ドクターオルコットの診断
「彼女は、妊娠しています」
医者の言葉が、静かな空間に響いた。空気が凍った。誰も反応できなかった。
オリビアだけは、そっと両手で顔を覆う。知られてしまった。
追いだされてしまう。よかった。この生活に慣れきってしまう前で。今ならまだ、平民として生活できる。
お金はもらえるだろうか。これが知られてしまったからには、もうもらえないかもしれない。
どうやって生きていこう。仕事は探せるだろうか。
「……容態は?」
その時、聞こえたのは公爵の低い声だった。
「つわりが悪化していますが、まだ何とかできるレベルかと。胎児の状態もいい。このまま妊娠を継続するなら、おそらく来年の夏ごろに」
それに答える、淡々とした医者の声。
「ま……っ、待ってください」
小公爵の声は、なぜか戸惑いが感じられた。
「彼女はまだ14歳です。妊娠なんて」
「初潮が来ていれば、女性は等しく妊娠する可能性がある」
「それは……でも……」
もう逃げられない。今まで隠してこられたのだから、これ以上は望めない。
オリビアはそっとベッドから降りた。
「オリビア……」
小公爵の声がする。その声は、戸惑いと、そして優しさに満ちている。
甘えてしまいたくなる心をぐっと押しつぶし、そっとその場に膝をついた。
「隠していて、ごめんなさい」
貴族を欺いたのだと、極刑になってもおかしくない。今は、公爵の温情にすがることしかできない。
「ご迷惑はおかけしません。ただ……この子と、2人で……暮らしていければ、それでいい、です」
そのためのお金を。ほんの少しでももらえれば。そんな願いは、命の前には儚いもので。
命だけは助けてほしい。胎内に生きる命と2人で生きていくことを許してほしい。
願いは、ただそれだけだった。
「オリビアは、その子を産むつもり……?」
小公爵の声が、すぐそばで聞こえる。
「知らないかもしれないけど、赤ちゃんを諦めるっていう方法もあるんだ」
「……諦める……?」
「オリビアがつらい思いをすることはないんだ。その子の父親は……」
なぜか知られているらしい。オリビアの今までの過去を。
きっと勘違いされている。その間違いを正す必要はない。
「……この子に、父はいません」
オリビアは、そっとお腹に手を当てる。まだ動きは感じられないが、この数ヶ月、確かに生きていると信じてきた。
「この子の親は、わたしだけです」
小公爵をまっすぐに見つめるその顔に、もう少女の弱さはなかった。
「オルコット」
公爵の声が響いた。
「子どもは無事に生まれるのか」
「まぁ……可能性はあるかと」
公爵の声に答える医者に、オリビアの視線が移る。
「オリビアはまだ14歳だ。身体が十分に発達しているとは思えない」
「前例がないわけではありません」
公爵は、オリビアを心配しているのだろうか。彼女はようやくそれに気づいた。
それは、初めて見る父親という姿で。もっと他の理由があるのでは、とさらに勘ぐってしまう。
「オリビア、立って」
小公爵が手を差し出す。
「床に座っちゃダメだ。絨毯があるとはいえ、冷えるからね」
肩を支えられて立ち上がり、そしてベッドに座らせられる。
「オリビアは、その子を産むつもりなんだね?」
「……はい」
最初から、産まないという選択肢はなかった。中絶なんていう手段があることは、平民にはあまり知られていない。
「じゃあ、僕たちはオリビアを支えるよ」
「……ぇ……」
小公爵がオリビアの前に膝をつき、両手でオリビアの手を握る。
「生まれてきた子も、公爵家の血を引く子として保護しよう。オリビアはもう、僕たちの家族なんだ。君が産む子もまた、僕たちの家族になるんだよ」
家族。それは、今までにも確かにあって。しかし、今まで以上に重い意味があって。
その言葉の意味を、オリビアはすぐに理解できなかった。
「オルコット先生」
続いて小公爵は立ち上がり、医者を振り返る。
「妹が安全に出産できるように、サポートをお願いします」
「もちろん」
医者は笑顔で頷いた。
「さ、オリビア。安静にするんだ。横になって」
「は、はい……」
わからない。しかし、これでオリビアとお腹にいる子どもの安全は保障された。それだけはわかる。
ベッドに横になり、小公爵の手で布団をかけられる。
公爵といくつか会話を交わした医者が、ベッドに歩み寄ってきた。
「では、改めて」
「……?」
「俺は、コープランド公爵家専属の医者、オルコット・ユーデスだ」
医者というのは、こんなにもくだけた態度なのだろうか。
先ほどまでとは違う。公爵が離れていて聞いていないせいか。
「今は体調も悪いだろうし、食べられるものも少ないだろ」
コクンと頷く。その通りだったから。
「食べられるものだけでいい。とりあえずお腹に入れること。それが胎児の食事になる。子どもがお腹空かせてたらかわいそうだろ」
それにも頷く。医者からの言葉ならきっと間違いないと思える。
「それから、適度な運動。激しい運動はダメだが、動かなすぎるのもダメ。いいな?」
なるほど。安静が絶対ではないのか。
「元気な子を産めるように、頑張ろうな」
それは、温かい言葉だった。
誰からも言われなかった。ひとりで産むのだと思っていた。
一緒に頑張ろうという言葉は、思っていたよりも心にしみわたる。
瞼が熱くなる。じわりと滲んできた涙を隠すように、両手で顔を覆った。
そんな彼女の頭に、医者がそっと手を添える。
「よくひとりで頑張ったな」
この人は、きっと悪い人ではない。子どもを守ってくれる。
ここでなら、安全に子どもを産み育てられるかもしれない。