壁
重い金属音が響き、一番手前の蔵の扉が開かれた。
ひんやりとした空気と共に、埃と油、そして――かすかに甘いーー樟脳の匂いが漂い出す。工藤は私たちのことなど既に眼中にないようで、懐中電灯を振り回しながら蔵の奥へと消えていった。
「……あった、これだ。まだ無事だったか……」
ゴソゴソと木箱をこじ開ける乾いた音が、暗い蔵の中に響き渡る。
その時だった。蔵の影から、ぼろ布を纏った女性がふらふらと這い出してきた。腕の中には、ぐったりとした少年を抱えている。
「……た、助けて……。倅が、火傷で……」
少年の腕は、熱線で焼けただれ、赤黒く腫れ上がっていた。
「ちょっと、見せてごらん!」
ハナが迷わず駆け寄った。
「サオリさん、突っ立ってないで手伝っておくれ! 綺麗な水はあるかい? なければ私の水筒のを……」
ハナさんは慣れた手つきで自分の着物の裾を迷いなく引きちぎると、少年の腕に、じわりと水を染み込ませていく。その目は真剣そのもので、生き抜いてきた人間の強さが宿っていた。
「ケンジさん、火傷の処置! すぐ調べて!」
私は震える声で耳元に囁いた。
『サオリさん、重度の熱傷だね。流水で冷やした後は、すぐに抗生物質の軟膏とステロイドを……。あと、無菌状態を保たないと敗血症のリスクが……』
「そんなのないわよ! 今すぐ、ここでできることを教えて!」
私は叫びそうになるのをこらえ、必死に少年の横に跪いた。だが、何をすればいいのかわからない。
火傷の部位に触れていいのか、水はどれくらいかければいいのか。これまでの人生で、私は「傷口」を直視することすら避けてきた。まともな教育を受け、清潔な世界で育ってきた私の手は、泥と血にまみれた少年の肌を前にして、幽霊のように宙を彷徨うことしかできない。
「サオリさん、何してるんだい! その手桶を押さえてておくれ!」
「あ……はいっ!」
ハナに怒鳴られ、私は慌てて手桶を支えた。
ハナは「おまじないだよ」と呟きながら、少年の額を冷たい手で撫で、どこかで手に入れたらしい汚れた油を薄く塗り広げていく。現代医学から見れば「間違い」かもしれない処置。でも、そこにはハナの必死な「知恵」があった。
私の脳内では、ケンジが『それは逆効果だよ!』『もっと清潔に!』と警告を鳴らし続けている。
(うるさい……わかってる、わかってるけど……!)
知識はある。二〇二五年の最適解は知っている。でも、私のこの「綺麗な手」には、それを実現する力が何一つない。スマホの向こう側の「正解」が、目の前の少年の苦悶の声に、一ミリも届かない。
蔵の奥からは、工藤が物資を数える「……三十、三十一、よし……」という冷徹な声が聞こえてくる。
私は、自分の爪が剥がれそうなほど手桶を強く握りしめた。
ただのスマホスタンドで終わりたくない。
私はハナの泥だらけの横顔を見つめ、それから蔵の奥の工藤に向かって声を張り上げた。
「工藤さん! そこにある正絹をください! 一反でいいわ、今すぐ煮沸して、包帯にしたいので!」
工藤の動きが止まった。光が私を射抜く。
「お前、狂ったか。それは金よりも貴重なもんだぞ!」
「知識だけじゃ、誰も救えないんです! あんたをこの街の『王』にする第一歩よ。情けは人のためならず……いえ、この場合は『投資』よ。私の知恵を信じるなら、今すぐそれを出しなさい!」
私は生まれて初めて、他人のために「取引」ではない叫びを上げた。




