コープランド公爵家
広い部屋の片隅で一晩を過ごした。その部屋には大きなベッドがあったが、そのベッドを使うことはできなかった。
一晩明ければ出て行く身。親子であっても、そうでなくても。だから、この綺麗な部屋を汚す必要なんてない。
そして翌朝、その瞬間は来た。
朝から客間に入ってきたのは、公爵と燕尾服、そして神官の3人。
見たことのない神具を目の前に並べられ、彼女はキラキラ輝く金銀を食い入るように見つめた。
いったい何日分の食費になるだろう。何人分のパンを買えるだろう。
「公爵様、こちらに血をお願いいたします」
ナイフを金の器を渡された公爵は、躊躇なく手のひらに切り込みを入れ、ぼたぼたと血を落とす。
「お願いいたします」
今度はその器を、神官が持ってきた。
痛いのは苦手だ。でも、きっと父や母に蹴られるよりはマシ。
この行為に何の意味があるのかもわからず、小さなナイフを受け取った彼女は、指先を切った。
ぴりっとした小さな痛み。そして、じわりと滲んでくる赤い血。
指先から金の器に流れ落ちた血液は、元々入っていた公爵の血と混ざる。その瞬間、器がパッと光りだした。
驚いて一歩後ずさる彼女に、ただ黙ってその光を見つめる公爵。
「……お2人は……」
神官が重く口を開く。
「実の親子のようです」
ホッとした。これで遠慮なくお金がもらえる。そうしたら、早く出て行こう。こんな豪華な宮殿のような場所、自分にはふさわしくないのだから。
「お嬢様」
彼女の前に、燕尾服が膝をついていた。
「お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
なぜ自分がかしづかれているのか、わからなかった。
しかし、名前を聞かれたことはわかる。
「オリビア、です」
お金をもらうまではいい子にしなきゃ、と、その言葉に答えた。
「オリビアお嬢様」
燕尾服の男性がそう呼びかける。
「公爵様は、あなた様をコープランド公爵家の養女として迎えたいとお考えです」
「……ぇ」
それは、予想外の言葉だった。一瞬、理解が追い付かないほどに。
まともな教育も受けておらず、読み書きがやっとできる程度の彼女でも、その言葉は理解できた。
「……わたし、は……」
貴族にとって、私生児は恥。当然受け入れられるはずはなく、下手をすれば殺されることだってある。
だから、嫌われないために、怒らせないために、ただ黙っていい子にしていたのに。
断りたい。それなのに、彼女の知識レベルで、貴族の申し出を断る言葉は知らない。
「……お金を……もらいに……」
ただ自分の目的を繰り返すことしかできなかった。
「公爵家の養女になれば、衣服も装飾品もご準備いたします。こちらで生活していただくことができるので、お金に困ることはないかと存じますが」
その言葉を聞いて、それもいいかもしれない、と思い始めた。
女子供が一人で生きていけるほど、この世界は甘くはない。
そのために、できるだけたくさんのお金をもらいたかった。
しかし、公爵家に保護してもらえるなら。身の安全を心配することはないかもしれない。
「もちろん、お母君にはこちらから連絡いたします。お嬢様はこちらで引き取ること、そして今まで育ててくださった謝礼として、十分な金銭を」
「ダメ!」
それは、反射的な叫びだった。
母に知られてはいけない。ここにいることが知られれば、連れ戻されてしまう。
「あ……っ」
しかし、次には、ここが貴族の前であることを思いだす。
この立派な身なりの燕尾服も、きっとただの平民ではない。
「ごめんなさい……っ」
慌ててその場に膝をついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
怒らせてはいけなかったのに。貴族の言葉を否定するなんて。
「お嬢様」
「ごめんなさい!」
「お顔をあげてください、お嬢様。私は、あなた様に頭を下げていただくような身分ではございません」
わからない。何を言われているのかわからない。
「大丈夫ですよ」
しかし、その言葉はわかった。
ゆっくりと顔を上げる。涙で歪む視界に、柔らかく微笑む初老の男性の姿が映った。
「お母さんには……言わないで……」
もう二度と、あんな生活には戻りたくない。
「承知いたしました」
初老の男性は笑顔で頷いた。
「この公爵家は、あなた様が安心して過ごせる場となるでしょう。公爵様のご提案を受け入れていただけますか?」
