最良の幸福
閑散とした町中、人の往来を眺めていた。
無表情で無感情、ただ無機質な行進のなか、チラシ配りの少年だけが焦りを募らせ漂わせていた。
少年の手元には辞書に迫るほどに厚くチラシが残っていた。
「あッ、、、これッ」と弱弱しく、行き交う人々に接触を試みては返答なし。
今の自分があまりにも無意味だと自覚したようすで、俯いて唇を噛みしめている。
少年はあと少しすれば仕事を放棄してしまうだろう。
少年の様子を観察するのが楽しかったのだ、諦められては困るというもの。
私は軽い腰を上げて少年のもとへ歩み寄った。
「君、それ貰えるかな」と声を掛けられた少年は酷く喜んだ。
面白いもの見させて貰った礼としては妥当なところだろう。
チラシを貰うだけでなく客になって貢献してやってもいいかと思い、チラシに目を通して私は困惑した。
驚愕し、納得し、落胆した。
チラシには誇大に「天国に興味はありませんか」と記されていた。
ああ、あろうことか宗教勧誘に引っかかってしまった。
私が、この私が。
人々から受ける少年の待遇が妥当なものだったと知ると先ほどまでの面白みが一気に失せてしまった。
私が楽しんでいたのも、私のとった行動も、すべてが私自身を落胆させるための下準備でしかなかったのだ。
そうだと自覚するほど怒りが沸いてくる。
怒りの矛先は当然に少年を向く。
少年のすべてを否定したい。生きる価値がないと言いたい。自殺に追い込むくらい罵りたい。悪徳宗教の片棒を担いだ社会の害虫だと言ってやりたい。お前は今、死を望まれているのだと痛感させたい。お前は弱者だ、手を差し伸べたいとすら思われない真の弱者だと罵りたい。
だのに、ガキはどこにもいない。
だから、ゴミを罵倒できない、死なせられない。
やるせない怒りが悔しさに変わっていくのが私を更に苛立たせる。
いつの間にかグシャグシャに握りつぶされていたチラシに気付いて、一連の流れが再び思い起こされる。
同時に言葉のないがなり声があふれ出し、チラシを踏みつけ、すり潰していた。
再度チラシを凝視する。やはり、裏に地図が載っている。ああ、よかった。
収まることのなかった怒りが一つの希望を得て、次第に喜びへと変貌する。
牙をむき出し、乱れた呼吸で駆け出した。
赤信号は当然に無視、人混みの中を肘で殴って、掻き分けて、駆け抜けて目的地に辿り着いた。
それほどまでに急いでいたにも関わらず、私は目的地を前にしばらく動けないでいた。
体力の限界だった。
全身の細胞が火を灯して燃えているような感覚に陥った。
あと少し先に、開きっぱなしの自動ドアの先にあのガキがいるはずなのに私は・・・。
膝から崩れて倒れこんでしまう。
視界の端が黒く視野が狭まっていく。
瞬き一つも、声の一言も体は聞いてくれない。
目が震えて鼓動の一つ一つで脳が揺れる。
この状態が不味いことだというのは分かっているが、なにもできない。
あのゴミのせいで私はこんなことに・・・。
頬に伝わる冷たさだけが私の味方だった。
目が覚めるとそこには見知らぬ天空があった。
夕焼けのような黄金に輝く空が、雲が、私の目の前にある。
不思議と手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じる。
手を伸ばしても当然、雲をつかむ話であった。
空をからぶって行方をなくした手を太陽にかざした。
ため息を吐いて現状について考える。
真っ先に浮かぶのは夢の可能性だが、どうにも納得がいかない。
一つは、感情が鮮明であること。一つは、私が夢をあまり見ないこと。一つは、動きがなく暇であること。
それら疑惑はすぐに晴れることとなる。
私の正面と言おうか足元と言おうか、雲の行方を目線で追った先に誰かがいた。
白くなびく衣を纏った”それ”は、先ほどまでは確実に存在しなかった。
近づいてくる足音もしなかった。
明らかに突然と現れた”それ”が、私へとにじり寄って口を開いた。
「白根カスミ様、あなた様は熱中症の後遺症により遷延性意識障害、あなた様になじみのある言葉で言えば植物状態になってしまわれました」と言い放ち、付け加えて、お辞儀とご冥福をお祈りいたされた。
