泥の指先
工藤は暗闇の中から、野獣のような目でサオリを射抜いていた。
沈黙。サオリの耳元では、ケンジの怯えた声がノイズのように響いている。
「……いいだろう」
工藤が短く吐き捨て、奥から一反の白い布を放り投げた。
「そのガキが死んだら、お前の命で払ってもらうぞ。……ハナ、火を起こせ。湯を沸かすんだ」
そこからの数時間は、言葉のない、ただただ重苦しい時間だった。
煮沸したシルクの包帯。サオリはハナに教わりながら、生まれて初めて「生身の人間」の、熱を帯びた傷口に触れた。震える指。鼻を突く焼けた肉の匂い。
ケンジが告げる『もっときつく巻いて』『そこは結ばないで』という淡々とした指示を、サオリは必死に、そして機械的にこなしていく。
「……サオリさん、あんた、手が震えてるよ」
ハナがサオリの手の上から、自分の熱い手を重ねた。
「大丈夫だ。この子は、あんたが救ったんだからね。しっかりおし」
夜が明ける頃、少年の呼吸は落ち着き、深い眠りに落ちていた。
サオリは蔵の入り口に座り込み、泥と血で汚れた自分の手を見つめた。
二〇二五年の世界では、ボタン一つで消毒され、守られていた手。それが今、この時代の一つの命を繋ぎ止めた。
「……ケンジ、見てる?」
サオリは、朝焼けの光を反射するiPhoneの画面を、泥のついた指で撫でた。
『……うん。サオリ、君は、データにはないことをしたね。正直、計算外だよ』
「……そうね」
サオリは短く答え、画面を閉じた。もはや、ケンジの言葉すら遠くの雑音のように思えた。
蔵の中から、工藤がのっそりと現れた。彼は眠り続ける少年を一瞥し、それからサオリに向かって、一通の重厚な封筒を突き出した。
「工藤さん、これは何?」
「親父が隠し持っていた『重要書類』だ。……お前なら、これがいつゴミになり、いつ金に変わるか、わかるんだろう?」
封筒の中には、軍の徴収記録と、いくつかの権利書らしきものが入っていた。
空は、昨夜の地獄が嘘のように白んでいる。だが、街はもう存在しない。
「……工藤さん。ここからですよ」
サオリは立ち上がり、育ちの良さを捨てきれない仕草で、スカートの汚れを払った。
「灰の中から、一番の宝を掘り起こしに行きましょう。……ハナさんも、いいですよね?」
ハナは少年の寝顔を見守りながら、ふっと鼻で笑って、サオリの泥だらけの手を握った。
「ああ。あんたみたいな不思議な『お嬢様』を一人にしたら、何しでかすか分かったもんじゃないからね。……アタシもしぶとさだけは自信があるんだ。せいぜい、あんたのその面白い夢に、最後まで付き合わせてもらうよ」
空襲の嵐が過ぎ去った本郷の街に、一九四五年三月十日の、本当の太陽が昇ろうとしていた。