そう言われて、そっと視線を動かす。相変わらず厳しい顔で、その思惑が読めない。
どうして私生児を養女になんてするのか。わからないが、きっと悪い人ではない、ということだけはわかる。
この際利用してやろう。たったひとつ。この秘密さえ隠せれば。きっとうまくいく。
「……はい」
彼女は静かに頷いた。
昼餐に参加するように言われた。貴族としてのマナーも礼儀も何もないのに。
呼ばれたメイドたちによってお風呂に入れられ、もみくちゃにされる。
ただ不思議なのは、誰も彼女を否定しないこと。
私生児だということを知らないのだろうか。それとも、公爵家の教育が行き届いているのだろうか。
オリビアを綺麗に着飾らせながら、メイドたちはお喋りしながら教えてくれた。
コープランド公爵家は、大きな騎士団を持っていること。その中には諜報部門という、王家の近衛騎士団も持たない部門を持っていること。
そして、公爵やその家族の人柄。
公爵は己を厳しく律する人だが、人情味のある人。だからこそ、公爵家には忠誠心に厚い使用人が多いこと。
公爵夫人は既に亡く、今は小公爵を始めとする4人の子どもがいるということ。
嫡男である小公爵、気位が高く自分にも他人にも厳しい長女。騎士を目指す次男に、誰にでも優しいおっとりとした次女。
オリビアの兄妹になるのだと言われたが、それはまだピンとこなかった。
そうしている間に、ドレスを着せられ、装飾品を身につけられて。
彼女は大きな鏡の前に立たされた。
「お綺麗ですわ、お嬢様」
メイドのひとりが微笑む。
こんな曇りのない鏡なんて初めて見た。水面よりもはっきりと自分の姿が見える。
くすんでいた灰色の髪は綺麗に洗われ梳かれて、キラキラと輝くシルバーに。
いつも泥で汚れていた肌は、ぴったり張りのある白肌に。
そして、カサカサで乾燥していた色の悪い唇は、赤く紅を引かれて。
キラキラ輝くドレスを身につければ、目の前の鏡に映るのは、まるでどこかの国のお姫様。
しかし、光のない紫色の瞳が目に入った瞬間。現実に引き戻された。
どんなに着飾ったところで、卑しい育ちの私生児に変わりはない。
公爵家の片隅で、小さく、平凡に、生活していければいい。
「では、ご案内いたしますね」
昼餐の会場であるダイニングまで、メイドが案内してくれる。
ふわりと膨らんだスカートの裾を何度も踏みそうになりながら、なんとか廊下を歩いた。
廊下の先、厳重な扉の前に立つ。ゆっくりと開けられたその先には。
中央にどかんと置かれた大きな机。そしてその周囲を囲む高級感ある椅子たち。
まず中央に座るのが、先ほども会った公爵。相変わらず威厳溢れる姿が怖い。
そして、彼を挟むように、右側が男性、左側が女性と別れて座るのが、きっと公爵の子どもたち。
こんな時のマナーなんてわからない。どうしていいかわからず、無意識に裾を両手で握った。
「お嬢様、こちらに」
メイドのひとりが、女性側の席の末席へ案内してくれた。
公爵の子どもたちは、誰一人としてオリビアに目を向けていない。だから動けた。
しかし、それはどこか冷たい空気でもあって。息を殺しながら、じっと固まる。
「次女として引き取ることにした」
ビクリと肩が跳ねた。公爵の低い声は、突然のものだったから。
「わかりました」
それに答えるのは、上座に座る若い青年。おそらく小公爵だ。
「納得できませんわ」
その前に座る女性の声は冷たい。
「外でお作りになった子どもでしょう。外でお育てになればよろしいのでは?」
「姉上の仰る通りです。わざわざ引き取って育てるメリットがあるようには思えませんが」
下座側の男性がそれに同意する。
大丈夫。貴族の中に平民が、それも私生児がいて、この程度のそしりで済むならいい方。
「お姉さまもデイビッド兄様も、お父様のお気持ちは考えられないのでしょうか?」
オリビアの隣に座っていた少女は、呆れるようにつぶやく。
「お父様が決められて、アンドリュー兄様がそれに反対なさらないなら、グレースは従いますわ」
おっとりとした口調に、小公爵が微笑む。
「グレースはいい子だね」
そう褒められて、少女は嬉しそうに笑った。
「カミラ、デイビッド。父上の決定は絶対だよ」
これには文句を言っていた2人も口をつぐんだ。
わかっていた。素直に歓迎されるはずがないと。
その日の昼餐の時間、オリビアは指一本たりとも動かせなかった。