残業代も出ない夜に、タイムスリップした私
「……はい、承知いたしました。明日の午前十時までには、修正案を揃えてお持ちします。はい、申し訳ございません。失礼いたします」
スマホを耳から離した瞬間、凍てつくような夜の空気が肺の奥まで入り込んだ。
三月の上野。夜の十時。
高卒で今の営業会社に入って三年。私の日常は、謝罪とノルマと、上司の嫌味で構成されている。
「サオリさぁ、高卒なんだからさ、人一倍動かないと。頭使えない分、体使いなよ」
今日、課長に言われた言葉が耳の奥でリフレインする。ムカつくというより、もう、疲れた。
雨混じりの風が、着古したリクルートスーツの裾を揺らす。私はゾンビのような足取りで、秋葉原へと向かう電気街の入り口に立っていた。
帰宅ラッシュも過ぎたこの時間、街は不自然なほど明るい。巨大なビジョンに映る広告の美女、深夜まで営業するコンセプトカフェの呼び込み。その色彩の暴力が、今の私には酷く残酷に思えた。
逃げ込みたい。
この「モブキャラ」としての人生から、一分一秒でもいいからログアウトしたい。
私は吸い寄せられるように、いつものゲームセンターへと足を踏み入れた。
「おっ、サオリさん! お疲れっす、今日も残業?」
入り口近くの筐体に寄りかかっていたのは、同僚のケンジさんだった。
彼は私と同じ「陰キャ」のカテゴリーに属しているはずだが、好きなゲームの話になると、やけに声のボリューム調整が壊れる。手には新作の攻略本が握られていた。
「……あ、ケンジさん。ええ、まあ。ちょっとだけ、叩いて帰ります」
「そうそう、効率化こそ正義ですよ! ストレス発散もRTA(最速攻略)でいきましょう!」
彼の早口を適当に受け流し、私は一番奥にある音ゲーの筐体へと向かう。
百円玉を投入する。コインが落ちる乾いた音が、私の「入替スイッチ」だった。
ヘッドホンを装着し、外部の雑音を遮断する。選んだのは、BPM二百を超えるハードコアな楽曲。
画面を流れるノーツ。指先に伝わるボタンの反発。
完璧なタイミングで叩き続ければ、頭の中のモヤモヤが消え、視界がクリアになっていく。
私は営業のサオリじゃない。ただの、正確なリズムを刻む機械だ。
――クライマックスのサビ。指が、最速のビートを捉える。
その瞬間だった。
ドォォォォォォォォォォォン!!
ヘッドホンを貫いて、腹の底を直接殴られたような衝撃が走った。
筐体が激しく揺れ、画面がノイズと共にブラックアウトする。
「え、地震……?」
反射的に筐体を掴んだが、指先に触れたのはプラスチックの冷たさではなく、ゴツゴツとした石の感触だった。耳を劈くような金属音。サイレン。
そして、嗅いだこともないような、ツンと鼻を突く火薬の匂い。
目を開ける。
そこはもう、私の知っているゲーセンではなかった。
「……は?」
ネオンの光も、電子音も、ケンジさんの声も、すべてが消えていた。
代わりに広がっていたのは、むせ返るような火薬の匂いと、暗闇。そして、空を塗り潰すような、不気味な「赤」。足元はアスファルトではなく、瓦礫と泥。
秋葉原の電気街だったはずの景色は、スカスカの焼け野原に変わっていた。
「……え、何これ」
ヒュルルルルル……。
奇妙な音がして、すぐ近くの民家らしき建物がオレンジ色の光と共に爆発した。
熱風が頬を叩く。痛い。夢じゃない。――なのに。
パニックになった私の脳裏に、なぜか最初に浮かんだのは「死」ではなかった。
『サオリさぁ、明日の十時までに修正案出せなかったら、次はないからね』
課長の声だった。
(……やばい)
指先が震える。
(PCは? カバンの中? 修正案、まだ半分も終わってないのに)
すぐそばで火柱が上がる。
なのに私の頭は、完全に別の恐怖に支配されていた。
(こんなところで足止め食らったら、明日の十時に間に合わない……!)
ありえない。
今、自分の命が危ない。なのに三年間「社畜」として調教されてきた私の精神は、この状況を「仕事に支障が出るトラブル」としてしか処理できなかった。
(これは何かの演出だ。VRか、大掛かりなドッキリか何か。そうじゃなきゃ困る。私は明日、出社しなきゃいけないんだから)
震える指で、スーツのポケットからiPhoneを取り出す。画面が点灯する。そこには信じられない表示が浮かんでいた。
日付:一九四五年三月九日
時刻:午後十時十五分
場所:東京府、神田相生町付近
「……嘘」
喉が乾く。
「嘘でしょ……」
私は膝から崩れ落ちた。
高卒で、営業成績もどん底で、友達もいなくて。
そんな私の「人生バグ」は、よりによって、この国が最も燃え上がった夜へと私を放り出した。
すぐそばで、火の手が上がる。逃げなきゃ。死ぬ。
そう思った、その瞬間。泥まみれの手が、私の腕を強く掴んだ。




