現実への回帰
負傷したヴィルハイムを連れて城へと戻った。
そしてフィオナに彼の負傷について説明すると、彼女は顔を青くして俺に詰め寄る。
「ヴィルハイム様に何があったのですか!」
「魔物から俺を庇った」
「そんな……傷は?!」
答えられない俺に、フィオナは「酷いのですね?」と言って扉へ向かって駆け出した。
「フィオナ!!」
「行かせてください!!」
「ダメだ!!」
彼女の腕を強く掴み引き留める。
「貴方の孤独が…終わりますように」
あの日の腕の中で息絶えたフィオナの声が、氷のように冷たい刃となって脳裏にこだまする。
温かかったはずの彼女の腕がまるで凍りついた墓石に触れたかのように、冷たい体温を帯びていく錯覚に襲われた。
俺は彼女を二度と失いたくない。
あの未来を変えるために。
彼女を聖女ではなく、ただのフィオナとして生かすために行動してきた。
だから……彼女を行かせる訳にはいかない。
夢の世界だと分かっている。
だからこそ、どんな犠牲を払ってでも彼女を守ると決めたのだと「彼女の力でヴィルハイムを助けろ」と叫ぶもう一人の自分を押さえ込んだ。
「君にできる事はない」
そう言い放ち彼女の決意を砕こうとしたその瞬間、フィオナは青い瞳から大粒の涙を溢した。
その涙が、俺の服に染み込んでいく。
そして絞り出すようなか細い声で俺に懇願した。
「蝕身病は……他の人には分かりませんが、私にはうつりませんでした。私は何年も呪紋の浮かび上がったお母様の看病をすぐ側で行っておりました。だから……お願いです。誰も看病できないなら、私が看病を行います。ルーファス様のただ一人の大切な弟を……私にも助けさせてください……」
「……弟」
「兄上」と笑う幼い頃のヴィルハイムが脳裏に浮かんだ。
「ヴィルハイム様は、ルーファス様の幸せを……願っていました。たくさんの苦しみを一人で背負い続けていたルーファス様に幸せになってほしいのだと……だから……お願いします。私にもできることをさせてください」
記憶にないフィオナの言葉。
ヴィルハイムとフィオナの間で交わされたやり取りを彼女は泣きながら語った。
「ヴィルハイムが……そう言ったのか?」
彼女が夢の世界に浸かるような俺の意識を引っ張り上げる。
「何度でも言います。ドラクレシュティ辺境伯は兄上です。例え、兄上がこのまま瘴気に飲み込まれたとしても、残された時間を彼女と夫婦らしい生活を送る事は可能です。それにもし子ができれば、私は喜んで兄上の子が独り立ちするまでの中継ぎの辺境伯になりましょう」
そう俺に言ったヴィルハイムの真剣な顔。
ヴィルハイムの変化に俺は戸惑っていた。
何故そこまで、俺が辺境伯である事に固執するのかと。
都合のいい夢の世界で、何故ヴィルハイムだけが都合よく動かないのかと。
「幸せになってほしい」
そんな言葉は彼から聞いたことがない。
そのようなヴィルハイムは記憶にない。
いや違う。
彼はずっと俺の幸せを望んでいたのだ。
王家も敵に回す覚悟でフィオナを塔に閉じ込めた時も、彼は苦悶の表情を浮かべながらも俺に従った。
ドラクレシュティの立場を考えるなら、王族にフィオナを差し出すことが最善である事をヴィルハイムはわかっていたはずだ。
俺と共にフィオナを守る必要は、ヴィルハイムにはなかった。
俺がそうあってほしいと望んだ事だから、彼は従ったのだ。
俺の幸せをただ願って、共に戦う覚悟をした。
では今は?
私の幸せを願い、都合よく動かないヴィルハイムは本当に夢??
