碧玉の泉
城下町を出た先は大きな街道だった。
この先には、ドラクレシュティ領が有する大きな銀山がある。
銀山の麓には、ドラクレシュティの城下町に次ぐ大きな鉱山の街があると聞いていたので胸が躍った。しかし、馬車は進路を変え、城壁に沿うように東へと外れていく。
「銀山に行くんじゃ……?」
「銀山も行くが、その前に少し見せたい場所がある」
馬車が行き交う賑やかな街道から離れていくと、どんどん緑が増えていき、行き交う人々も少なくなる。そのまましばらく進むと、あたりは一面の森となった。
馬車がゆっくりと停止する。ルーファス様は先に馬車を降り、私に手を差し出した。
「ルーファス様、ここは?」
「私のお気に入りの場所だ。少し歩けるか?」
「はい」
「では、他の者は少し待機するように」
ルーファス様はそう言って私の手を引き、森の中へと続く小道に入っていった。
「石に躓かないよう気をつけろ」
彼は歩幅を合わせ、ゆっくり足を進める。
孤児院の周囲も森だが、城のすぐそばの森とは全く違う。湿った土を踏みしめるたび、草の香りがふわりと鼻をかすめる。木漏れ日が差し込む木々の間からは、鳥たちのさえずりや、虫の羽音が近くに聞こえ、まるで森が生きているかのように感じられた。
そして、不意に視界が開けた。
その瞬間、息をのんだ。目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどに美しい、宝石のような泉だった。
水面は、太陽の光を浴びて、淡いミントグリーンから、吸い込まれるようなネオンブルーへと、見る角度によってその色を変えている。
まるで一枚の絵画のように、緑豊かな木々や、空の青さが水鏡に映り込み、きらめく光の粒が水面で踊っていた。
それは、この世の神秘を全て集めたような、幻想的な光景だった。
「これが…ドラクレシュティの東に広がる沼地ですか……?」
抱いていた沼地の印象とは全然違う。
思わず漏れた私の呟きに、ルーファス様はそっと頷いた。
その赤い瞳は私と同じように、この神秘的な風景を見つめていた。
「美しいだろう。沼地だが、近くの者は碧玉の泉と呼んでいる。たくさんの命を育み、領地を守っている場所だ。私はここがドラクレシュティで一番美しい場所だと思う」
神秘的な風景に目を奪われていると、「フィオナ」と不意に名前を呼ばれた。
ハッと息を飲み、美しい泉から意識を引き剥がすように、彼の方へ振り返る。すると、彼がスッと私の顎の下に指を添えた。
そっと持ち上げられた私の顔は、有無を言わさず彼の方へと向けられる。
彼の宝石のような赤い瞳の中には、戸惑う私の姿と、背後にある碧玉の泉の揺らめく光が映り込んでいた。
「フィオナの瞳は、やはりこの泉と似ているな」
「……そう、で、しょうか」
囁くように優しい彼の声に、私は言葉を絞り出すのが精一杯だった。
恥ずかしくて逃げだしたい。
それなのに、全身の筋肉が溶けてしまったかのように、一歩も後ずさりすることができない。
まるで見えない鎖に絡め取られたみたい。私はその場に縫い止められ、顔に集まる熱と、高鳴る鼓動を、どうすることもできずに耐えるしかなかった。
昼を少し過ぎた頃、銀山の麓の街にたどり着いた。
緑豊かな森は徐々に姿を消し、代わりに岩肌が剥き出しになった険しい山脈が空を覆う。山の斜面には、銀色の光を反射する鉱石が点々と輝き、その麓に街が広がっていた。
馬車が停車したのは、その街が見渡せる少し小高い丘にある屋敷の前。
屋敷を管理している使用人に案内された部屋のバルコニーからは、活気ある街の景色が一望できた。
ミリーが淹れてくれたお茶を飲みながらその景色を楽しんでいると、ルーファス様が訪ねてきた。
「すまない。至急の要件で少し出なくてはならなくなった。夕食は一緒に摂ろう」
「大丈夫です。ミリーもいますから」
慌てて屋敷を出ていくルーファス様を見送った私は、部屋で軽く昼食を摂る。
最近はよくルーファス様と食べていたからだろう、一人きりの昼食はどこか寂しく感じられた。
「残念でしたね。本日は街で昼食を摂るご予定でしたのに」
ミリーはそう言って、口を尖らせる。その怒った表情は、まるで自分のことのように悔しがっているようだった。
彼女のその無邪気な怒りが、胸に広がっていた寂しさを、ほんの少し和らげてくれる。
「でも仕方ないわ。忙しい執務の合間を縫って、こうして連れてきてくださったのだもの。それに、今日はもう素敵なものを見せてもらったから」
先ほど見た美しい景色を思い出すと同時に、その時のルーファス様の言葉も思い出してしまった。
私は思わずそれを振り払うように少し首を振り、顔に集まりそうになる熱を散らす。
ミリーが不思議そうに「フィオナ様?」と首を傾げたので「なんでもないわ」と誤魔化した。
最近の私は、少しおかしいのだ。
ルーファス様と過ごすことは嬉しくて心地がよいのに、不意に感情が乱されてどうしていいかわからなくなる。
ふと彼が笑った時、その顔をずっと見ていたいはずなのに、目が合うと見られなくなってしまうのだ。
この感情が何を意味するのか、分からない。
ただルーファス様を想うたび、心が自分のものではないみたいに、勝手に音を立てていた。




