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悪女に転生した私は身体を奪って婚約者を幸せにします

作者: 七緒

 その日の私は、朝から腹立たしい気分で通勤していた。


「あのクソ野郎、私の貴重な時間を奪いやがって!」


 アプリを起動させ、元カレの連絡先を消す。社会人になって早数年。そろそろ結婚を見据えていたのに、相手の浮気が発覚したのだ。


しかし端末を乱暴にバックに入れて交差点を横切った瞬間、私の人生は交通事故で呆気なく終了してしまった。


そんな記憶をいま、思い出したのだ。



「お嬢様、お目覚めですか!?」

「早く旦那様にお知らせしろ!」


豪華なシャンデリアが天井からぶら下がっているかと思えば、慌ただしい声が聞こえてくる……先程の記憶が正しければ、何故、トラックにはねられた私の身体が硬いアスファルトではなく、ふかふかのベッドの中に埋まっているのでしょうか? ていうかこの煌めくような金髪はぜったい私の髪じゃない。


「え、なにこれ……誰か鏡もってきて!」


渡された手鏡で自分をうつせば、頭に包帯が巻かれて痛々しい姿ではあるが、それでも絶世の美少女がいた。歳は十七、八くらいに見えた。


「ああ! シャーロット、気がついたか……」


フリーズする私を品の良い中年男性が力いっぱい抱きしめてきた……顔を見たらすぐにこの美少女の父親だと察した。


けれど何よりも目を奪われたのは、部屋の隅にいる十五歳くらいの美少年だった。


癖毛のある黒髪に端麗な顔立ちで、ルビーのような鮮やかな紅い瞳が印象的だ。しかしその表情はなぜか青ざめ、こわばっていた。


「本当に心配したぞ……おまえは庭園の階段から転落して、それからずっと意識がなかったのだ」


男性が私の顔を覗きこんできた。もう訳が分からなかったが、しばらく考え込んで恐る恐る口を開いた。


「……あの、どちらさまでしょうか?」







 ある日突然、絶世の美少女になってしまった私は記憶喪失のフリをして、この西洋風の異世界について調べることにした。正確にいえば、"私"の記憶はあるが、この身体の美少女については何一つ知らないので、記憶がないのはあながち間違いではない。


 この美少女の名前は、シャーロット・グラウナー。侯爵家の令嬢であり、母親を早くに亡くした分、父親に大事に愛され育てられた一人娘だった。しかし非常に甘やかされたせいか話を聞いている限り、本来のシャーロットは我儘で高飛車な性格だったらしい。そんなお嬢様に私は転生したようだ。


「お嬢様、食事をお持ちしました」

「ありがとう」


お礼を言えば、侍女は驚いたように「とんでもございません…」と答えた。そんなに畏まらなくていいのに。しかしそんな私の態度に使用人たちは「我儘なお嬢様のなかに女神が舞い降りたのではないか」と噂した。いや舞い降りたのは、ただの社畜女だ。というか、そこまで周囲に言わせる本来のシャーロットは、どこまで性格が捻じ曲がっていたんだ……。


「お嬢様、アシェル・ハネスト様がお見えです」


 顔を上げれば、すでに部屋の扉付近にあの美少年が立っていた。気を利かせた使用人達が引き下がり、部屋で二人っきりになった。


「……グラウナー侯爵令嬢」


アシェル・ハネスト。彼は公爵家の三男でシャーロットの婚約者であり、将来の跡取りということで食客扱いで侯爵家で暮らしていた。父の話によるとシャーロットは、侯爵家の邸の庭園でアシェルと談笑していたところ、階段を踏み外し、そのまま転落したという。意識を失ったシャーロットを邸に運んでくれたのも彼だった。まあ、その後、"私"がシャーロットとして目覚めたので、そこらへんの記憶は"私"にはないが。だからだろうか、彼は責任を感じているようで、あの日、私が目覚めるまで部屋にとどまってくれていたのだ。


「アシェル様、来て下さりありがとうございます」

「……いや」


私がお礼を言えば、アシェルは怪訝な表情を浮かべたが、すぐに目を伏せた。


「記憶はもどったのか?」

「いいえ、まだ何も思い出せておりません」

「……そう」


 そこで私達の会話は途切れてしまった……アシェルは記憶の有無を聞くくらいで、何も話してくれないのだ。こちらもボロが出ないように口数を少なくしているため、結果、お互い話さないから沈黙が流れてしまう。けれどさすがにこのままでは不味いだろうと思い、私は口を開いた。


