妊娠
「うん、順調だな」
その日、医者の診察のため、オリビアはベッドに横になっていた。
「赤ちゃん、大丈夫ですか?」
「あぁ。健康体だ」
医者からの言葉にほっとする。
「食事はとれてるか?」
「はい。皆さんが食べられるものを持ってきてくれるので」
「ん、それでいい。お前が食べないと、子どもに栄養が行かないからな」
胎児が健康に育つように。
そのために、つらい生活に耐えてきた。
公爵家の専属医であり、公爵の弟だというオルコットは、頻繁に様子を見に来てくれる。
そのたびに胎児の様子を見てもらい、安心する。
「気になることはあるか?」
「……いえ」
ないわけではない。が、きっとこの場で聞くものではない。
そう判断して口をつぐんだのだが、
「何かあるなら言ってくれ。小さいことでもいい」
医者には伝わったらしい。
「じゃあ……」
オリビアは少し戸惑いながら口を開いた。
「オルコット先生は、公爵様……お父様の、弟君とお聞きしました」
「あ?あぁ、そうだけど」
オルコットにとってこの質問は予想外だったようだが、それでも答えてくれる。
「それでは、どうしてお医者様を?」
前公爵の息子ともなれば、医者などする必要はないはずだ。
長男か次男か、はたまたそれよりも下か。
その順番によるだろうが、それなりの財産を持てるはず。
平民であったオリビアはその程度の認識でいた。
「んー……」
オルコットは少し考えた後、オリビアの真剣な表情を見て、ニヤリと笑った。
「俺は、妾腹……いわゆる、私生児なんだ」
その言葉に、オリビアはハッとする。
自分と同じ立場にいる人。なおさら気になる。
「前コープランド公爵が、ちょっと外で遊んだ時にできた子。責任感の強い人だったから認知してもらえて、爵位や財産を受け取らない代わりに、生計を立てられるよう協力してもらったってとこだな」
それは、どこか慰謝料を要求しにきたオリビアが、共感できるところで。
「医者を選んだのは、認めてくれた父親に恩返しがしたかったから。父親も、兄貴……っと、現公爵様も、医者嫌いは有名なことだからな。少しでも信頼できる人間が医者になればいいかなって」
公爵家のために働く。そうすることで生活がなりたち、自分も助かる。
新しい視点だった。なるほど、そうすればよかったのか。
「わたしもお医者様になることはできますか?」
「ん?医者になりたいのか?」
「お医者様というか……、公爵様のお役に立ちたくて」
養女として引き取ってくれて、守ってくれる。そのお礼がしたい。
「医者になりたいわけじゃないなら、この仕事はやめた方がいいな」
やっぱり簡単なことではない。
「そんな顔するな」
くしゃっと優しい笑顔で、オルコットはオリビアの頭に手を置いた。
「お前はきっと賢い子だ。勉強すれば、何が公爵家のためになるかわかるようになる」
勉強。そうだ、ここでは勉強ができる。
「勉強ってどうすればいいんですか?」
「とりあえず本を読むこと。あと、家庭教師をつけてもらったらいろいろ教えてもらえる。……っと、まだ妊娠中だ。無理はするなよ」
勉強をすれば、この何もわからない状況から脱却できる。
お腹の子のためにも、母親である自分が状況を理解していなければ。
オリビアはそう思った。
「勉強をさせてください」
医者が帰ってすぐ、オリビアは即座に公爵の元へ行った。
執務室で小公爵とともに仕事をしていた公爵は、しばらく答えがなかった。
そのかわりに、
「オリビア、理由を聞いてもいい?」
小公爵が優しい声音で尋ねる。
「オルコット先生にお聞きしました。わたしも、公爵家のお役に立ちたいのです」
平民であった頃、学校なんてものはなくて。ただ一日生活するだけで精一杯。
特にオリビアの環境は、決してまともなものではなくて。
一日無事に生きていられるかもわからなかった。
そんな中から、こんなところに来てしまった。
何もしないままお世話になっているだけでは、落ち着かない。
なにかすることがあれば。それが公爵家の役に立つものならば。
きっと安心してこの環境に身を置くことができる。
「わかった」
公爵の低い声が聞こえた。
「家庭教師を手配しておく」
「ありがとうございます」
その返事を聞いて、オリビアはホッと頬を緩める。
「オリビア」
そんな彼女に、小公爵は心配そうな目を向けた。
「無理はしてほしくないよ。大切な身体なんだ」
「大丈夫です」
もちろん無理するつもりなんてない。
今まで通り医者が来てくれるのだから、彼の意見を聞きながらになるだろう。
それでも、勉強がしたかった。
公爵の許しを得たオリビアは、執務室を出て部屋に向かう。
「よかったですね、お嬢様」
仲良しのメイドクララにそう笑いかけられ、オリビアは笑顔で頷いた。
「お部屋に戻ったら、少しお休みくださいね」
「はい」
そう頷いた時。
前方からこちらに歩いてくる影を見つけた。
「……」
鋭い眼光が、オリビアをさっと一瞥する。
オリビアは思わず足を止めた。
彼は、何か声をかけるわけでもなく。
ただ、オリビアに軽蔑の眼差しを向けて、すっと通り過ぎていく。
何も言われなかった。
安堵の溜息を吐いたことで、息が止まっていたことを自覚する。
「お嬢様……」
クララが隣から心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫です」
オリビアはそう微笑み、お腹に手を当てた。
大丈夫。この子がいるだけで、幸せなのだから。
オリビアは折れそうな心にそう言い聞かせることで、なんとか立ち直った。
オリビアはひとり散歩していた。屋敷の中は広く、庭に出なくても十分散歩できる。
心配するメイドを置いて、ひとりで歩くのも慣れてきた。
すれ違う使用人たちは、オリビアにもうやうやしく頭を下げて道を開ける。
「お父様」
その時、声が聞こえた。それは、すぐそばの部屋の中からだった。どうやら扉が開いているらしい。
「オリビアのお腹の子の父親について、何かご存知ではないのですか?」
「カミラ、その件はもう終わったはずだよ」
父を問い詰めるようなカミラの声。そして、それをなだめるアンドリューの声。
オリビアはどうしても気になってしまって、その部屋の方へ足を進める。
「終わっていません。出産もまだですし、子どもはこれから生きていくのですよ」
カミラの口調が強い。
「だとしても、産むと決めたのはオリビアだよ」
それに対し、相変わらず優しいアンドリューの声。
「なぜそれを止めなかったのですか?」
さらに強く問い詰めるような声に、オリビアはそっとお腹に手を当てる。
この子は望まれていないのだろか。カミラのあの言葉は、認めてくれた証ではなかったのか。
「オリビアは、子どもの父親が誰か、はっきりと言わないとか」
「まぁ……思い出したくないだろうから」
「仮にあの子の父親が関係していたとして、子どもが父親に似ていたら、苦しむのはオリビアですわ」
カミラなりに、オリビアのことを気遣っているらしい。
ここの家族は、お腹の子の父親を、オリビアに暴力をふるっていた男だと思っている。
それを訂正する気はない。勘違いさせておけるなら、きっとそのままがいい。
「里子に出すことを提案してください。そうでなければ、お兄様の子として育てることも」
「オリビアがそれに納得すると思う?」
「……それは……」
言い争う兄姉の声を聞き、オリビアはそっと音もなくその場を離れた。
お腹の中の子どもは、声が聞こえているという。それに、お腹の中の記憶が残ることもあると聞いた。
こんな言葉は、聞かせたくない。
「大丈夫だからね」
そっとお腹に手を当て、オリビアはそうつぶやいた。