悪魔公の秘密
数日後、アルローが依頼した教師がやってきた。
王都で数々の令息や令嬢の家庭教師を務めた女性で、その功績により国王から女伯の地位を賜った方らしい。ルーファス様やそのご兄弟も、その方の教え子だという話だ。
辺境伯の妻に求められる礼儀作法や知識はかなり高度で厳しいものだったが、十分な教育を受けられなかった私は『学ぶことができる』という環境そのものがとても嬉しかった。
そうして過ごしていくうちに、季節はゆっくりと移り変わっていく──。
「どうですか?フィオナ様」
夏の兆しが見え始めた頃、ミリーは蜂蜜色の瞳を輝かせながら私に尋ねた。
アンナとミリーが毎日手入れしてくれたおかげで、肌や髪はどんどん美しくなっていった。淑女としての身だしなみをアンナに助言されてから、ドレスも新しくしたので、自分でも見違える姿になったと思う。
「美しいわ。ありがとう。でも今日は先生が来られない日なのだから、こんなに美しく結わなくてもいいのよ?」
「朝食に旦那様がいらっしゃるかもしれません!フィオナ様の美しさを、旦那様にはもっと見ていただきたいんです!
絹のようなシルバーブルーの髪に、宝石のような青い瞳。どんどん洗練されていく美しい所作!フィオナ様はドレスも宝石も買われませんし……フィオナ様の美しさを際立たせるには、もう私が髪を美しく結い上げるしかないんですもの!」
春の初めに婚姻を結んでから、もう一つの季節が過ぎたが、私はドラクレシュティ辺境伯から閨を求められるどころか、ほとんど会うことすらない生活を送っていた。
たまに朝食が一緒になることはあるが、会話はごくわずかだ。
(今教師から何を習っているか……その報告をするくらいかしら)
これほどまでに多くのものを与えてもらった私が、これ以上を彼に求めるなんてできない。
「ドレスは失礼がない程度のものしか必要ないし、装飾品も今は特に付けていく場所もないわ」
アンナがいれば、そろそろミリーは叱られる頃だろう。しかし今はアンナが退室中。
ミリーは感情豊かに口を尖らせて不満そうな顔をした。
「わかっております。だから、旦那様がフィオナ様に贈ってくださらないかな……と」
そう言いながら、彼女は最後に私の宝物のリボンを髪につけてくれた。
リボンはもう古くて、新しく誂えたドレスに合っているとは言えない。でも、亡くなった母が刺繍してくれた形見のリボンだと知った彼女は、イサドラ先生が来ない日だけでも、とこのリボンを使って髪を整えてくれるのだ。
そんな彼女の細やかな気遣いに、心が温まる。
「そんな話をするってことは、ミリーが最近つけている髪飾りは、トニからの贈り物なのね?」
私がそうからかうと、ミリーは顔を真っ赤にしてこくりと頷いた。
トニは城の厨房で料理見習いをしているミリーの恋人だ。
ミリーによると、彼は料理長を目指して一生懸命働いているらしい。最近、トニは朝食の一品を任されるようになったと、ミリーは誇らしげに話していた。実際、トニの作ったメニューはとても美味しくて、それを褒めるとミリーは自分のことのように喜んでいた。
真面目な彼と、明るくて天真爛漫なミリーはとてもお似合いだと思う。
そして、こういう話をする友人もいなかった私にとって、母親のように優しくも厳しいアンナの目を盗んでする、友人とのような話はとても楽しかった。
「トニと結婚するなら、必ず教えてちょうだいね。お祝いを贈りたいの」
私の言葉に、ミリーが道具を片付ける音が一瞬止まった。
「……トニと結婚は……できないと……思います……」
「え……?」
鏡越しにミリーの顔を見ると、いつもの天真爛漫な表情に、陰りが差している。
「ミリー……?」
「ルーファス様から……私の事情は伺っておりませんか?」
私が「いいえ」と首を振るとミリーは不安そうに揺らめいた。ちょうどその時、アンナが「朝食の準備が整いました」と入室したことで、会話は打ち切られてしまう。
それから数日ーー
私はミリーのあの表情が、頭から離れないでいた。
一方のミリーは、何事もなかったかのようにいつも通り振る舞っている。話を聞きたいと思っても、私はなかなかそのタイミングを見つけられずにいた。
ミリーの事情とはなんだろう。
ルーファス様から聞いていないかと尋ねられたと言うことは、彼はミリーの事情について知っているということだ。
ミリーはあまり深入りしてほしくないような様子だったが、大切な侍女が抱えている問題を放置しておくなんてできなかった。
そして、その日はすぐにやってきた。
数日ぶりにルーファス様と朝食を共にすることになったのだ。
その上幸運なことに、今日の朝食の給仕はアンナだった。
「あの……一つ伺いたいことがあるのですが」
「なんだ?」
朝食が終わり、お茶を飲むタイミングで私は話を切り出した。
ルーファス様はお茶を飲む手を止め、私の話を聞く体勢をとってくれる。
「侍女のミリーなのですが……彼女は何か……特別な事情を抱えているのでしょうか」
私はミリーが「結婚できない事情」があると漏らしていたことを彼に説明すると、彼は眉間に皺を寄せ机を指でトントンと叩いた。
