調和の女神の力
「フィオナ様、血が出てる。止めるよ」
ルーファス様の背中が見えなくなっても温室の方角を見続ける私に、リオが声をかけた。
リオは私の頬に手をかざし光の魔法を使おうとしたが、その手をそっと止める。
「大丈夫。たいした事ないわ。それよりも中はどうなってるの?アイディーン様は無事?」
「分からない。それどころじゃなかったんだ……テオ?!」
リオの横で私の手を握っていたテオが力無く倒れた。
呼吸は荒く意識がない。リオが慌ててテオの傷を診るが深い傷はないみたいだ。
「リオ!テオはどうしたの?!」
「分からない!服の下かも……?!」
リオはそう言って短剣を取り出し、テオの服を切り裂いた。
するとテオの左腹部には赤黒いアザ、そして黒い紋様が浮かび上がっていた。
「呪紋……?!どうして?!」
「大丈夫。治せるわ」
私はテオの呪紋に手を当てて必死に祈りながら魔力を流した。
テオの身体は白い光に包まれ、呪紋は小さくなっていく。
「早い……」
祝福を与えてくれた女神の名前を知ったからだろう、浄化の力が明らかに上がっている。
テオの呼吸は穏やかになり顔色が良くなったのを確認し、私は魔力を止めた。
私はリオに向き直る。
「リオ、温室で何が起こったの?」
「視界がほとんど見えない中、次々に味方の騎士が倒れていったんだ。中の瘴気もすごくて色んな魔法の光が……全ての魔法が入り乱れてた」
「全ての?」
私は温室を見た。
まだ激しい戦闘の音が聞こえている。
私はついさっきルーファス様にアイディーン様を助けて欲しいと言ってしまった。あの爆発の中に彼を送り込んでしまったのだ。
そのためにルーファス様を失ったら?
激しい後悔が胸を焦がす。
「リオ、私も行く」
「ダメ!!!何言ってるの?!フィオナ様が行っても何もできないよ!」
リオは私が駆け出さないようにと腕を握り真剣な顔で言った。
「フィオナ様が今行ってもできることはないけど、あれだけの魔法が使われたんだ。その後ならできる事があるでしょ?」
確かにそうだ。
私が今行ったとしても足手まといにしかならない。
温室に向かって私は全員の無事を祈ることしか……。
少しして、温室から強い風が吹き城壁近くにいた私の髪が靡いた。
その風と共に、温室に満ちていた白い煙は一瞬にして消えていく。
煙が晴れた温室の真ん中には、ただ一人、ルーファス様が立っていた。
戦闘はすでに終わっていた。
私は彼に向かって駆け出す。
足元の砕けたガラスがパキパキと音を立てるのも構わず、温室の中へと入っていくと、中は錆びた鉄のような匂いが充満していて、胃液が上がってくるのを必死に堪えた。
「なに……これ……」
温室の白い石の床は至る所が割れ、真っ黒な瘴気に満ちていた。
そして至る所に血を流した騎士や令嬢、黒いローブの男たちが苦しそうに呻きながら倒れている。
瘴気と血で黒く染まった灰色の地面からは、倒れた人達の身体に入り込もうとするかのように、黒い瘴気の粒子が地面から湧き上がっていた。
「ルーファス様!!!」
ルーファス様の胸に私は飛び込んだ。彼はそんな私を強く抱きしめる。
「怪我はありませんか?」
「ああ……」
私は彼の全身を見て怪我がないか確認すると、彼の言葉を最後まで聞く前に私は彼の腕から飛び出した。
「リオ!怪我をしている人の治癒を!」
「わかった!!」
リオは出血が多そうな人から順に光の魔法をかけていく。
それを見たルーファス様が全員に行き渡るような光の魔法をかけた。淡い黄色の光が彼らを包み込むと、彼らの傷がみるみるうちに塞がっていく。
私はその中からアイディーン様の姿を探した。
私達が別れた場所から遠く離れた場所に彼女はぐったりと横たわっていた。
「アイディーン様!……アイディーン様!!」
ぐったりと倒れていた彼女を助け起こすと、微かに胸が動いている。しかし、その顔には不気味な呪紋が浮かび上がっていた。
「一体……」
見渡すと、みんな出血だけじゃない。
多くの人の体に呪紋が浮かび上がっている。
私は血と瘴気に汚された真っ黒な地面に手を置いた。
温室の全てに魔力を行き渡らせるように、私は全力で魔力を注ぎ込む。
そして調和の女神ハルモニアに心から祈った。
白い光が温室全体を包み込んだ。
アイディーン様の顔に浮かぶ呪紋がじわりじわりと消えていく。
地面を覆う黒い瘴気は少しずつ薄くなり、黒い粒子の粒は白い光の粒子と合わさって天に昇るように消えていった。
視界がぐらりと揺れ、私を呼ぶルーファス様の声がひどく遠く聞こえるが、まだ足りない。
ルーファス様はそっと私の肩を支えた。
(お願い。消えて……)
最後の魔力を絞り出すように注ぐと、ようやくアイディーン様の呪紋が消えた。
白い光が消え、身体中から力が抜ける。それをルーファス様が抱えるように支えた。
「……何が……起こったんだ?」
「奇跡だ」
「ドラクレシュティ辺境伯夫人?」
「まるで聖女だ」
意識が戻った貴族たちが起き上がり。自分たちの身体から消えた呪紋を確認し、信じられないというように安堵と困惑の入り混じった表情を浮かべた。
「良かった……」
「フィオナ、もう大丈夫だ。眠れ」
ルーファス様は私の瞼にそっと手を乗せ、私の意識は闇の中へと沈んでいった。