衝撃の宣告に体を起こして再度、空を見上げた。
言いたいこと聞きたいことは山ほどあるが、何よりも現状についての疑惑を晴らしたかった。
「はいそうですかって信じたわけじゃないが、今は何も言わないでおく。でも、だとしたらここは何処だ、私が問題なく動けるのは何故だ、そしてお前は何者だ」医者のようなセリフを吐いた“それ”の装いは医者というより、天の遣いのようだった。
「まずは私が何者かについてお答えいたしましょう。では、申し遅れました私はA社の社長、浅原と申します」
「A社?聞いたこともないな」
「いえ、ご存知のはずでございます。あなた様は我が社の目の前で我が社の配布していたチラシをお持ちになられておりましたから」
「あぁ」あの悪徳宗教の団体か。
結局、宗教法人の社長という情報しか得られず、正体不明のそれに対する疑念を深めるばかりだった。
「ここが何処かについてですが、”何処”という質問は正確ではございません。ここは緯度経度XYZ座標で表せるような空間ではないのです。ここは”何”かという質問であれば精確にお答えいたしましょう」
何を言っているのか理解に苦しかった。
しかし、話を進めるために訳の分からない言葉狩りに反抗することもなく率直に問う。
「ここは何だ」
「ここは思考の世界でございます。既存の概念で最も近いものは、さしずめ夢と言ったところでしょう。」実に誇らしげに満面の笑みを浮かべて言った。
なるほど、概念の世界ならば「何処」ってのは不適切だったか。の意を込めてため息を吐く。
「私共はここの思考の世界を天国と呼んでおります。"思考”ではなく”至高”の世界と言うわけであります。」
天国の言葉を耳にした途端、無意識に舌打ちをしていた。
私は天国が嫌いだ。
現実に冷めた面白味のない人間が抱く幻想。無気力で全てに無関心、だのに漠然と幸福だけを望む醜悪な人間が行き着く先。それが天国だ。だから私は天国が嫌いだ。
「もういい、この世界から返してくれ」
不敵な笑みを浮かべた醜悪な“それ”は初めて間抜けな顔を見せた。
「天国と言うのは比喩でもなく、本当に何でも望み通りの世界が実現可能なのですよ」
「ここで過ごすつもりはないって言っているんだ」
「あなた様は寝たきりの状態なのです。帰る場所などありません」
「言っているだろ。ここで過ごすつまりはないと」
必死な“それ”の口が閉まりきることはなく、それがガキのわがままのようで、私はだんだんと苛立ってきた。
熱くなる“それ“と怒りが沸いてくる私。
のけぞる“それ“と詰め寄る私。
恐怖する“それ”と怒号で恫喝する私。
咽び泣く“それ”とまくしたてる私。
「いい年した大人が私にちょっと怒鳴られたくらいでどうして泣くんだ。脳死で幸福だけを摂取しているから精神が軟弱になるんじゃねえのか。あ?きっといつかは幸福感も薄れてなにも感じない抜け殻になるんだろうな。悲しいって感情も涙も忘れて喜びがなくなるんだろうな。でも今のお前は幸せそうに見えるよ。込み上げた感情に熱中して怯えて泣いちゃって、胸の奥に感じるだろ?ごちゃ混ぜになった処理しきれない感情を。ここにいたらこんな感情忘れちゃうよ。ね?」
“それ”は震える手で何かしらの端末を取り出し、操作した。
操作を止めて再び私と目を合わせた。
怯えとはまた違った、悲しい目をしていた。
直後、私は全身が痺れ、暗くなった。
ああ、これは。覚えのある感覚だった。
明かりのないとある病棟の一室、結露した窓ガラスから水滴がこぼれた。
風が病室を巡る。
男が何かしらの端末を操作すると、病床が海色の光で照らされた。
透明なケースに全身を覆われた女が一人、男の瞳に美しく静かに映る。
男は自身と女を隔てる壁をどかし、顔を寄せ、唾をのむ。
目が覚めるとそこには見知った天空があった。金色の空、まばゆい太陽、“それ”。
「・・・お前か」
“それ”は返事をしなかった。
仰向けになった私を上からのぞき込んで見下ろしている。
「あれから6ヶ月が過ぎました。外では雪が降っています」
私も返事をしなかった。
