帰還
フィオナがゆっくりと起き上がり、ドレスについた土を少し手で払い落とす姿を、ぼんやりと雲のかかったように働かない頭で眺めていた。
「ルーファス様……ミリーは?」
その声に少し意識が引き戻される。
「あ……無事だ。王宮騎士団もそのうち……到着すると思う」
「ミリーの所へ戻りましょう」
彼女の身体を支えながら森を引き返し小屋へ戻ると、ミリーは「ご無事でよかった」と泣きながらフィオナに抱きついた。
その後すぐ、屋敷の方角が騒がしくなり、外に出ると王宮騎士団が到着していた。
彼らはフィオナの姿を見て安堵の息を漏らし、数人がペンフォード伯爵の確保に向かう。
「ルーファス様……暁光の盟約式は……」
その言葉に心臓が跳ね上がった。
夜が明け、その日の夕方には暁光の盟約式が始まってしまう。
本当に、このままフィオナを調和の女神の使徒にしてしまっていいのか?
フィオナが実家で紡いだ人との絆があったからこそ、今回彼女を助けることができた。
しかし今後も予期できない陰謀、策略に彼女は巻き込まれていくかもしれない。
その時、俺は彼女を守ることができるのか?
彼女をまた……失ったら?
「フィオナは……本当に“調和の女神の使徒”になってもいいのか?」
「え?」
「また……誰かが君を……狙うかもしれない」
彼女を失うかもしれない未来を考えただけで、全身の血液が冷水に変わり手足の感覚がなくなる。
確定されていない未来が恐ろしくてたまらない。
すると彼女は、俺の冷えた手をそっと握った。
「ルーファス様がいてくださるから……怖くありません」
彼女はそう言って優しく微笑んだ。
そうやって何度でも俺の心を溶かしていく。
「盟約式は……今日の夕方だ。馬車で戻っても、もう間に合わない」
「「え?!?!」」
フィオナとミリーの声が揃った。
本当は怖い。ずっと怖くてたまらない。
でも、彼女は俺がいるから怖くないと言った。
恐怖はずっと俺の傍に立ち、彼女を失う未来を俺の耳元で囁き続けている。
それでも俺は、彼女の信頼に応えられる人間でありたい。
「馬車ならな。でも、魔法を使えば……間に合う」
俺は外に出て冷たい夜の空気を吸った。
「天の理よ、この地に降りて。我が心、我が手、我が知識に宿り給え。火の神と風の神の御心に従い、奇跡をこの身に成さん」
熱を背中に集めて翼を作る。
それは物理的な翼ではなく、魔力で編まれた高温の空気の塊だ。
揺らめく炎の輪郭が夜の闇に一瞬、鮮烈に浮かび上がった。
「フィオナ、来い」
彼女は驚きに目を見開きながら、俺のそばへと寄ってきた。
彼女を抱きかかえ、炎の翼がブォ、と低く唸りを上げる。
風の魔法の力を借りて地面を強く蹴り、空へと舞った。
「うわぁ!」
彼女は青い瞳を輝かせ「すごい……私、空を飛んでる」と声を漏らした。
一気に高度を上げると、冷たい夜の風が頬を叩く。
しかし俺の炎の翼が生み出す熱が、フィオナを厳重に包み込んでいた。
「どうやって飛んでいるんですか?」
「説明が……難しいな。炎で浮く力を作り出し、風で気流を制御している」
「温かい」と小さく漏らした彼女は、俺の胸に頬を寄せた。
「ルーファス様、夜が明けそう……綺麗ですね」
彼女はそう言って地平線を見つめた。
東の地平線は、濃い夜の闇を塗り替えていくように、白く優しい光が輝きを増していた。
森の木々のシルエットはまだ黒く沈んでいるが、その遥か向こう、空気が薄くなる境界線に銀色の光が滲み出す。
眼下には遠く、まるで点滅する宝石のように、王都の明かりが広がっていた。
伸びた光が王都に届き、街がキラキラと輝き始める。
炎の翼から噴射される風の魔力が、夜明けの冷気を切り裂く。
俺たちは、二人分の命の重さを乗せて、その光に向かってまっすぐと進んで行った。
****
王宮の大広間に繋がる重厚な扉の前にフィオナと共に立った。
彼女は美しい銀色の刺繍が施された真っ白なドレスに身を包んでいる。
王都に辿り着いた俺たちは休む間もなくこの時間を迎えたが、彼女は疲労を顔に出すことなく凛と立っていた。
誘拐事件の黒幕であるアバルモート司教はすでに取り押さえられ、大広間にはいない。
「ヴィルハイムも他のみんなも間に合いませんでしたね」
フィオナは罪悪感を滲ませながら寂しそうに少し眉を下げた。
彼女の無事を伝えに使者が向かっている所だから、彼らが戻るのはもう少し先になるだろう。
北に向かったヴィルハイムに至っては、そのままドラクレシュティに帰った方が早いかもしれない。
「そんな大層な式でもない。あくまで教会とアズウェルト王国が協力するために開かれた儀式だ。フィオナは“調和の女神の使徒”として教会から任命されるが、君はあくまで私の妻だ」
俺の言葉に、彼女は頬を赤らめて嬉しそうに笑った。
彼女がこれからどのように呼ばれたとしても、俺の妻であることには変わらない。
「それに……」と俺は言葉を続けた。
「ドラクレシュティに帰ったら……向こうで式を挙げればいい」
「何の式ですか?」
「俺たちの婚礼だな。やっていなかっただろう。暁光の盟約式よりも豪華に行ってもいいな」
どうせやるならば二人の幸せのための式を挙げたい。
そう思って彼女を見ると、彼女は少し声を漏らして笑った。
「豪華な式は必要ありません。サミュエル王子とアイディーン様、シェリル王女、ヴィルハイムに……城のみんながいてくれればそれでいいです」
「……そうだな」
扉が開かれる合図があり、俺はフィオナに微笑みかけた。
「フィオナ、行こうか」
「はい、ルーファス様」
彼女は俺の腕にそっと手を添えた。
扉が開かれると、視線の先には国王陛下、サミュエル、大司教が立っている。
周囲から注がれる視線には相変わらず色々な思惑が滲み出ている。
それでも、俺は必ず彼女を守り切る。
二人で幸せに生きる未来を失わないために。




