絶望の淵
時間がひどくゆっくりと流れていくように感じた。
部屋の窓から何度外を見ても、ただ暗闇が広がるばかりで、何も変化はない。
アルローが勧めてくれたあの塔に行けば何か分かるかもしれないが、外に出ることを禁じられた私は、ただ部屋にいることしかできなかった。
「フィオナ様、少しでも食べませんか」
「ええ……そうね……ごめんなさい。せっかく準備してくれたのに」
辺境伯夫人は、どんな状況でも凛と振る舞い、動じないようにしなくてはいけない。イサドラ先生から教わったことは頭では分かっていても、行動に移すのはとても難しい。
それでも……私は、心配そうに私を見つめるミリーとアンナに、精一杯の笑顔を見せた。
「奥様、ここは奥様の自室です。ここでは感情を出してもよろしいのですよ」
アンナはそう言って、私の肩に優しく手を置いた。
さっき初めて笑顔を見せてくれたルーファス様が、帰って来ないかもしれない。戦いが、これほど恐ろしいものだと思わなかった。
味のしない食事を少しずつ口に運んでいると、部屋の外が騒がしい。
すると、厳しい顔をしたヴィルハイムが入室してきた。
「魔物の群れはあらかた片付きました。明け方には討伐が完了できるかと。しかし……」
ヴィルハイムはごくりと唾を飲み込み、言葉を続けた。
「ルーファス様が魔物による傷を負い、重体です」
私は扉に向かって駆け出した。ヴィルハイムはそんな私の腕を捕まえ、「お待ちください!」と声を荒げた。
「でも!ルーファス様が!早くマロウのお茶を!」
「いけません!ルーファス様の部屋には入室できません!」
「何故ですか!」
「アンナ!ミリーを連れ出せ!」
そう言うと、アンナはミリーを部屋から外に出した。
ヴィルハイムは私の腕を掴んだまま扉の前を塞ぐように立ち、悔しそうな顔を隠すように下を向く。
「ルーファス様は……ずっと前から蝕身病を患っておられました。マロウのお茶を発見する前は、一日に何度も血を吐き、痛みと闘って……。現在の執務の半分は私が行っております……瘴気は今回の件だけではないのです。
もう……兄上は本来なら十分に身体を動かすことも難しいほど、呪紋が広がっております」
「でも……!」
「貴方にできることは何もないと言っている!!もうお茶で何とかなる段階ではないのだ!
私だって悔しい!でも何もできない!何の役に立つこともできない!だからずっと……ずっと兄上は苦しみを隠しておられたのです。屋敷の皆にも、貴方にも……それが最善だと」
ヴィルハイムは両手で私の腕を掴んだ。その弱々しさから、彼の抱えている苦悩が伝わってくる。
ヴィルハイムは、私と違って何年も貴族として生きてきた生粋の貴族だ。でも歳は私とほとんど変わらない。兄を慕う彼は、この居た堪れない不安と恐怖を、私の何倍も感じているはずだ。
「蝕身病はただでさえうつると言われ恐れられている。だから、必要最低限の傷の治癒だけ行った兄上は、いつも部屋に閉じ籠るのだ。生き残れば出てくるし、亡くなれば……」
言葉が続けられなくなったヴィルハイムの胸を、私は掴んだ。
ぽろぽろと勝手に溢れ落ちる涙を見せぬよう下を向くと、その雫が美しい絨毯の染みになっていく。
「蝕身病は……他の人には分かりませんが、私には移りませんでした。私は何年も呪紋の浮かび上がったお母様の看病をすぐ側で行っておりました。
だから……お願いです。ルーファス様の……側にいさせてください」
その言葉を、彼は握りしめる掌で了承した。
初めて入るルーファス様の部屋は、陰鬱な空気に包まれていた。まるで、彼が受け止めきれなくなった瘴気が身体から溢れているような空気の重さにぞくりとする。
真っ暗な部屋の中、豪華な寝台の上に彼はいた。
寝台の近くの燭台に灯を灯すと、その姿が浮かび上がる。
(想像以上にひどい……)
