この地で私ができること
二日目の朝、私は城の食堂で朝食をいただいた。
初めて足を踏み入れた広く美しい食堂の壁には、絵画の代わりに銀の装飾品が飾られている。
その部屋の中央に置かれた大きく長いテーブルに私が着席すると、使用人たちが次々に料理を運び始めた。
美しく盛り付けられた料理の数々は、見たこともないものばかりだ。
ミリーが給仕してくれたものを少しずつ口に運ぶが、どれも美味しいという感想しか浮かばない。
まるで都合の良い夢でも見ているかのような感覚に、本当にここにいていいのかという気持ちばかりが募っていく。
朝食が終わり、ミリーが淹れてくれた紅茶を飲んでいるとアルローが入室してきた。
「おはようございます。奥様、お加減はいかがですか?」
「おはようございます。おかげさまで、すっかり良くなりました。ご心配をおかけして申し訳ありません……」
私の言葉に、アルローは「それは良かった」と目尻に皺を寄せて優しく微笑む。
「アルロー……あの、ドラクレシュティ辺境伯は朝食には来られないのでしょうか?」
その言葉に、アルローは少し気まずそうな顔で申し訳なさそうに口を開いた。
「旦那様は早朝より騎士団の訓練に参加されていらっしゃいます。ああ、こちらの窓から見えますよ」
アルローに言われて窓の外を見ると、眼下に騎士団の訓練所と思われる場所が見えた。
そこでは、ドラクレシュティの騎士たちが魔法を使った訓練を行っている。
「あちらがルーファス様ですよ。あまり魔法は使わないでくださいと、いつも言っているのですが」
少し渋い顔をしながらアルローが示した人物は、一目で分かった。
銀色の簡易的な鎧をまとった騎士たちの中に一人、黒いマントを羽織った人物が、周囲とは比較にならないほどの大きく美しい炎を操っているのだ。
私は彼の美しい姿に釘付けになった。
炎はまるで生きているかのように、彼の周りを美しく舞っている。
昨日も執務が忙しいとおっしゃっていたのに、今日は朝から訓練までされているなんて……。
噂の残虐さとは裏腹に、とても勤勉な方なのかもしれない。
「ドラクレシュティ辺境伯は魔法の名手だと伺いました」
「そうですね。ルーファス様は六柱の神の魔法全てを使いこなされますから。執事の身ではありますが、ルーファス様の魔力量、並びに魔法の扱いはアズウェルト王国一だと思われます。私は見たことがございませんが、空を飛ぶこともできるのだとか」
「空を……ですか?鳥のように?」
「詳しいことはわかりませんが、先の戦いで見た者がいるという話を聞いています。
ただ……お見せするのは難しいかもしれません。空を飛ぶような大きな魔法では、どれほどの瘴気が発生するかわかりませんから……」
「瘴気」は魔法の副産物だ。
自然の理を捻じ曲げる魔法の力は、その代償として瘴気を生み出す。
魔法は貴族の血筋にのみ与えられる万能の力のように見えるが、決して万能ではない。
瘴気は、土地や人を汚染する。
植物は枯れ、人を蝕身病にし、動物を魔物に変えるのだ。
瘴気が身体に蓄積されたことで起こる蝕身病は一度なってしまうと、二度と治ることはない。
そして蝕身病患者の身体の中に蓄積された瘴気が溢れ出すと、その瘴気は恐ろしい呪紋となって皮膚に現れ、やがて死に至る。
「本来であれば、城の内部で魔法の訓練は致しません。瘴気が出ますから……。しかし、ルーファス様は、騎士団が城外で訓練を行い城を空けることの方が危険であると判断されました。『闇の魔法で瘴気を消し去ればいいのだろう』と」
そう。唯一、土地を穢した瘴気だけは大きな代償と引き換えに闇の魔法で取り除くことができる。
闇の神の魔法は、存在するものを奪い去るという強力なもので、それは土地の瘴気も例外ではない。しかし、瘴気を消し去った分だけ、術者の身体に瘴気が蓄積される。
――そう、闇の魔法で伯爵領の瘴気を取り除き続けた母はそのせいで蝕身病になった。
だからこそ闇の神の祝福を得ていたとしても、自分の身体を犠牲にして土地の瘴気を消し去るなんてことは早々ない。
「ドラクレシュティ辺境伯は、領民のことを考えていらっしゃるのですね……」
ただ、ご自身のことは……?