「6ヶ月間あなた様は、ただ夢をご覧になられ、さぞ退屈で後悔していたことでしょう」
“それ”は私の顔色を伺い次の言葉を選んでいる。
私の顔色は変わらない。
「今からでも、いかがでしょうか」
私はため息を吐いた。
「後悔はしていない。ただ、ゴミかゴミカスの二択しかなかっただけだ」
“それ”は何も言わなかった。
重く深い沈黙が訪れる。
しかして、それは決して静寂などではない。
静かと呼ぶには心の声が煩く、寂しいと呼ぶには煩わしかった。
その心の乱れを祓うように女の声が透き通って聞こえた。
「正直に言うと久しぶりにここにきて、少し嬉しいと思ってしまったんだ。一つ・・・頼みたいことがあるんだが」
「承りましょう」
「私を殺してくれないか」
“それ”の瞳には驚愕、動揺、畏怖それらの感情が震えとして表れていた。
女の瞳をのぞき込むまでは、そう確かに。
「でしたら、こちらへ」
“それ”は意に介さない様相を着飾って歩きだした。
歩みだしたそれの足音が聞こえなくなると、私は重い腰を上げ歩み出した。
私も“それ”も何も言わない。
私はただ“それ”の足跡だけを見つめて後をついていく。
無心で足跡を追いかけていると、足跡でなく脚があった。
ふと見上げるとそこには真っ白な城があった。
死角の段差に躓いて階段を上っていく。
城の中は高価そうな絵画、煌びやかなシャンデリア、巨大な甲冑、そして大きな長テーブル。
中央の席に着くとテーブルにはすでに豪勢な料理が並べられていた。
「最後の晩餐か・・・」
こんなことよりもと言う思いがありつつ、最後くらいはと食らいついた。
気に食わないテーブルマナーを守り、ナイフとフォークで優雅に美麗にそして冷たく。
見た目通りの香り、見た目通りの食感、見た目通りの味。当然に
「うまいな・・・」
だのに不思議と感動も喜びもない。忘れてしまったように。
黙りこくった“それ”の話によれば、ここは思考の世界だという。
この食事も仮想で幻覚のようなもの。
私が今、どれだけ食べようとも栄養は一切摂取できない。
生きるために不必要なこの食事は無意味だ。
だから感動しない、心動かない。
私は今、幸福なのだろうか。
その思考だけが私を埋め尽くす。
自信が幸福かどうかなど考えたこともなかった。
そんなことを考えるのは幸福でない者だけだから。
考えてもいなかった、考えないようにしていた筈なのに。
私は今、なにをしているのだろう。
ここはどこ、私は・・・
あ、空が見えない。
空虚、空白、空っぽ、何もない、感じない、ただの抜け殻。
それが私。
力が抜けていく。活力が失われていく。
手元のナイフが零れ落ちる。つかめない。姿が分からない。
でも、ナイフの鋭い刃が目に焼き付く。
それに縋って、そのまま眼球に突き刺さる。
堪えきれない声を漏らして、余ったフォークも突き刺す。
“それ”はまるで虫の触覚のようにピクピクと動いている。
触覚を生やし突き刺したまま、テーブルへと顔面を何度も打ち付ける。
何度も更に奥へと突き刺すように。
眼球をえぐろうとも血は流れない。
脳を貫こうとも意識は途絶えない。
食事も肉体も全てが仮想。痛みすらも感じない。
だのに私は苦しい。
ただ、精神だけが不幸を背負う。
涙が流れないのは眼球が無いからだろうか。
カスミさんは遂に狂ってしまった。
制御を忘れた乱舞が目に焼き付く。
鉄の振動する鈍い音が耳に残る。
緊張で息がつまる。
長い時間が過ぎたと思う。
カスミさんは木片の上でうつ伏せのまま固まっている。
僕はその光景を眺めたまま動けないでいる。
木片の壊れる音と共にカスミさんが起き上がった。
ふらふらとまるでゾンビのように僕へとにじり寄ってくる。
カスミさんは僕にすがるように抱き着いた。
僕の中のカスミさんの人物像に一致しない行動に、僕は少しばかりの正気を取り戻した。
「カスミ様!カスミ様!大丈夫ですか!」
大丈夫なわけがない。すぐさまこの思考の世界から抜け出させなければ、本当に取返しが付かなくなる。
ログアウトのために必要な操作端末を急いで取り出そうとするも、ガタガタに震える体と、カスミさんに抱き着かれているせいで思うように動けない。