「……思い出話があればなにか話していただけませんか? もしかしたら思い出すきっかけになるかもしれないので」

「……は?」

「私達婚約しているのですから、楽しい思い出の一つや二つ……」


 あるのでしょう?と聞きかけたが、それ以上、私の言葉は続かなかった……何故ならアシェルが憎悪に満ちた目で私を睨みつけていたからだ。そして彼は怒りに震えた声で話し始めた。


「……何が、楽しい思い出の一つや二つだ。ふざけるな!」


彼の言葉遣いや態度の急変さに驚きを隠せない。固まる私を見て、彼は容赦なく怒鳴りつけた。


「何を驚いてるんだ! 俺のこと卑しい妾の子供だとさんざん見下してきただろ? ああそれとも記憶がないのか……俺の目つきが気に食わないと人を使って殴らせたのも忘れたか」


 思いがけない言葉に頭が真っ白になった。


「……ちがう、それは私じゃ、」


 アシェルはぎりっと歯を食いしばった。


「貴女のせいでどれほどの辛酸をなめてきたと思っている」


 そう吐き捨てるように言い、彼は部屋を出ていってしまった。









 そこからどれくらいの時間が経ったのか。ふいに愚痴がこぼれた。


「……私だって、こんな悪女に転生したくなかったわよ」


 私はただトラックにはねられて、気がつけばこの女の身体にいただけだ。何も知らない、悪くないのに、なぜ責められなければならないのか。罪なのは、この身体の本来の持ち主なのに……けれど、本当のことを言ったところで誰も信じてはくれないだろう。そして今この身体を動かしているのは紛れもなく私だ。それが事実である以上、私はシャーロットとして振る舞わなければならない。


 覚悟を決める頃には、部屋は夜の静けさに包まれていた。










「シャーロット、怪我の具合はどうだ?」


 それから数日後、私はシャーロットの父親である侯爵の執務室に訪れていた。多忙で邸を空けることも多いようだが、私が話をしたいと言えば、すぐに時間を取ってくれた。


「怪我はもう大丈夫です。ただ記憶のほうがまだ曖昧で……」

「頭を強く打ったのだ。焦らずにゆっくり記憶を取り戻せばよい」


 侯爵はそう言い微笑んだ。


「……今日お話ししたいことは、その、アシェル様のことなのですが」

「おや、喧嘩でもしたのか?」


 数日過ごして分かったことだが、どうやらこの人は娘の本性に気づいていないようだった。恐らくシャーロットも親の前では上手く隠していたのだろう。


「……そう、ですね。記憶がないことで彼を怒らせてしまって」


 実態よりも相当穏やかな言い回しをすれば、侯爵は顎に手を当てた。


「だからと言って婚約破棄は認めんぞ。アシェル殿は大事な跡取りだ。それに彼との婚約はおまえのためでもある」

「……どういうことですか?」

「何だ、そんなことも忘れたのか」


 そう言って侯爵は話し始めた。


 元々、シャーロットはアシェルではなく、アシェルの兄ダニエルと婚約していた。しかしあるとき、ダニエルは真実の愛に目覚めたといって平民の女性と駆け落ちしたという。醜聞を恐れたハネスト公爵はダニエルの埋め合わせにアシェルを婚約者に選び、侯爵もシャーロットを傷物にしたくないという利害の一致で二人の婚約が決まった。シャーロットはその婚約に納得していなかったようだが、アシェルの身の上に同情した侯爵が無理やり説得して、彼を引き取ったという。


「アシェル殿は公爵と使用人の間に出来た子供で、公爵家での扱いはそれは酷いものだった。教育も満足に受けていないようだったから、こちらで引き取る話しをしたらあっさりと承諾されたのだ。まあ、公爵は厄介払いができたとしか思ってないのだろうな」


 その話でアシェルの言葉に納得がいった。恐らくシャーロットは婚約破棄をされた腹いせにアシェルに強く当たっていたのだろう。過去に浮気された私もシャーロットの気持ちが理解できなくもないが、それでも彼に当たるのはお門違いなのは確かだ。








