クロエと神に見放された伯爵令嬢
「クロエ……」
クロエはまるで何年も会えなかった親しい姉にやっと会えたとでも言うように、楽しそうにこちらへとやってくる。
しかしその瞳だけは、いたぶる獲物を見つけたとでも言うように悪意に満ちていた。
「お姉様とまさか冬の社交界でお会いするなんて思っていませんでしたから驚きましたわ」
彼女は大袈裟に小首をかしげてそう言った。
思考が凍り手が震える。
笑顔を作ることすらできない。
まるで頭と身体がクロエを前にした時はそうあるべき、と覚えさせられているかのようだ。
「あの悪魔公の元へお嫁にいったのですもの、心配して当然でしょう?」
私は心の中で何度も自分を叱咤した。
ぐっと手を握り、見下すようなクロエの瞳を真っ直ぐに見る。
「悪魔公ではありません。ドラクレシュティ辺境伯です」
「……どなたかご存知ありませんが、私達フィオナ様とお話ししておりますの。いきなり割り込むなんて無作法ではありませんか?」
ただならぬ雰囲気を察したアイディーン様がクロエを追い払おうとしたが、クロエは王子妃のアイディーン様の言葉をさも自分の方が正当であるとでも言うように言い返した。
「あらごめんなさい。だってわたくし、いきなりお嫁に行ったお姉様のことがただ心配で……」
「誰かしら?」「クロエ・ペンフォード様ですわ」「ペンフォード?ペンフォードってあの?」
アイディーン様の友人たちを始め、周囲で見ていた貴族たちのヒソヒソと話す小さな声が耳に届く。
ペンフォードの名前を聞いた彼らの視線は一気に私に集まった。
クロエもそれを察したかのように、ますます笑顔になる。
次はどうしようかな?とでも言うように、私を上から下に舐めるように見て、蛇のように口を開いた。
「でもとてもいい扱いを受けているようで安心しました。“神に見放された者”がこんなに寵を得られるなんて。きっとお姉様には“別の才能”がおありなのね」
その瞬間、会場がざわりと静かにどよめいた。
「神に見放された伯爵令嬢だ」「ああ、あの時の洗礼式のご令嬢か」「魔法を使えない令嬢が、辺境伯の妻に?」
私を娼婦のようだと嘲笑うクロエ、好奇の目で見る貴族。
言い返す言葉を私は必死に探したが頭は凍りついたように働かない。
私を見ているであろうアイディーン様の表情を見ることすらできない。
そんな私は絞り出すように「ルーファス様はそのような方ではございません」と答えたが、その声は貴族たちの嘲笑の小さな波にかき消された。
周囲のさざめきの中、クロエは私のすぐ側まで歩み寄り、耳元に冷たい息を吹きかける。
「お姉様、あなたのような汚れた存在は、このような高貴な貴族が集う華やかな舞踏会には相応しくないわ」
そしてクロエは手に持ったグラスを傾け、ゆっくりと頭の上から冷たい飲み物を浴びせた。
前髪や頬を伝って冷たい水が滴っていく。
声を上げることもできない私に、クロエは口元を扇で隠しながら悪意に満ちた笑みを浮かべる。
「いくら高貴なドレスや美しい色で着飾っても魔法が使えないんじゃ平民と変わらないでしょう?私達のように神に祝福された者達とは身分が違うの。お姉様にはやっぱりこちらの方がお似合いよ」
周囲の貴族たちは、もはや隠すことなく嘲笑の視線を私に向ける。
顔を上げることすらできず、この場から今すぐ逃げ出したい気持ちで一杯になった。
「何の話をしている」
その声に振り返るとルーファス様が立っていた。
「私の妻になんの用事だ。クロエ・ペンフォード伯爵令嬢」
「わたくし、お姉様をたまたまお見かけしてお話ししておりましたの」
クロエはさらりと答えたが、ルーファス様は赤い瞳を険しくしながら一歩一歩彼女に詰め寄る。
その威圧感は舞踏会場の空気を極度に冷え込ませ、周囲の貴族たちは恐怖で息を潜めた。
ルーファス様は私の傍まで来ると、一度だけ、頭から滴る水に濡れた私の惨状を赤い瞳に怒りを宿して視線に収めた。
「たまたま、か」
ルーファス様は低く威圧的な声で呟いた。
そして、何もない空間へとゆっくりと右手を掲げる。
するとドレスから流れ落ち、床に広がりかけていた冷たい飲み物の水溜まり、私の髪や身体を濡らしていたものが、突如として青色の光の粒子に包まれて空中に舞い上がった。
光に包まれた水は嵐のように渦を巻き、まるで意思を持ったかのように一斉にクロエの頭上へと襲いかかる。
「きゃあ!!!!!」
クロエが悲鳴を上げる暇もなく、私が受けたより遥かに多い量と勢いの水が、彼女の派手なドレス全体を無慈悲に、そして徹底的に濡らした。
そして、ルーファス様は威圧感を纏いながら私のまだ少し濡れた前髪を優しく指で整えた。
その瞬間、水気は嘘のように消え去った。
髪が元通りになるとフッと一瞬だけ表情を緩めてから、視線をクロエに向けた。
ルーファス様は完璧に水を浴びて立ち尽くすクロエを冷酷な赤い瞳で見下ろす。
「辺境伯夫人とただの伯爵令嬢であるそなたでは身分が違う。身分の違いも分からない頭の悪い愚かなそなたの方が、その姿は似合っているぞ」
ルーファス様はそう言って嘲るように笑みを浮かべた。
そして冷たく光った赤い瞳はゆっくりと周囲にいる貴族達を見回す。
「愚かな貴族の視線で美しい妻が穢されてしまいそうだ……と私は機嫌が悪い。うっかりその目玉を焼き潰してしまうかもしれない」
その言葉に、貴族たちは蜘蛛の子を散らしたように視線を逸らし去っていく。
クロエは青ざめながら別れの挨拶もろくにせず足早に去っていた。
フゥと小さく息を吐いたルーファス様は、何事もなかったかのようにその場に薄く残された瘴気の痕を消し去った。
そして私に微笑んだ後、アイディーン様に向かって恭しく紳士のように礼をする。
「アイディーン様、ご歓談中のところ申し訳ございません。妻をお返しいただいてもよろしいでしょうか?」
恋物語を読んだ後のように頬を赤らめていた彼女は、ルーファス様の声で慌てたように表情を正した。
「も……もちろん、かまいませんわ」
アイディーン様に丁寧に感謝を述べたルーファス様は、スッと私に向き直り膝をついて手を差し出した。
「フィオナ、私とダンスを踊ってもらえるか?」
その瞬間、先ほどとは比べ物にならないほどのどよめきが会場に沸いた。「あの悪魔公が?!」という誰かのつぶやきが耳に届く。
私がそっとその手を取ると、ルーファス様は立ち上がり会場の真ん中まで流れるように連れ出した。
会場中の視線を集める中で、憎むように私を見つめるクロエと一瞬目が合った気がした。




