カリタスの手記と調和の女神
私は今までのことを説明した。
私の生まれから、洗礼式のこと、母の蝕身病のこと、母が私に言い続けていた言葉、そして初めて力を使った日のこと。
大司教様は静かに私の言葉に耳を傾けていた。
全てを話し終えると、大司教は目を閉じ記憶を探るように少しの沈黙した後、静かに話し始めた。
「フィオナ様に祝福を与えた神について、思い当たることが一つある」
「本当ですか?」
「ああ。少し待ってくれ」
席を立った大司教様は、書庫にある一つの棚の前でいくつかの資料を取り出し始めた。
目当ての物を探すように、綴じられた羊皮紙をパラパラとめくっていく。そして「これだ」と羊皮紙の束を取り出し、私たちの前に差し出した。
それは研究資料のようだった。著者名は“アイレス”。
古語で書かれた原文の写しに筆者の考察が書かれており、大司教が渡した羊皮紙の束の最後には「真偽不明」と大きく書かれている。
「これは……?」
「これは、神々から最初の祝福を得たとされる“始まりの6人”の子孫を名乗るカリタスという者の手記……それを研究していた、私の師に当たるアイレスという人物のものだ。彼女は神々から頂いた祝福の起源を探り、瘴気に対抗する術がないかを研究していた」
大司教は懐かしむように古く黄ばんだ羊皮紙の束をそっと撫でた。
「この資料について話すためには、神話の話からする必要があるな……。そなたらは洗礼式の時に聞いているだろう。
1000年前、この世界を創り、秩序を司る最高神がいた。最高神は自らが作ったこの世界をこよなく愛しておられたが、自身の創り出した世界で、愛する者を失い、嘆き悲しむ人間の姿を見て心を痛めたのだ。その深い悲しみを憐れんだ最高神は、人間が心安らかに暮らせるようにと願い、自身の身体から火、水、土、風、光、闇の神々を創造し、その祝福を“始まりの6人”に与えた。
“始まりの6人”は神の祝福によって得た魔法と魔力を使い、豊かに暮らすようになった……。これが魔法の始まりだ」
私たちはお互いを見つめ、静かに頷いた。
それは、これまで当たり前のように信じてきた物語が、今目の前で語られていることへの素朴な肯定だった。
私たちが洗礼式で教わった神話もまさにその通りだ。
「では、この話は誰が残した?」
「それは……最初に力を得た6人ではありませんか?彼らは神の声を聞き、神からの祝福を得た……と」
私がそう答えるとルーファス様が首を振った。
「違う。最初に力を得た6人が直接残したものは私の知る限りでは存在していない。私たちが知っている神々に関する話は全て、始まりの6人の周囲にいた者達が残した物だ」
ルーファス様の言葉に大司教様は頷いて肯定を示し口を開いた。
「今世界に存在している神々に関する話は、最初に祝福を授けられた“始まりの六人”の子孫の手記や口伝から伝えられているものなのだ。その手記や口伝を書き記した資料は少しずつ各地に散らばった。資料によって内容が違う事ももちろんある。
教会は長い年月をかけて各地に散らばった神に関する資料を集めている。いや、集めているだけではないな……各地に散らばった資料を読み解き、いつ、誰が書いたのか調べているのだ」
「それでその資料に話が戻る訳だな。アイレス様が真偽不明と判断した…カリタスという子孫の手記に」
ルーファス様の言葉に大司教様は重々しく頷いた。
「カリタスがこの手記を書いたのは晩年のことだ。日記と言うよりも、人生の整理をするための手記といった方がいいだろう。彼の手記の写し……この部分が読めるか?」
ルーファス様が大司教が示した古語の部分を覗き込んだ。
「文体がめちゃくちゃだな……まるで狂っているように見える」
「そうだ。彼の手記を読み解き、他の文献と照らし合わせたアイレス様によると、始まりの6人の子孫……彼の兄弟は全員が祝福を受け継ぎ魔法を使えたにも関わらず、彼だけは魔法を使えなかったそうだ」
私の胸が鼓動を早め、過去の記憶が鮮明に蘇った。
洗礼式で私だけが祝福を与えられなかったあの日のことを。
人々は口々に「神に見放された者」だと嘲笑し、継父からはペンフォード家の恥だと罵られた。
「カリタスは親や兄弟、周りの人々にこう言った。秩序の女神が人間への情で世界の理を歪めてしまったことを嘆いている。そして歪んだ世界の理を調和するために、歪みから新たな女神が生まれた。
私は他の神でなく、その女神の祝福を賜ったのだ、と……。
しかし、人々は誰もその話を信じなかった。彼は嘘つきと罵られ迫害され、人々を恨み、この手記を書くに至った。」
歪んだ世界の理とは、魔法を使った代償である瘴気のことだろうか。
では歪んだ世界を調和するのは浄化の力……?神々からの祝福を得られず魔法が使えなかったこと、瘴気を浄化する力……それは私の力と合致しているように思えた。
同じ事を考えていたのだろう、ルーファス様は大司教様に質問を挟んだ。
「何故彼の手記はアイレス様に真偽不明とされたのでしょう」