 侯爵から話を聞き終え、だいたいの状況を把握した。これからどう動こうかと考えていたとき、何やら裏庭が慌ただしいことに気がついた。


「ほら立てよ、妾の子供がっ!」


 剣の稽古中だろうか、教育係たちに囲まれた中心で、アシェルは地面に倒れていた……額は流血し、身体のあちこちを負傷している。あきらかに度が過ぎていた。侯爵家でアシェルの教育を施すと侯爵は言っていたが、これではまるで監督が行き届いていない。公爵令息とはいえ実家から見捨てられ、何の後ろ盾もない彼が、この邸でどんな思いをしてきたか想像するだけで胸が痛んだ。


「……何をしているの」


 声をかければ、教育係の男が愉快そうに口の端を上げた。


「これはお嬢様。今日はどのようにしてフィアンセを折檻されますか? ご随意にどうぞ」


その言葉に思わず顔をしかめた。それでも息を整えて平静を保った。


「……そこにいる者全員、即刻この場から立ち去りなさい」

「は、はい?いや、しかし……」

「同じことを二度も言わせるつもり?」


 睨みつければ、気圧されたように教育係たちが退散した。彼らのことは後で侯爵にでも言いつけて辞めさせればいい。娘に甘い彼なら私のお願いを聞いてくれるだろう。それよりも今はアシェルの手当てが先だ。手を差し出せば、彼は厳しい顔つきでこちらを見上げていた。


「……何のつもりだ」

「手当てをいたします。立てますか?」

「そんなもの、要らない」


アシェルは自力で立ち上がったが、めまいを起こし再び倒れそうになったため、慌てて支えた。


「大丈夫ですか!? 手を貸しますので、私につかまってください」

「……」


手を振り払われるかと懸念したが、体力の限界だったのか、彼はおとなしく私の肩につかまってくれた。その後、騒ぎを聞きつけた使用人にアシェルを任せて、私は侯爵の執務室へと引き返すこととなった。








 翌日、私はアシェルの自室を訪ねた。怪我の治療のため、彼はベッドで安静にしていた。過剰な稽古を行なった教育係たちを解雇したことを伝えても、彼は眉一つ動かさなかった。


「怪我の具合はいかがですか?」

「……」


私の質問にも答えることなく、アシェルは黙りこんでいた。今日はもう諦めて退出しようと席を立った瞬間だった。若いメイドがアシェルに水を持ってきたのだが、私と接触しグラスを取り落としてしまった。水は私のドレスにかかりグラスは割れて、床に破片が散乱した。


「も、申し訳ございません……!」


顔面蒼白になった彼女は、破片が散らばる床のうえで平伏した。破片が手足に突き刺さり出血しているにも関わらず、ガタガタと震えながら頭を下げ続ける彼女に慌てて声をかけた。


「私の方こそ、ごめんなさい」

「……い、いえ、そのような」

「怪我してる、手当てを受けたほうがいいわ。立てる?」


半泣き状態の彼女を立たせて、周囲に助けを求めれば、年配のメイドが私たちに近づいてきた。彼女は若いメイドにこの場から下がるように言いつけると、手際よく破片の後処理をしてくれた。


「ありがとう、助かったわ」

「……どうか」


彼女は手を震わせながらも、はっきりとした口調で言った。


「あの娘の無礼をお許しください。あの者は他に行く当てもなく、どうか……」


その言葉でシャーロットならあのメイドをすぐに解雇したのだろうなと察した。


「大丈夫よ。あの子をクビにはしないから」


そう言えば、彼女は一瞬目を見開いたが、やがて深々と頭を下げた。



「……一体、何を企んでいる」


年配のメイドも引き下がり、部屋に二人っきりになったとき、アシェルがようやく口を開いた。


「今までの貴女なら、俺やあのメイドを躊躇なく虐げていただろ。今更、善人ぶって何が目的だ」


語気は強めだったが、彼の表情はどこか怯えていた。


「何も企んでいません。ただ、私は変わったのです」

「そんなの信じられるはずがないだろう。たかが記憶を失くしただけで、変われるはずがない」

「……今すぐ信じて頂けるとは思っていません。それは私の行動の積み重ねでしか証明できませんから」


私はアシェルを見つめた。


「私にやり直す機会を頂けませんか?」

「……」

「もしも私が道を踏み外すようなことがあれば、そのときは私を断罪してください」


アシェルの目が大きく見開いた。


「私は爵位が上である貴方に非礼をはたらいています。使用人たちの証言があれば罪に問われることはまず間違いありません。今、貴方が私を断罪しても仕方ないことだとは思います。けれど、どうかもう一度だけ機会を下さい。お願いします」


