぐ横に、音もなく滑らせた。
「国家総動員法に基づく物資隠匿……それも、軍需省に申告漏れのあった最高級の西陣織と、地下倉庫に眠ってる隠し米だ。これだけの量が表に出りゃ、瑞穂屋の暖簾は今日中に焼き払われ、あんたは非国民として市中引き回しだ。……今の憲兵は、あんたみたいな『英雄』が、裏で私腹を肥やしてたなんて話が大好物でね」
当時、米は単なる食料ではなかった。一九四二年の食糧管理法施行以来、米の流通は完全に国家の統制下に置かれていた。配給以外での供出逃れや隠匿は重罪とされた。とりわけ戦況が悪化したこの時期、ヤミ米一升の価格は公定価格の百倍以上に跳ね上がり、それを隠し持つことは、飢えた国民の命を盗む「大逆罪」に等しい。見つかれば、社会的抹殺どころか、文字通り首が飛ぶ――そんな狂気の時代だった。
大旦那の顔から、一気に血の気が引いた。
「お嬢が言ってるのは、その泥にまみれた瑞穂屋の暖簾を、真っ白に洗い流してやるって話だよ。……今、この銀座の土地を『軍需物資の焼失防止を目的とした、建物疎開の供託地』という名目で、一時的に瑞穂屋に集約させる。サオリお嬢の名義で書類を整えりゃ、憲兵も口出しできねえ。瑞穂屋は、国のための資産保全を行う『忠君の店』として歴史に残る。……あんたがこの紙に一筆書くだけで、裏帳簿の件は俺が墓まで持っていってやるが、どうだい?」
工藤の指が、帳簿の数字をなぞる。暴力的な脅しよりも、その「逃げ道のなさ」と「唯一の救済策」の提示が、大旦那の退路を完璧に断った。
「あんたは『近隣の資産を国のために預かった英雄』として戦後を迎えりゃいい。その煩わしい実務は、全部俺たちがやってやる。……判を押しな、大旦那。瑞穂屋の暖簾を、五代目の先で途絶えさせたくねえならな」
工藤は、親切な隣人が手助けをするような手つきで、大旦那の手に万年筆を添えた。
大旦那は、幽霊に操られる人形のように万年筆を握った。血の混じった指先が、白い紙を汚していく。
一九四五年、四月。
サオリの持つ「未来の情報」と、工藤が握る「現実の急所」。二つの異質なロジックが、銀座という街の運命を塗り替える。
そしてその夜、瑞穂屋の暖簾は、誰にも気づかれぬまま裏返しに掛け替えられた。




