マロウの花
あれからというもの、イサドラ先生の授業がない日は孤児院に通うようになった。
ミリーが救護院の手伝いをしている間、私は子どもたちに文字を教えたり、物語を読んであげたりして過ごしている。
孤児院の子どもたちの多くは、将来城で働くことになるとルーファス様が言っていた。文字が読めるか読めないかで、子どもたちの仕事の選択肢が広がるかもしれない。
そして、私とルーファス様との関係に最近変化があった。
朝食の席で子どもたちの話をすると、彼が少し表情を和らげるのだ。文字を教えていることを話した時には、図書室の本を持ち出す許可をくれた。
きっとルーファス様はとても優しい人なのだ。
そうじゃなければ、蝕身病の患者ばかりの救護院に領主自ら入っていったりしないもの。
あの日の彼の後ろ姿を考えていたら、自然と笑みが浮かんでいたらしい。
「フィオナ様、笑ってる!」
「いいことがあったの?」
気づくと、子どもたちがくりくりとした目で、不思議そうに私を覗き込んでいた。
「え……?あっ……なんでもないの。じゃあ、さっきのこの字を指で描いてみましょうか。みんな上手く書けるかしら?」
そうしてしばらくすると、救護院の手伝いを終えたミリーが「お待たせいたしました」と奥の扉から出てきた。
私たちは長い坂道を城に向かって歩く。
「ミリー、お父様の容態はどう?」
私が尋ねると、ミリーの表情に影が落ちた。
「あまり良いとは言えません……助からないのだからと食事もあまり摂ってくれません。辛くて、苦しくて……早く楽になりたいと。今日父の身体を拭いていたら、背中に呪紋があるのを確認しました。いよいよ長くないでしょう」
救護院の陰鬱な空気、瘴気によって身体を蝕み続けられる苦しみ。救護院には、生きる気力さえ無くしている者が多いと言う。
「マロウのお茶の回数を少し増やしてみてもいいんじゃないかしら?せめて苦痛だけでも……軽くなると思うの」
私がそう言うと、ミリーは「マロウのお茶……?」と首を傾げた。
「苦しみを和らげるには、眠る作用のある薬を投与するしかないと聞いております。実際、救護院でも苦しむ患者にはそれを与えておりますが……マロウをお茶にするなんて聞いたことがありません」
もしかして、この地には伝わっていないのだろうか。
神々にはそれぞれ、その神を象徴する花がある。
マロウの花は、闇の神の花と言われていて、その花を身体に取り込むことで、瘴気の苦しみを和らげることができるというのだ。
これは、お母様の蝕身病を看病する中で使用人から教えてもらった話で、国の南側にある瘴気の濃い土地で伝わる民間療法の一つだと言っていた。
あの時は、使用人から伝わるこの手の民間療法を全て試していた時期だ。その中でマロウの花は、明らかに効果があった。
その花のお茶を飲むと、少し身体の苦痛が和らぐのだ。
「しぶとい女め」
お母様について、そう吐き捨てるように言った継父の言葉が脳裏に浮かび、心臓が握りつぶされるように痛んだ。
お母様は、呪紋が広がり動けなくなるまで、土地の瘴気を闇の魔力で消し続けた。平民と魔力のある貴族では違うのかもしれないが、蝕身病の平民は、呪紋が出てから二つの季節を跨ぐ前に死ぬと言う。
お母様は、呪紋が現れてから一年と二つの季節を経て亡くなった。
(もしかすると、マロウの花には、苦しみを取り除くだけじゃなく、瘴気の進行を抑える作用がある……?)
この場所で、大切な人を無力感に苛まれながら失う、そんな悲劇を繰り返したくない。
私は、過去の無力感を振り払うように、ミリーの手を強く握りしめた。
「ミリー!マロウの花を、お父様で試してみてもいいかしら?!もしかして……もしかするとだけど……」
私の言葉に、ミリーはこくこくと何度も頷いた。
私たちは、すぐ行動に移した。
神々の花は、人々が神に感謝する秋の感謝祭で多く使われる上、成長速度に差はあるが、一年中咲いてくれる。城の一角にも、感謝祭用にと育てられているのを見たことがあるし、庭園にも植えられている花だ。
庭師にマロウの花が欲しいと頼むと、彼は快く「感謝祭用のマロウは、ちょうど植えたばかりだからこちらを」と庭園に咲くマロウを花束にして分けてくれた。
それをアンナとミリーと一緒に、花の部分だけを摘み取り、木の籠に入れて乾燥させていく。
三日ほど経って乾燥した花を、私とミリーは孤児院に持っていった。
孤児院の食堂で、子どもたちが見守る中、私はミリーにマロウのお茶の淹れ方を教えた。乾燥させた花をガラスでできたポットに入れ、湯を注ぐと、お湯は美しい青へと変化する。
「うわぁ、すごく綺麗!」
「これがお薬なの?」
「ううん。この青色が紫色に変わるのを待つの。その方が効果があるから。ほら、みんな見てて?」
しばらくすると、ポットのお湯はゆっくりと紫色に変化していった。
それを確認した私は、不思議そうにお茶を眺めるミリーの手を握る。
「これで完成。では、お父様や他の皆様に届けてくれるかしら」
「わかりました!」
ミリーはポットを持って、救護院へと消えていった。彼女が戻ってくるまで、私は孤児院のみんなと必死に神に祈った。
しばらくして、ミリーが戻ってきた。今にも泣き出しそうに瞳をキラキラとさせた彼女の顔を見れば、効果があったことはすぐにわかる。
「フィオナ様、お茶を飲んだ皆様が、少し身体が楽になったと!」
「……良かったっ!」
私はミリーや子どもたちと喜び合った。
マロウの花に効果があるとわかったが、次に必要なのは栽培する場所だ。部屋に戻った私とミリーは、アンナも交えて話し合うことにした。
「マロウは蝕身病に効果がある」と今の段階で発表すれば、瘴気に苦しむ民衆は、マロウを手に入れるために必死になるはずだ。
限られたマロウの花を大量の人が求めることで、混乱が起きるかもしれない。
「それはルーファス様にお願い致しましょう。王都への報告も含めて、上手くやってくれるでしょう」
そう言ってアンナは、ルーファス様への報告を請け負ってくれた。
ただ、救護院にはすぐにマロウが必要だ。半数以上の患者はすでに呪紋が現れている。それを考えると今からマロウを栽培する手筈を整えたところで間に合うとは思えない。
そして、救護院の存在は、城の一部の者しか知らない隠された場所だ。
私が勝手に城中で大量のマロウを栽培し出すわけにはいかない。蝕身病や呪紋が恐れられ、親族すらも忌み嫌われる存在である以上、ルーファス様やミリーのためにも、この秘密は隠し通さなくてはいけないのだ。
「アンナ、城下町の花屋から私の予算でマロウを買うことはできるかしら」
「もちろんできますが……」
「では、アンナはマロウをできる限り集めてくれる?そのマロウが尽きるまでに、孤児院でマロウを育てましょう。あの場所なら、城の人にも知られずマロウが育てられると思うの」
ミリーは「名案です!」と手を合わせて喜んだ。
これで少しでも、蝕身病に苦しむ人々を救えるかもしれない。
私の手に、ぐっと力が入った。