ポケットの中をまさぐることすらまともにできない有様である。
一刻も早くと急くほど、焦りで更に体は震え、思考も視野も狭まる。
雑に取り出した操作端末は宙を舞う。
気付いた時にはもう遅い。既に手の届かない距離にある。あとは、地面に落下するのを眺めるだけ。最悪の場合、壊れる。もし壊れたら修理に相当な時間を要する。そしたらカスミさんは・・・。極限の中で加速した思考は、絶望を鮮明に教えてくれた。
鼓動も震えも感じることだけを忘れて、ただ放物線を描く様がゆっくりと見えるだけだった。
今の自分があまりにも無価値だと自覚する。
誰にもこんな顔を見られたくないと下を向いてしまう。
前にもこんなことがあった。そう、あの時は、カスミさんが・・・でも今は。
俯いた先には力なく寄りかかるカスミさんがいる。
カスミさんの顔も僕同様に誰にも見えない。
ふと僕はカスミさんの頭を撫でた。
これはきっとあの時の僕がしてほしかったことなんだと思う。
さらさらとした髪を滑って輪郭をなぞる。
撫でるたびにカスミさんの容を理解して、カスミさんの心に触れたようなそんな気持ちになった。
体の震えはもうなくなっていた。
海色の光が漏れだす一室。その光は点滅して次第に消える。
月明かりがほんのりと照らす室内で、男は壁に寄りかかり深呼吸をした。
病床に眠る女性を眺めては頭を悩ませる。
思考の世界、天国からのログアウトには最短よりも相当な時間を要した。
幸いにも地面に落下した操作端末は再起動するだけで元に戻ってくれた。
ひとまずはもう終わったことだ。呼吸と気持ちを整えて当初の問題へと目向ける。
狂ってしまったカスミさんを元に戻してあげたい。
カスミさんを狂わす元凶は恐らく夢。
だったら夢を見させなければ済む話だが・・・。
起きることもできず、夢見ることすらもできなかったら、あの時と一緒。
それを生きているとは言わないよな・・・カスミさんは。
初めから答えは分かっていた筈なのに、目を逸らしたくて分からないふりをして考えることを放棄していた。
「やっぱり、カスミさんの望み通りにするしか」
ずっと喉の奥につかえていた言葉、頭の隅に押しやった思いを声に吐き出す。
吐きだして減ってしまった部分を補おうとするかのように、なんだが静けさを過敏に感じる。
唐突に襲ってきた寂しさを紛らわすために僕はカスミさんの手を取る。
強く握れば折れてしまいそうなほど細い。もう8年もこのままだ。当然だ。
半年前、ようやく夢を見られるくらいには状態が回復したというのに、まさかそれがカスミさんには毒だったとは思いもよらなかった。
8年経ってようやく再会できた時は、もしかしたら僕の事を覚えていてくれるんじゃないかと淡い期待をしてもいた。
8年も経ったんだから僕の姿かたちも変わる。覚えていないことなんて当然のことなのに。
どこか寂しくて、なんだか悲しくて。
カスミさんに罵声を浴びせられて、ずっと淡い期待だけを頼りにしていた僕の8年間が何だったのか分からなくなってしまった。
生まれて初めてだった、あんなにも大粒の涙が溢れて止まらなかったことは。
生命維持装置を外す、それだけで終わる。
きっとそれが一番、幸せな結末になる。最良とは程遠い幸せな最期になる。
ベッドのきしむ音がする。どれだけゆっくり、現実から逃れようとしても、着実に事は進んでいく。
馬乗りになって首へと手を伸ばす。枝のように細い首を握りしめる。
生命時装置を外す、それだけの筈だったのに。
なぜだろう、何故、僕は・・・。
脈動が聞こえる。
声が聞こえる。
悲しい声が、嬉しい声が、僕の声が。
どうして僕は、泣くこともできないんだろう。
どうして僕は笑っているんだろう。
カスミさんの病気が移ったのかもしれない。
ダメだ、離れないと。一緒にいると悪化してしまう。
“それ”から逃げるように病棟を後にした。
活気とは程遠い町中、人々の往来に紛れていた。無表情で無感情、ただ無機質な行進のなか、私だけが焦りを募らせて漂わせていた。だからだろう、私同様、焦りを募らせて漂わせていた一人の少女に気付けたのは。私は迷わなかった。
「君、それ貰えるかな」