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もう一人の自分

作者: 雉白書屋
掲載日:2025/12/16

「先生……やっぱり僕はおかしいんでしょうか……」


 とある精神クリニック。柔らかな照明の下、ソファに横たわる男は力なく呟いた。片手を額に乗せ、虚ろな瞳で天井の模様を追っている。

 彼がここを訪れるのはこれで三度目になる。だが、胸の奥に巣食う黒い靄は取り払えず、表情にまで滲み出ていた。

 このクリニックに通い始める前には、総合病院にも足を運んでいた。だが結局、答えを得ることはできなかった。ただ不安だけが夜ごと膨らみ、やがて恐怖と絶望へと変わっていった。


「……まずは時計を見てください」


 精神科医が低く落ち着いた声で言った。男はゆっくりと身を起こし、壁に掛けられた時計に目を向けた。そして息を呑んだ。


「ま、また時間が飛んでる……!」


 見間違いではない。確かに、少し意識がぼんやりした瞬間はあったが、明らかに時間が経ちすぎている。まるで、ごっそりと抜け落ちてしまったかのように。

 精神科医は、ソファ脇のローテーブルをそっと手のひらで指し示した。そこには来院直後に出されたティーカップが置かれていたが、湯気はすでに消えていた。


「あなたの症状――気づけば時間が飛び、その間の記憶が一切ない、でしたね」


「え、ええ……部屋の物が勝手に動いていたり、知らない間に増えていたり、気づいたら外にいたり……この前なんて、スーパーの冷凍食品売り場に立っていて……それに今日も――」


「あなたは二重人格です」


「え!?」


「正式には『解離性同一性障害』と呼ばれます。テレビや漫画で耳にしたことがあるかもしれませんね」


「は、はい……言葉としては知っていますけど、まさか、僕がそんな……」


「幼少期のトラウマが原因となることが多いのですが、あなたの場合は“別の自分を望んでいる”という願望が発端のようです」


「それは……はい。確かに、僕はずっと自分に自信がなくて、変わりたい、変えたいっていつも思っていました……」


「おそらく、その強い願望とストレスが引き金となり、彼が生まれたのでしょう」


「彼……あっ、先生はその“彼”に会ったんですよね? ど、どんな人でしたか?」


「キモかったです」


「キモかった!?」


「ええ。キモキモでした」


「そ、そんな……たとえば、僕と真逆で、もっとワイルドだったり、女性にモテるタイプじゃないんですか……?」


「いえ。キモい男です。そんな都合よく理想の人格を生み出せるものでもないでしょう」


「まあ、それはそうかもしれませんけど……」


「蛙の子は蛙というやつです」


「それ、僕のこともキモいって言ってません?」


「ですが、あなたに敵意はないようです。焦らず治療を進めましょう。無理に彼を消そうとすれば、取り返しのつかない事態になるかもしれません。なにせ、キモいので」


「そんな、不審者みたいな……嫌だな……」


「ペニササイズ……」


「えっ!? な、なんですかそれ!? 僕、何かしたんですか!?」


「気にしなくていいです……うっ、いや、考えないほうがいい」


「そんなにやばい人格なのか……」


「まあ、今日はここまでにしておきましょう。来週またいらしてください」


「は、はい……ありがとうございました……」


 男は診察費を支払い、深く頭を下げた。肩を落としたまま出口へ向かう――と、医者が呼び止めた。


「ああ、淹れ直しましたから、帰る前に一杯どうぞ。落ち着きますよ」


「あ、ありがとうございます……」


 男はティーカップを受け取り、一口すすった。ほっと息をついた直後だった。まぶたがずしりと重くなり、視界がぼやけていった。そして――


「あれ、先生……もしかして、僕はまた……」


「ええ。“彼”と話しましたよ」


「そうですか……それで、やっぱりキモかったですか?」


「キモかったです」


「うわあ……」


「ですが、あなたに敵意はないようです。焦らず治療を進めていきましょう。無理に彼を消そうとすれば危険です。なにせ、キモいので」


「はい……あの、彼はまたやったんですか? まんぐり峠五十三次を……」


「……気にしないほうがいいです」


「やったんですね……あああ……」


「大丈夫。必ず良くなりますよ。また来週きてください。えー、本日の診察費はこちらになります」


「はい、ありがとうございました……あれ?」


「どうされました?」


「財布の中身が減っているような……」


「ここに来る途中で入れ替わったのかもしれませんね」


「ああ、そうですね……はあ……出費がかさむなあ……」


 男は診察費を支払い、重い足取りでクリニックを後にした。

 その背中を窓越しに見送りながら、精神科医は呟いた。


「睡眠薬とちょっとした暗示で入れ替わる、か。うまい方法を見つけたものだな。どちらの人格にもいい顔をしておけば、料金を二重に取れる」


 精神科医は小さく笑った。

 窓ガラスには醜悪な笑みがはっきりと浮かび上がっていた。

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