ルーファス様の問いに、大司教様は羊皮紙から目を上げ、遠い昔を懐かしむような、しかしどこか悲しみを湛えた眼差しで虚空を見つめた。
その表情は、教会の権威を纏った彼の顔から、一人の人間としての面影を垣間見せるようだった。
「この手の話は多くあるのだ。予言者、代弁者など名乗り虚言を吐く者もいる。手記や口伝が全て真実というわけではない。カリタスの名は、始まりの6人に関わる他の手記にも登場することから、存在はしたことは分かっているが嘘つきの愚か者として書かれている。誰も彼の言う新たな女神の魔法を見た者がいないのだ。だから、彼の手記は真偽不明と結論づけられた」
「カリタスは自身が新たな女神の祝福を得ていることを“知っている”のに使わなかった……ということですか?」
「そういうことになる…。この話が真実だとすればな」
資料を見ると、アイレス様の多くの書き込みが見えた。歪んだ世界の理を瘴気と仮定し、まるで縋り付くようにこの話が本当であるということを結論づける証拠を探しているように見える。
あと一歩で真実に届きそうなのに、これ以上の答えは見つからなかった彼女の「真偽不明」の文字に胸が痛んだ。
「わかった」
小さくルーファス様がそう呟いた。
その声は、あまりにも静かだったため、私と大司教様は思わず顔を見合わせた。
「カリタスの魔法を何故誰も見たことがないかわかった。この世界にはまだ瘴気がなかったんだ」
その言葉に、大司教様は驚きに目を見開いた。
長年の謎が一瞬で解けたことへの衝撃と、それが示唆する恐るべき真実への戦慄を物語っていた。
理解しきれていない私に、ルーファス様は言葉を続ける。
「今の世界は多少の差はあれど、どこも瘴気の問題を抱えている。なぜなら瘴気は溜まる一方で闇の魔法以外、取り除く術がないからだ」
そう、闇の魔法で大地の瘴気は消し去ることができるが、闇の魔法で消し去った瘴気は術者の身体に蓄積されていく。
身体に蓄積された瘴気は大地の代わりに人の身体を蝕むのだ。
それが身体の不調として現れれば、人はそれを『蝕身病』と呼び、蓄積された瘴気が身体の表面に現れると、それを『呪紋』と呼ぶ。
だからこそ貴族達はあまり闇の魔法を持っていても大地の瘴気を取り除くことはしない。
それこそ魔法競技会くらいだ。
「では、何百年も前の世界では大地に蓄積された瘴気はどの程度だったと思う?」
「問題ない程度だったと思います。だって人々が魔法を使い始めてからそれほど……あっ!!」
「そうだ。カリタスの時代、人々は瘴気の存在に気づいてすらいなかったのだ。私の身体は舞踏会の後、フィオナに全ての瘴気を浄化してもらった。あれから一度だけ、魔法競技会で僅かな瘴気を闇の魔法で消し去っている。あれくらいの瘴気では全くと言っていいほど身体に影響はない。そんな私が今ある瘴気をフィオナに浄化してもらったら、気づくと思うか?」
私は小さく首を振った。
ミリーの家族の住む村に到着した時、屋敷前に集う村人全員に浄化をかけたが、身体の不調が改善したと感じる人は一部だった。
でも多少なりともあのような土地に住んでいれば身体に瘴気はあるはずなのだ。
カリタスの時代にも確かに瘴気はあったのだろう。
しかし彼の時代では誰も瘴気に気づくほどの問題は発生していなかった。
「では、この手記は真実であったという事だな?アイレス様の研究は無駄じゃなかったと……」
大司教様は声を震わせながら、古語で書かれた文字に手を添えた。その文字には線が引いてあり、その真下にアイレス様の現代語訳がある。
『私は調和の女神 ハルモニアから祝福をいただいた』
そう記されていた。
大司教は少し感傷に浸るようにその文字を噛みしめた後、背筋を正し私たちへと向き直った。
「ルーファス様、フィオナ様……教会の者である私では立場が違うことは重々分かっております。しかし、まだこの力には解明されていない謎が多く残されている」
今までの歴史に点在するように存在した「神に見放された者」が、みんな調和の神ハルモニアから祝福を得ていたのか。
そしてこの力を使うための正しい方法。
まだこの力にはわからないことが多い。
「教会には各地から集めたこのような文献がまだいくつも残されております。全てを今すぐに開示することはできませんが、その力の解明にぜひ協力させていただきたい」
大司教様はそう言って頭を下げた。
ルーファス様は、少し驚いたように大司教様を見つめた。これまで敵対する存在として見てきた教会が、協力を申し出てくるとは想像もしていなかったのだろう。
しかし、彼の瞳は、その申し出を真剣に検討していることを物語っていた。
「……大司教」
ルーファス様は静かに口を開いた。
「我々もこの力を解明し、この国の瘴気を終わらせたいと願っております。その為には大司教のお力が必要です。是非協力をお願いしたい」
ルーファス様は大司教様に深々と頭を下げた。私も静かに一礼をする。
それは、単なる形式的な挨拶ではなく、お互いの立場を超えた、新たな協力関係の始まりを意味していた。




