身代わりの血
「……お嬢、甘いな。これじゃあ『仕組み(バグ)』は直せねえよ」
四月四日、早朝。
サオリが誇らしげに提示した「スマートなハッキング案」に対し、工藤は鼻で笑い、闇の中から身を乗り出した。その眼光は、サオリの液晶の光よりも鋭く、濁っていた。
工藤は、蔵の入り口で震えていた若い女中、キヨを顎で呼びつけた。
「おい、キヨ。……いつまでそこに突っ立ってる。奥から軍の発煙筒と、裏にある豚の血を持ってこい。こぼすんじゃねえぞ」
「は、はいっ……!」
キヨは消え入りそうな声で答え、逃げるように奥へ走った。彼女は工藤邸に長年奉公しているが、この数週間、蔵に引きこもる「サオリお嬢様」を、幽霊か何かの類だと本気で信じ始めていた。
暗がりで青白く光る「未来の箱」を操り、独り言のように奇妙な言葉を吐く。そんなサオリを支える工藤とハナもまた、キヨの目には正気とは思えなかった。
「お嬢、ただの人形じゃあ、米軍のパイロットはともかく、目の前の地主は騙せねえ。必要なのは『死の予報』じゃねえ。……『死の感触』だ」
工藤の言葉に、サオリは息を呑んだ。自分のデジタルな計算に、この時代の生々しい暴力性が上書きされていく。
「なるほど……。音と匂い、そして血。……それで完成するのね」
キヨが震えながら、重い桶を運んできた。中には、近所の肉屋から工藤が無理やり融通させた豚の血が、ドロリと揺れている。
「お、お嬢様……そんな、血なんて、何に……」
キヨの問いに、サオリは答えなかった。ただ、液晶の光に照らされた無表情な横顔で、ハナが古着を縫い合わせて作った「人形」を見つめているだけだ。
ハナが笑いながら血を人形の腹に仕込み、発煙筒を固定していく。その作業を、キヨは呪術の儀式でも見るような目で見つめ、足袋を血で汚しながら後ずさった。
午前十時三十分。
木炭自動車が喉を突くような煙を吐き出し、本郷を出発した。荷台には筵を被せられた「血の詰まった身代わり」と、炊き出し用の貴重な「米の袋」が積まれている。
「お嬢、顔を伏せてな。上野の検問だ」
警防団が道を塞ぐ。助手席のハナが窓から身を乗り出し、包みたての握り飯を差し出した。
「ご苦労様! 瑞穂屋の大旦那に頼まれてね、蔵の整理に行くんだよ。ほら、これ」
米の匂いという「最強のパスワード」が、警防団の口を封じる。検問を「ハック」し、車は煤けた銀座の街角へと滑り込んだ。
午前十一時三十分。銀座四丁目、老舗呉服店『瑞穂屋』。
格式高い暖簾の前で、工藤が凄みのある声で番頭に告げた。
「工藤の倅だ。親父が死んでね。……大旦那に返さなきゃならねえ『貸し』がある」
台帳をチラつかせ、三人は瑞穂屋の奥座敷へと潜り込む。
冷え切った畳の部屋。瑞穂屋の大旦那が、不快感を隠さず座っている。
「工藤君、これは一体どういう冗談かね」
サオリは手元のiPhoneを操作した。液晶には「14:10」へのカウントダウンが刻まれている。
銀座掌握まで、あと二時間四十分。