おそらく、鎧を脱がせ傷の治癒だけ施したのだろう。身体に大きな傷は見当たらない。しかし、シャツの右側は大きく破れ、乾きかけた血がひどくこびりついていた。
熱のこもる身体の中では瘴気が暴れ回っているのだろう。彼の呼吸は早く浅く、額には汗が滲み、眉間に深い皺を寄せていた。
氷をたくさん浮かべた桶に布を浸し、しっかり絞る。
それでそっと彼の額を拭うと、彼の瞼が動いた。
「ルーファス様、目が覚め……」
「ここで何をしている」
ルーファス様は、額を拭っていた私の手を掴み、憎しみのこもったような鋭い目で私を睨んだ。
「ルーファス様の看病をしています」
私は努めて冷静に告げると、彼は布を持った私の手を寝具に沈め、右側の腕を私の目の前に突き出し、息も絶え絶えに声を荒げた。
「この呪紋が見えなかったのか?君の母も呪紋があったのだろう。これは愚かな人の行動が生み出した死の呪いだ。
こいつが現れてからずっと、呪紋がまるで蛆のように身体の中を這いずり、魔力と肉を食い散らかしていくのだ。
お前もこのようになりたいか?醜いアザを身体中に広げながら生き地獄を味わいたいのか?」
「私は蝕身病なんて怖くない。ただ……貴方を失うことが何よりも怖い。だから……」
私は反対側の手で、彼の右手に触れた。赤黒いアザの中に、黒い紋様が蠢いているのが見える。
黒い紋様は、まるで意思があるかのように私の手を避けるかのごとく模様を変えた。
それと同じようにルーファス様も「何を……!」と叫びながら左手を解放し、私の手を避けようとする。
しかし、私は彼の右手をしっかりと捕まえた。
呪紋は右手を飲み込み、右頬の下まで広がっている。彼の赤い瞳を真っ直ぐに見つめると、彼は右側を隠すように顔を背け、振り払おうとした腕の力を弱めた。
「勝手にしろ……!だから……頼むから……手を離してくれ」
彼は左手で顔を隠すようにしながら絞り出すような声で懇願した。
私はゆっくりと彼の右手を離す。
「必ず、よくなってくださいね」
そう言って、額の汗を拭った。
しかし、状況は全く良くならなかった。
熱は上がる一方で、意識の狭間にマロウ茶を飲ませるが、血と一緒にほとんど吐き出してしまう。熱冷ましの薬も効果がなかった。
朝焼けが何度も空を染め、そしてまた夜の帳が降りる。
時間の感覚が失われていく中で、私はただひたすらに、彼の額に冷やした布を当て続けた。熱は一向に引く気配がなく、かろうじて保っていた彼の意識も、もうほとんどない。
何度か、彼の口から助けを求めるようなうめき声が漏れた。しかし、私にはどうすることもできない。
ただ祈ることしかできなかった。
(お願い……これ以上私から何も奪わないで……)
母が蝕身病で苦しみ、やがて死を迎えた。その時、私は何もしてあげることができなかった。
無力な自分が、今また目の前で大切な人が苦しむ姿を見ている。
あの時と同じ絶望が、冷たい水のように私の胸に広がり、私を飲み込んでいく。
そして何度目かの夜。私は彼の呪紋に染まった右手を握った。
彼は呪紋を「魔力と肉体を食い散らかしていく」と言い表していた。
せめて魔力だけでも満たせれば……。
私は彼の右手に向かって、ゆっくりと魔力を流していった。伯爵領を管理する継父から、何度も魔力の提供を命令されていたので慣れている。
魔力は人に渡すものではないという暗黙の了解が貴族にはあるとイサドラ先生に教わったが、もうこれ以上にできることがないのだ。
「フィオナ。貴方はきっと神に愛されているわ」
身体の熱が魔力と共に失われていく感覚の中で、ふとお母様の言葉が脳裏をよぎった。
(もし本当に私を見守ってくれている神様がいるなら……どうか彼を助けて)
私は目を閉じて神に祈った。
ゆっくりと身体の力が抜けていき、私の意識はそこで途絶えた。