「……この世界は……現実なのか」
その言葉が口からこぼれた瞬間、まるで鈍器で頭を殴られたかのような衝撃が走った。
フィオナを失ってから、俺の世界は色を失い、音も、匂いも、味も、そして痛みすらも、すべてが曖味な幻のようだった。
だが今。全身の感覚が、まるで嵐のように一気に俺の身体へと叩きつけられる。
耐え難い右腕の痛みが再びこの身を灼き尽くす。
その痛みが、この世界が夢でも幻でもなく、紛れもない現実であることを俺に証明していた。
「ルーファス様……っ」
俺の胸に縋りつき、震えているフィオナの髪を痛む右手でそっと撫でた。
彼女を失う事が何よりも怖い。
でも、だからと言ってヴィルハイムを失うことなんてできない。
フィオナを強く抱きしめた。
彼女の温かい体温と胸の鼓動が伝わってくる。
「頼む。助けて……くれ」
彼女は「はい……!」と俺の胸の中で頷いた。
ヴィルハイムの部屋に彼女を連れて行った。
ヴィルハイムの従者は決死の覚悟で側にいると言っていたが、外へと出てもらった。
寝台に横たわるヴィルハイムは、額には脂汗がにじみ、その下の青白い肌には赤黒いアザと黒い紋様が浮かび上がっている。
唇は血の気を失っており、わずかに開いた隙間からは絶え間なく荒い呼吸が漏れ出ていた。
「兄上、フィオナ様を……連れてきちゃダメではないですか」
入ってきた俺と彼女を見てヴィルハイムは掠れた声でそう軽口を叩いたが、その瞳は苦痛に濡れ、今にも光を失いそうだった。
「マロウのお茶は?!」
「さっき飲みました。飲んでも苦しいものですね……っ、はぁ、...はぁ、まるで身体の中で魔力と肉を食い破ってるみたいだ」
フィオナは氷水に浸した布を絞りそっと彼の額を拭った。
冷たい布の感触に、ヴィルハイムの苦悶の表情がわずかに和らいだ。
しかし、彼の体から放たれる瘴気は、部屋の空気を重く、冷たいものに変えていく。
フィオナはその瘴気がまるで生き物のようにヴィルハイムの肉体を蝕んでいるのを、肌を通して感じ取っていた。
「フィオナ様……うつるかもしれませんから……部屋から出てください」
掠れた声でヴィルハイムがそう言ったがフィオナは首を振った。
「蝕身病も、呪紋も怖くありません」
「でも、多分これは……やられた所が悪かったみたいです。助かりません」
その瞳は自分自身への諦めが入り混じっていた。
そして、体の中から湧き上がる激痛に叫ぶ。
「眠る薬を使おう」
ヴィルハイムの首を支え、口に薬を流し込む。
強制的に眠らせる薬だ。じき彼の意識はなくなるだろう。
「兄上……俺は……兄上の幸せを……願っています……」
ヴィルハイムは胸を押さえ苦痛に呻きながらも、橙色の瞳を真っ直ぐ俺に向けて微笑んだ。
その微笑みは、もはや死を覚悟した者の静かな安堵のようだった。
ここにきて、俺の心臓はまるで生きたまま抉られるような激しい痛みに襲われた。
フィオナに浄化の力を使わせる。それが何を意味するのか、恐ろしいほどによく分かっている。
“ヴィルハイムの命の代わりに、君が不幸になってくれ”
そう言っているに等しい。
この夢の世界で、俺は全てを支配できると信じていた。
フィオナを聖女としてではなく、ただのフィオナとして俺の隣に置くこと。
ヴィルハイムに爵位を継がせ、彼女の穏やかな幸せを守ってもらうこと。
この決断は、徐々に瘴気により衰退していくドラクレシュティの領民、アズウェルト王国全てを犠牲にする決断だ。
それでも、彼女の幸せのためなら構わないと思った。
彼女がいない世界など、何の価値もないのだから。
しかしヴィルハイムは俺の身代わりとなり、今、死の淵を彷徨っている。
でも、フィオナを救うためヴィルハイムを犠牲にすることは、俺にとって「当然の代償」だったはずだ。
「呪紋が魔力を食い破っているなら、魔力だけでも……」
「待っ……」
フィオナはそのままそっと彼の手を握りしめた。
ヴィルハイムの体が白く淡い光に包まれていく。
それは彼女が瘴気を浄化する力を、彼の呪われた肉体へと流し込んでいる証だった。
俺はヴィルハイムが助かるという安堵と、フィオナを失うという絶望に膝をついた。
これでまた……フィオナを失う。
その時、サミュエルの言葉がふと浮かんだ。
「……彼女の心を、一人にさせないことだ。そしてもっと私を頼れ!友人だろう!」
サミュエルの声が凍てついた俺の心を揺さぶった。
フィオナの心とは、何を意味していたのだろう。
フィオナを「ただのフィオナ」として生かすというのは、俺の独りよがりな願いだったのだろうか。
「ルーファス様……これ……!!」
フィオナはヴィルハイムの身体に浮かび上がる呪紋が消えていく事に歓喜の声をあげた。
その希望に満ち溢れた瞳は見たことがある。
俺の呪紋を消し去った時、そして救護院の患者達を救えた時の瞳だ。
フィオナは……俺が恐れていた「聖女」の力を持つ「道具」なんかじゃない。
彼女は、俺の大切なものを守るために共に戦おうとしてくれる女性だった。
彼女の心からの笑顔は、俺の大切な物を守れた時に見ることができた。
じゃあ彼女のこの笑顔を守るには??
誰かと一緒なら、この笑顔を守れただろうか。
ふいに胸の中の紋章の刻まれたロケットが熱を持った気がした。この熱には覚えがあったことを思い出す。
引っ張りだして、ロケットを開く。
そこには瞳に小さな赤い石が埋め込まれたマイアストラのお守りが入っていた。
ぐるぐると葛藤するルーファス。
彼が一番恐れているのは大切な者を失う事です。