美しく炎を操りながらも自身を犠牲にするルーファス様。
その姿が「大丈夫よ」と無理をし続けた母の姿に重なって見えた。
そんな私の気持ちを察するように、アルローは少し困ったように微笑んでから話題を変える。
「もしよろしければ本日は城内をご案内しようと思うのですが、いかがでしょうか」
「城内を?」
「はい。よろしければ」
私はその提案を快く承諾し、アルローに迷路のように複雑な城の内部を案内してもらった。
城内に華美な装飾はないが、城のあちこちには領地の名産品である銀を使った美しい銀細工が施されており、その一つ一つが精巧で息をのむほどだ。
アルローは各部屋をとても丁寧に説明してくれる。自分の仕事とこの城に誇りを持っているのだろう。
庭園に案内された時には、もう昼を少し回っていた。
庭師が丹念に手入れしているのだろう、庭園は色とりどりの花が咲き誇り、まるで御伽噺の中のようだ。
アルローの提案で、昼食は庭園でいただくことになった。食後に出された紅茶を飲みながら、私はアルローに微笑みかける。
「案内ありがとうございました」
「いえいえ。執事として当然の事でございます」
アルローがそう微笑む横で、ミリーが果物を乗せた皿を出しながら口を開いた。
「それにしてもフィオナ様には驚きました。散策中に会った使用人全員に、ご挨拶されるんですもの」
「できるだけ名前を覚えたくて」
今見ている庭園も、美しく整えられた部屋も、いただいた食事も、そして食べやすい大きさにカットされた果物一つでさえ、顔は見えなくても人が関わっている。
その人々に私が出来る事といえることといえば、礼と感謝を伝えることだけだ。
紅茶を飲み終え、庭園の花を眺めていると、こちらに近づいてくる人影が見えた。
先ほど窓から見た、黒い髪に、裏地が赤い黒いマントを羽織った男性。
ドラクレシュティ辺境伯ルーファス様だ。
数人の従者を従え、彼はまっすぐにこちらへと向かってくる。私は急いで立ち上がり、礼の姿勢を取った。
「顔を上げていい」
その言葉に顔を上げると、少し長めの黒髪から覗く赤い瞳が、じっと私を見つめていた。その顔からは、感情を読み取ることができない。
少しの沈黙の後、彼は重々しく口を開いた。
「昨日倒れたと聞いた」
「あ……もう、おかげで良くなりました。ご心配をおかけして、申し訳ありません……」
そう返すと、「そうか。ならいい」とだけ返して、彼は背を向けて城内へと戻って行った。
その場に残ったのは赤茶色の髪をした、昨日ルーファス様の横にいた男性だ。穏やかに微笑む彼は、胸に手を当て私に礼をする。
「ご挨拶が遅れました。ヴィルハイム・ドラクレシュティと申します。フィオナ様、昨日は兄上が失礼致しました」
「いえ……!昨日はありがとうございました」
「倒れさせてしまう前に声をかけられれば良かったのですが申し訳ありません。私は兄上の補佐を行っておりますので何かありましたらお声がけください。それでは私はこれで……失礼致します」
そう言ってヴィルハイム様は足早にルーファス様を追いかけていく。
「ルーファス様には弟がいらっしゃるのですね」
クロエとは全く違う柔らかい雰囲気のヴィルハイム様に驚きながらそう呟くと、アルローが賛同するように頷く。
「大旦那様と長男のロスウェル様は旦那様が15歳のデビュタントを終えてすぐ、事故で亡くなられました。奥様はそれから心を病み2年後に……。現在この城ではヴィルハイム様だけがルーファス様の血縁者です。ヴィルハイム様は現在副領主としてルーファス様の補佐を行っております」
そう言えば、屋敷内に家族の肖像画が一枚もなかったことを思い出した。
大体は目立つ場所に飾られているはずの一族の肖像画。
それがないということは、おそらく複雑な事情があるのだろう。
『神に見捨てられた者』である私が妻として選ばれた理由と同じように……。
「アルロー、私はこのドラクレシュティで何をしたらいいのかしら?」
「……特にはこれと言って申し付けられてはおりません。フィオナ様に関する予算をルーファス様よりお預かりしておりますので、その範囲であれば好きに過ごされて構わない、そう伺っております」
好きに過ごして構わない。
そう言われて、膝の上に乗せた手に力が入る。
残虐非道な悪魔公と呼ばれるルーファス様だが、私には噂のような人物だとはどうしても思えない。
先程この場所を訪ねてくれたのも、きっと私を心配してくれた上での事だったのだと思う。
「アルロー……与えられた予算で、教師を付けてもらうことはできるかしら?」
「はい、もちろんでございます」
今の自分には貴族としての知識も、辺境伯夫人としての振る舞いも何一つ足りていないことだけはわかっていた。
ルーファス様が、私のような「神に見放された者」でも“ここにいていい”と言ってくれるのならば、望まれていないとしても、それに相応しい自分でありたい……そう強く思った。




