もう一人の自分
「先生……やっぱり僕はおかしいんでしょうか……」
とある精神クリニック。柔らかな照明の下、ソファに横たわる男は力なく呟いた。片手を額に乗せ、虚ろな瞳で天井の模様を追っている。
彼がここを訪れるのはこれで三度目になる。だが、胸の奥に巣食う黒い靄は取り払えず、表情にまで滲み出ていた。
このクリニックに通い始める前には、総合病院にも足を運んでいた。だが結局、答えを得ることはできなかった。ただ不安だけが夜ごと膨らみ、やがて恐怖と絶望へと変わっていった。
「……まずは時計を見てください」
精神科医が低く落ち着いた声で言った。男はゆっくりと身を起こし、壁に掛けられた時計に目を向けた。そして息を呑んだ。
「ま、また時間が飛んでる……!」
見間違いではない。確かに、少し意識がぼんやりした瞬間はあったが、明らかに時間が経ちすぎている。まるで、ごっそりと抜け落ちてしまったかのように。
精神科医は、ソファ脇のローテーブルをそっと手のひらで指し示した。そこには来院直後に出されたティーカップが置かれていたが、湯気はすでに消えていた。
「あなたの症状――気づけば時間が飛び、その間の記憶が一切ない、でしたね」
「え、ええ……部屋の物が勝手に動いていたり、知らない間に増えていたり、気づいたら外にいたり……この前なんて、スーパーの冷凍食品売り場に立っていて……それに今日も――」
「あなたは二重人格です」
「え!?」
「正式には『解離性同一性障害』と呼ばれます。テレビや漫画で耳にしたことがあるかもしれませんね」
「は、はい……言葉としては知っていますけど、まさか、僕がそんな……」
「幼少期のトラウマが原因となることが多いのですが、あなたの場合は“別の自分を望んでいる”という願望が発端のようです」
「それは……はい。確かに、僕はずっと自分に自信がなくて、変わりたい、変えたいっていつも思っていました……」
「おそらく、その強い願望とストレスが引き金となり、彼が生まれたのでしょう」
「彼……あっ、先生はその“彼”に会ったんですよね? ど、どんな人でしたか?」
「キモかったです」
「キモかった!?」
「ええ。キモキモでした」
「そ、そんな……たとえば、僕と真逆で、もっとワイルドだったり、女性にモテるタイプじゃないんですか……?」
「いえ。キモい男です。そんな都合よく理想の人格を生み出せるものでもないでしょう」
「まあ、それはそうかもしれませんけど……」
「蛙の子は蛙というやつです」
「それ、僕のこともキモいって言ってません?」
「ですが、あなたに敵意はないようです。焦らず治療を進めましょう。無理に彼を消そうとすれば、取り返しのつかない事態になるかもしれません。なにせ、キモいので」
「そんな、不審者みたいな……嫌だな……」
「ペニササイズ……」
「えっ!? な、なんですかそれ!? 僕、何かしたんですか!?」
「気にしなくていいです……うっ、いや、考えないほうがいい」
「そんなにやばい人格なのか……」
「まあ、今日はここまでにしておきましょう。来週またいらしてください」
「は、はい……ありがとうございました……」
男は診察費を支払い、深く頭を下げた。肩を落としたまま出口へ向かう――と、医者が呼び止めた。
「ああ、淹れ直しましたから、帰る前に一杯どうぞ。落ち着きますよ」
「あ、ありがとうございます……」
男はティーカップを受け取り、一口すすった。ほっと息をついた直後だった。まぶたがずしりと重くなり、視界がぼやけていった。そして――
「あれ、先生……もしかして、僕はまた……」
「ええ。“彼”と話しましたよ」
「そうですか……それで、やっぱりキモかったですか?」
「キモかったです」
「うわあ……」
「ですが、あなたに敵意はないようです。焦らず治療を進めていきましょう。無理に彼を消そうとすれば危険です。なにせ、キモいので」
「はい……あの、彼はまたやったんですか? まんぐり峠五十三次を……」
「……気にしないほうがいいです」
「やったんですね……あああ……」
「大丈夫。必ず良くなりますよ。また来週きてください。えー、本日の診察費はこちらになります」
「はい、ありがとうございました……あれ?」
「どうされました?」
「財布の中身が減っているような……」
「ここに来る途中で入れ替わったのかもしれませんね」
「ああ、そうですね……はあ……出費がかさむなあ……」
男は診察費を支払い、重い足取りでクリニックを後にした。
その背中を窓越しに見送りながら、精神科医は呟いた。
「睡眠薬とちょっとした暗示で入れ替わる、か。うまい方法を見つけたものだな。どちらの人格にもいい顔をしておけば、料金を二重に取れる」
精神科医は小さく笑った。
窓ガラスには醜悪な笑みがはっきりと浮かび上がっていた。