 結局、私は死んでもなお、生きることに執着していた。たとえ異世界だろうと悪女の身体だろうと、私が"私"である限り、生きていたかった。


しばらくの間沈黙が流れたが、やがてアシェルがぽつりと呟いた。


「……本当に、今更だ」


そして彼は両手で顔を覆った。


「どうして、もっと早く……」


 溢れた言葉はほとんど声にならなかった。








 そうして私達は婚約者としての生活を再スタートさせたが、早々に壁にぶち当たっていた。私が貴族としての礼儀作法や食事のマナーを全く知らなかったからだ。記憶喪失だといえば、皆、一応納得してくれたが、この設定が通じるのも時間の問題だった。


「……本当に、何も覚えていないんだな」


私の動作を見守っていたアシェルは、深々と溜息をついた。


「これでは人前に出ることもままならないな。不敬罪に問われるかもしれない」


 侯爵までからも人前に出ることを禁じられた私は、舞踏会や夜会にも参加できなかった。これではただのニートと変わらない。


「家の恥ですみません」

「そこまで言ってないが」


 激しく落ち込む私に、アシェルは気遣うように声をかけてくれたが、すぐにその顔色が曇った。


「……それに俺だって落ちこぼれだ」


その言葉に首をかしげた。薄々感じていたことだが、彼はどうも自己肯定感が低すぎる。けれで彼の生い立ちを考えれば、無理もないかもしれない。


「……アシェル様の新しい教育係なのですが、いっそのことお父様に教えてもらいません?」

「は?」


私の提案に彼は目を丸くした。


「貴方はこの家の跡継ぎなのです。ならば現当主に教えてもらえばいいじゃありませんか」

「いや、しかし」

「ついでに私の貴族のマナーもお父様に教えて貰いましょう。長年侯爵してるわけですし、それはもうバッチリなはず」

「それでは侯爵の負担が尋常じゃないだろ!?」


彼は頭を抱えた。


「……なら貴女のマナーは俺が教える」

「よろしいのですか?」

「侯爵が過労で倒れてしまう」

「ありがとうございます。それならアシェル様がお父様から教わって下さい」


 私がそう言っても、アシェルは首を横に振った。


「ただでさえ、侯爵には色々と良くしてもらっているんだ。これ以上は……」

「私たち家族になるのですから、気遣いは不要ですよ」


アシェルが一瞬目を見開いた。


「……家族?」

「父上にとっては貴方は息子同然なのですから」


その後、私の読み通り侯爵に相談すれば、彼は快くアシェルの教育係を引き受けてくれた。


 こうしてアシェルは、侯爵について仕事を手伝い、時には領地に出向き様々なことを学んだ。侯爵は面倒見がいいのか、今まで一切領地経営について知らなかったアシェルに一から丁寧に教えているようで彼は徐々に跡継ぎとしての頭角を現していった。そしてその傍らで、彼は私に貴族のマナーを教えてくれた。


 アシェルは親切で優しい人だった。私に思うところがあるはずなのに、それをおくびにも出さず、何かと私を気にかけてくれた。その優しさに甘えて私が色々と教えを乞えば、丁寧に対応してくれた。


