恋心の自覚
「ありがとうございます、聖女様……本当にありがとうございます」
「大丈夫ですよ。歩けるようになって、本当に良かった」
もうここへ来てから二十日以上が経った。
兵士たちの治療は終わり、今は大地を浄化しながら村人の家を一軒一軒回っている。
遠方の村から蝕身病の家族を担いでくる人も現れ始めたため患者は増える一方だったが、命の危ない者も危機を脱し、少し落ち着いてきた。
ルーファス様とは定期的に手紙をやり取りしており、彼はその現状を知って、蝕身病の治療所を城下町の近くに構える手筈を整えようとしてくれているそうだ。
「終わった?フィオナ様、体調大丈夫?」
「大丈夫よ。あと二軒だけ回ってもいいかしら?」
テオとやり取りをしていると、リオが覗き込むように私の顔を見た。
「ダメ。今すぐ休んで。流石に魔力を使い過ぎだよ」
「でも……感謝祭まであまり時間もないから」
感謝祭は国中で一斉に行われる大切なお祭りだ。
貴族も民衆も全員がこの日は祝福と恵みを与えてくれた神に感謝を示す日なのである。
私も辺境伯夫人としての役割があるので、なるべく早く城に帰らなくてはならない。
ここに留まっているのは、私のわがままだもの。
だからこそ、無理をしてでも彼らを少しでも回復させなければいけないのだ。
リオの反対を押し切って、残りの患者を治療した私が屋敷に帰ると、男爵が温かく出迎えてくれた。
男爵は村の現状を知り、私が周囲に隠れながら村人の家を回るための口実を作ったり、ルーファス様と共に税の調整や出稼ぎの働き口など細かい調整を行ってくれている。
蝕身病の患者に対する嫌悪感が強い場所なので、村人の立場を守りつつそれらを行うのはとても大変な仕事だ。
夕食をなんとか口に運び手早く入浴をした私は、倒れ込むように寝台へと入った。
手足が震え、吐き気がする。
全身は鉛のように重たかった。周りに魔力切れを気取られまいと懸命に取り繕っていた糸が切れた私は、目を開けていることも難しい。
ミリーはそんな私に優しくシーツをかける。
ミリーは私の状況を理解し、なるべく早く魔力が回復できるよう、懸命に支えてくれていた。
「フィオナ様、吐き気が治ったら深夜でもお呼びくださいね。食事を用意しますから」
「そうね……わかったわ……」
魔力を回復するためには、食事を摂ることが大切なのに、毎日魔力を限界まで使い続ける私は、吐き気でろくに食べられなくなった。
ミリーは少しでも食べさせようと心を配ってくれているのだ。
ミリーに必ず呼ぶと伝えた私は、そっと意識を手放した。
どれくらい眠ったのだろう。
体が冷たくて、意識が闇の底に沈んでいく。
その時、誰かに優しく体を抱き起こされた。
誰かが私の名を呼んでいる。
その声は、ひどく震えていた。
ぼやけた視界の中で、赤い宝石のような瞳が私を見つめているのがわかった。
「ルーファス様……」
「馬鹿なことをするな!」
彼の口から出たのは、怒気をはらんだ声だった。
私は、ああ、ごめんなさい、と心の中で呟く。こんな姿を見せてしまっては、彼を心配させてしまう。
「申し訳、ありません……」
「謝るな!どうしてだ、フィオナ。どうして、自分の身を顧みない!」
彼の声が、怒りから悲しみへと変わっていく。
(そんな顔をさせたかった訳じゃないのに)
私は彼の胸に顔を埋めた。
彼の体温が、震える私の体を温めてくれる。
「まだ……まだ、隠されている患者がこんなにたくさんいるんです……!それに、この村を根本から救わないと……!私、ルーファス様が救おうとしたこの領地を、ちゃんと守りたいんです……!」
絞り出すようにそう伝えると、ルーファス様は私を強く抱きしめた。
「もういい。もう十分だ。無理をするな……」
彼の言葉に、私は息をのんだ。
彼がこんなにも震えているのは初めてだった。
彼はまるで、私を失うことを恐れているかのように震えている。
そのことに私は、胸が締め付けられるほどに苦しくなった。
「私、勝手ばかりですよね……。ごめんなさい……ごめんなさい……」
翌朝私が目を覚ますと、隣の椅子でルーファス様が眠っていることに気づいた。
普段の張り詰めた威厳は消え失せ、彼の長い睫毛が頬に影を落としている。
音を立てぬよう慎重に寝台から足を降ろす。足元にあった毛布を震える指先で手繰り寄せ、彼に優しく毛布をかけた。