「君はそれを知ってどうするつもりだ」
「……もし、私に出来ることがあるなら力になりたくて」
私がそう言うと、ルーファス様は疑うに視線を険しくする。その無言の圧に心臓が脈打った。
「……君が侍女の秘密を暴いても後悔しないならば案内しよう。君には自分の侍女について知る権利があることは確かだ」
「案内……?」
案内という言葉の意味が分からず聞き返すと、ルーファス様は話は終わりだとお茶を飲み干し、席を立つ。
私も慌ててお茶を飲み干し、彼の後を追った。
ルーファス様と私は、食堂を出て城の城壁にある小さな木製の扉の前に立っていた。
彼の表情は見えないが、彼の従者もアンナも、扉を見る表情が少し固いように見える。
なぜここで立ち止まっているのかというと、話を聞きつけたヴィルハイム様が止めに来たからだ。
「兄上、フィオナ様を奥にお連れするなんて……!」
「彼女が尋ねてきたのだ」
そんな二人のやり取りに、私の心は少し痛んだ。
「嫁いできたばかりの奥様を、連れていくような場所じゃない」
そう主張するヴィルハイム様に痺れを切らしたのか、ルーファス様は扉を開け、中へ入るようにと私に促した。私に続こうとするアンナに、彼は手で制止する。
「ミリーが下にいるだろう。アンナはここにいていい。他の者もここで待機してくれ」
そう言ってルーファス様は扉を閉め、「行くぞ」と声をかけた。
扉の奥には細道があった。人が一人通れる幅のその道は、森の奥まで続いていく。
彼はどんどんその道を下っていく。歩幅が違うため、何度も置いていかれそうになるが、距離が離れると彼は立ち止まって、私が追いつくのを待ってくれていた。
そうして辿り着いたのは、二階建ての木の建物だった。二つ並んだ建物には、それをつなぐように長い回廊がついている。まるで隠されるように木立の中に立つその建物の前には、数人の子どもたちが遊んでいた。
「あ!ルーファス様だ!」
私たちを見つけた子どもたちは、遊びをやめて駆け寄ってきた。子どもたちは彼に向かって次々に口を開く。
「どうされたんですか?」
「その方は誰ですか?」
ルーファス様が「落ち着け」と子どもたちに声をかけると、子どもたちは次第に静かになる。
「彼女はフィオナだ。ここを見たいと言うので連れてきた。案内してくれるか」
そう言うと、子どもたちは楽しそうに「はーい!」と私の手を取って引っ張っていった。
建物の中に入ると、小さな子から少し大きな子まで、さらにたくさんの子どもたちがいた。彼らは一斉にこちらへと駆けてきて、矢継ぎ早に質問してくる。ルーファス様は子供達の質問には答えず手を上げて子供たちを静かにさせた。
「質問は後だ。シーナを呼んでくれ」
「はーい!」
注意された子どもたちは、名残り惜しそうに建物の2階へと上がっていく。そして子どもたちに呼ばれて来たのは、穏やかそうな壮年の女性だった。彼女は、私の後ろから入って来たルーファス様を見て、「あらまぁ」と声をあげた。
「もしかして、フィオナ様ですか?お会いできるのを楽しみにしておりました。でもまさか、ルーファス様が連れてこられるなんて」
そう言って驚く彼女に、彼は少しばつの悪そうな顔をした。
「フィオナにこの場所の説明を頼む。ミリーは奥か?呼んでくる」
ルーファス様の言葉にシーナは慌てたが、彼はさっさと建物の奥へと消えていった。子どもたちはルーファスを途中まで追いかけたが、彼が廊下の奥にある扉に入ると、その前で立ち止まる。
「座ってお話しましょう。こちらへどうぞ、フィオナ様」
シーナはそう言って、入り口に近い部屋へと入っていった。そこは長いテーブルと、背もたれのない長椅子が等間隔に並び、食堂のように見える。彼女が示した椅子に腰掛けると、彼女はその向かい側に座った。
「こちらは、ルーファス様がお造りになられた孤児院なのです。オストビア帝国の侵略を受けた地域にはたくさんの犠牲者が出て、多くの瘴気が土地を穢しました。
ここの子どもたちの親は、全員亡くなっているか、瘴気に侵されて蝕身病になり、動けなくなっております。通常の孤児はその村や町の者が育てておりますが、瘴気も増している中、これほどの孤児を育てていくことはできません。それで、ルーファス様がこの孤児院を作られたのです」
彼女はそう言って、ルーファス様の消えていった方角に視線をやった。
「辺境伯が行かれた先も、孤児院なのですか?」
「いいえ……」
彼女は少し言葉を詰まらせると、言いにくそうに話し始めた。
「この奥には、蝕身病の救護院があるのです。半数以上は呪紋も出ており、長くはありません……。蝕身病はうつると思われていますから、城で働いている使用人も、上の者はここの存在を知ってはおりますが近寄ろうとは致しません。
ミリーをはじめ、救護院に家族を預かってもらっている使用人が交代で世話をしております」
蝕身病……。
その言葉に古びた納屋の中で触診病に苦しむ母の姿が頭に浮かび上がり、私の胸は押し潰されそうになった。