 そうしているうちに今までの距離感はなんだったのかというくらいに、気がつけば私とアシェルとの距離は縮まっていった。






「アシェル様のおかげでお父様からの外出許可がおりました!」


ある夜、アシェルと二人っきりの夕食のときにそう報告すれば、彼は食べる手を止めた。


「そうか、良かったじゃないか」

「本当にありがとうございます。これで家の恥にならずにすみました」


 胸を撫で下ろす私に、アシェルは苦笑した。


「……俺も君のおかげで落ちこぼれにならずにすみそうだ」

「いえ、私は提案しただけなので。お礼ならお父様にして下さい。泣いて喜ぶと思います」

「そうだな。でも、俺の教育係を変えるように進言してくれたのはシャーロットなんだろ?」


 私が食べる手を止めて顔を上げれば、アシェルはこちらを見つめていた。


「侯爵から聞いたんだ」

「私はただお父様にお願いしただけです」

「それでも感謝している。俺は実家ではろくに教育を受けてこなかったから」


そのとき何か矛盾を感じて、思わず尋ねた。


「でもマナーは完璧でしたよね?」

「……亡くなった母が教えてくれたんだ。母は公爵家の使用人だったから」


 彼は淡々と話し出した。


「実の母親以外は、俺に何も与えてくれなかった。それどころか正妻や義兄弟は母が死んだ途端、俺に危害を加える始末で……だから父は扱いに困り果てた俺を、この家に押し付けたんだ」


そこまで話して、ふと彼は私を見て苦笑いを浮かべた。


 「何で君がそんな顔するんだ」


 知らず知らずのうちに表情に出ていたらしい。


「すみません、私、本当に何も知らなくて。それどころか、以前の私は貴方に……」


 言葉に詰まる私に、アシェルは目を見張り、やがて視線を落とした。


「……記憶がないのだろ?」

「……」


 もうこれ以上、彼に嘘をつくのは限界かもしれない。信じて貰えるかは分からないが、それでも、もう黙っている訳にはいかなかった。


「あの、実はわたし」





 気がつけば、目の前に先ほどと変わらずにアシェルがいた。というか椅子に座っていた私は何故、立っているのだろう……何故、目の前には、先ほど食べていた夕食が残骸と化しているのか。


「え」


 声を出せば、彼は動揺したように身を震わせた。


 ふと手に痛みが走る。視線を落とすと私の手は血だらけになりながら、割った皿の破片を握りしめ……その鋭利な部分をアシェルの方に向けていた。慌ててそれを手放した。


「私、今、何を」


 青ざめながらもこちらの様子を伺うアシェルを見て、彼が恐怖するようなことが今起こったのだと悟った。それなのに、ほんの一瞬前のことなのに、私には記憶がない。まるで身体を乗っとられたような感覚だ。


……いや、違う。もしかしたら本来のシャーロットの意識がこの身体に戻ってきてるのかもしれない。


「……アシェル様、すぐにここから離れて」

「思い出したんだな」


 私の言葉を遮って、彼は掠れた声で呟いた。


「俺が君を階段から突き落として殺そうとしたこと」




「……なにを、」


 上手く話せない。それほどまでに私の思考は衝撃で止まっていた。


「それを思い出したから、今、俺を殺そうとしたんだろ?」

「……」


 彼が私をじっと見つめる。その目には恐怖と憎悪が渦巻いていた。彼の敵意は決して自分に向けられたものではないのに、目が合った瞬間、背筋が凍りついた。


「シャーロット、俺は君がずっと憎かった。ずっと殺してやりたかった」


けれど次の瞬間、その目元がかすかに和らいだ。


「……でも、記憶をなくしたあとの君は、嫌いじゃなかったよ」


 一瞬、息が止まった。


 何か言わなければと口を開いたが、突然、脳内に霧がかかったように思考が鈍くなった。意識が遠のきそうになる。身体を奪われると思った私は、とっさに皿の破片を拾い、手の甲に突き刺した。途端に激しい痛みに襲われ、思考回路がはっきりとした。


「シャーロット……?」

「私は、シャーロットじゃない」


 私の語気の強さに、アシェルが息を呑んだ。

 

「……本当は、私、記憶喪失じゃない。階段から転落したときにこの体に乗り移ったもう死んだ別の人間なの」


 言わなくてもいいことが、つい口から溢れ出した。


「私もよく分からないけど、私には確かに今まで全く別の人生を歩んできた記憶があって、死んだ記憶もある。そして死んだと思ったら、私はこの体のなかにいた」


 手の甲をさすりながら、かろうじて言葉を続ける。


「さっき、貴方に攻撃しようとしたのは、私じゃなくて、本来のシャーロットだと思う。私は一瞬、意識が飛んだから……怖がらせてごめんなさい。でも貴方を傷つけようとしたのは、私の意思じゃないことはどうしても伝えたかった」