「フィオナ様……お目覚めですか?」
ヴィルハイムの声に私は振り返った。
「ヴィルハイム様……」
「兄上は、心配で一睡もできなかったようですよ。フィオナ様が倒れられたと聞いて、馬を飛ばして駆けつけたんです」
「そう、ですか……」
「フィオナ様は、ご自分のことを道具だとお考えですか?」
ヴィルハイムの突然の問いかけに、私は言葉を失った。
「いいえ……違い……ます……」
「そうですよね。フィオナ様は、辺境伯夫人として、この領地を救おうとされている。そのお気持ちは、痛いほどわかります」
ヴィルハイムはそこで言葉を切ると、少し考え込むように首を傾げた。
「ですが私はフィオナ様はまるで、この領地を救うための道具として、自らを消費しているのではないかと思う時があります」
私は彼の言葉に胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「……私、そんなつもりはありません。ルーファス様が救おうとしているこの領地を、私だって一緒に守りたい。そしてルーファス様の隣で、力になりたいと願っています」
「お気持ちはよくわかります。ですが、フィオナ様が倒れるまで無理をすることを私は望んでいません。もちろん兄上も」
ヴィルハイムの言葉は、まるで鋭い刃物のようだった。
私はこの領地の役に立つことがルーファス様の支えになると信じて、ただ必死だった。
それが大切な人達にこんな顔をさせる行動だと思っていなかった。
「私、そんな風に思われていたなんて……。私は、ただ、ルーファス様の隣に立ちたくて……」
「わかっています。でもその結果、フィオナ様を失ったら……兄上は自分を愛してくれる人を失うことになるのですよ?」
「え…………?」
私はヴィルハイムの言葉をうまく飲み込めなくて、聞き返す。
「フィオナ様は、兄上を愛しているのでしょう?」
ヴィルハイムの言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
そうだ。私はルーファス様のことが好きなんだ……。
ルーファス様を前にした時に湧き出てくるあの感情の正体がようやく分かった。
彼の隣に立ちたいと願うのは、辺境伯夫人としての責任だけでなく、彼のことを愛しているからだ。
「なら、フィオナ様はもう少しご自分を大切にしてください。ミリーやテオとリオも、可哀想なくらい心配していましたよ」
そう言ってヴィルハイムはミリーを呼びにいくと退室していった。
私はルーファス様の眠る椅子のそばに戻り、ゆっくりと彼の目にかかった髪を手で撫でるように上げた。
彼の寝顔には疲労の色が濃い。その端正な顔立ちを覆い尽くすほどの深い疲労に、本当に心配させてしまったのだと胸がまた痛んだ。
「ん……フィオナ、起きたか。体調はどうだ?」
彼の赤い瞳が微睡みから覚めてすぐに私を捉えた。
その中には、心配と安堵が入り混じった深い感情が揺れている。
彼の声を聞き、瞳を見つめるだけで胸に愛おしさが込み上げてきた。
私は衝動に駆られるまま、そっと彼の額に口付けを落とした。
私は辺境伯夫人としてだけでなく、ルーファス様を愛する一人の女性として生きていく。
その決意を、静かな口付けに込めた。
「ごめんなさい……。そして、ありがとうございます」
震える声でそう告げると、ルーファス様はわずかに目を見開いた。
その驚きに、私はほんの少しだけ微笑むことができた。
呼ばれたミリーは涙を浮かべながら朝食を持ってきた。一緒に入ってきたテオとリオも、泣きそうな顔をしている。
「ごめんなさい。心配かけたわよね」
「本当です……!朝、声をかけても反応がなくて…身体も冷たいし…私……何が起こってるのか本当に分からなくて」
ミリーは大慌てでテオとリオを呼んだらしい。
テオは大急ぎで馬を借り、全速力で城まで走ってくれたそうだ。リオは少しでも魔力を分けて私の魔力を回復させようとしたが、できなかったらしい。
「魔力が弾かれて誰も分けることができなかったんだ。フィオナ様の魔法は特別だから、俺らとは違うのかもしれない。だから!本当に!無理をしないで!」
「祈ることしかできなくて、本当に寿命が縮んだんだから!」
「うん、ちゃんと気をつける」
私はそう約束し、治療しきれなかった村人も連れてドラクレシュティ城に帰ることとなった。