「……それなら、君は、その女に体を返して、死ぬつもりなのか?」


 問いの返事に躊躇ってしまう。その躊躇いを見た瞬間、彼が駆け寄り、私の肩を強く掴んだ。


「だめだ! 俺はあの女よりも君がいい。君じゃなきゃ駄目だ」

「でも、」

「やっと、君のことが分かったのに。ここで死ぬなど許さない」


 そう言ってアシェルは私を強く抱きしめた。


「俺は、君を諦めたくない」


 震えた息とともに吐き出された言葉が胸にストンと落ちた。


 私だって、そうだ。生きることを諦めたくない、アシェルと一緒に生きる未来を諦めたくない。


 けれど、シャーロットの意識を完全に打ち消さないと、身体は取り返されてしまい、彼女はアシェルに復讐しようとするだろう。


 ならば、私が彼女を殺すしかない。


 私は彼を一瞬強く抱きしめ返し、そして離れた。アシェルが瞳を揺らしながら私を見つめる。その顔に微笑みかけて、身を翻した。


 向かった先は、窓だ。私は窓枠に足をかけて身を乗り出した。高さはあるが、飛び降りても死なないほどだろう。


「おい、やめろ……!」


 背後からアシェルの叫び声がしたが、構わず私は飛び降りた。この身体を負傷させて、シャーロットの思いのままに動かすことができないようにするためだった。もちろん打ちどころによっては死ぬ可能性もある。けれどその時は、必ずシャーロットを道連れにしてやると決めていた。


 でも、できることなら生きたいと、薄れゆく意識のなかで私は願った。







 それから一体、どれくらいの時間が経過したのか。気がつけば私は薄闇のなかで立っていて、目の前には一人の女がうずくまっていた。


「返しなさいよ、この無礼者」


 女は金髪を振り乱しながら、恐ろしい形相で私を睨みつけていた。直感でシャーロットだと分かった。


「わたくしは、わたくしの尊厳にかけて身体を奪い返して、アシェルを、あの男をっ……!」

「身体は返さない。私がこの身体を使っていく」


 私は息を整えて、更に言葉を続けた。


「だから貴女が死ぬのよ、シャーロット」


止めを刺すのは簡単だった。


 それは自分が死ぬことを自覚させること。


 それだけで存在は虚ろになっていく。一度死んだからこそ、分かることだった。



 シャーロットは奇声を上げてその場でのたうち回った。身体に戻れないことに絶望した女の影は徐々に薄れていき、やがて跡形もなく消え去っていった。











 シャーロットから身体を奪いとって意識を取り戻したとき、アシェルは恐怖と混乱で引き攣った表情で私を見下ろしていた。


「アシェルさま?」


 開口一番に彼の名前を呼べば、アシェルは大きく目を見開き、やがて泣きじゃくりながら、私に飛びついた。縋るように指先が動いて、服を握り締められた。


「良かった、君が無事で良かった」


 耳元で落とされた言葉に、喉の奥が熱くなる。そして静かに涙が流れた。






 窓から転落した私は、幸い一命を取り留めた。またしても事故として片付けられたが、連続で起こった悲劇に侯爵はやつれた顔をしていた。


「お願いだから心配をかけさせないでくれ、シャーロット」


 本来ならその言葉をかけられるのも、抱擁されるのも私ではない……私は一生この人に罪悪感を抱いて生きなければならない。それが私への罰なのだ。

 

 そして罰はもう一つ。私はシャーロットの汚名を背負わなければならないということ。


 邸内での評価が良くなっても、相変わらず社交界での私の評判は最悪だ。だからそれを塗り替えるため、今日、私は初めて夜会に出かける。この日のために新調した青いドレスに身を包んだ私を見て、エスコート役のアシェルは目を細めた。


「とても綺麗だよ」


 彼は私の手を取ったが、手の甲にある傷跡を見て、顔を歪めた。


「そんな顔しないで、この傷は私にとって勲章みたいなものなんだから」


笑って言えば、アシェルはささやいた。


「……"君"がここにいてくれて、俺は本当に果報者だ」

「ふふ、まだまだこんなものじゃありませんよ。アシェル様にはもっともっと幸せになって頂きますからね」


 私の宣言に、アシェルは一瞬呆気にとられたが、声を立てて笑い出した。やがて跪いた彼は慈愛のこもった眼差しをむけて、私の傷跡にそっと唇を寄せたのだった。




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