生きるために逃げた
たくさんの乗客たちが身を寄せあう大きな馬車の中。
隙間から吹き込む風に、両手をこすりあわせる。それで温かくなるわけでもないのに。
ただ、そうすることで、あの懐かしい温もりを思い出した。
『大丈夫』
この手を握り、そう励ましてくれた優しい声は、もうない。
『いつか必ず迎えにいくから』
そう約束した。その約束が果たされる日まで、なんとか生きていなければ。
不規則な馬車の揺れは、容赦なく身体を揺らし、隣の人と何度となくぶつかる。
迷惑をかけないように。怒られないように。小さな身体を小さくする。
たったひとり、生まれ育った村を出て。追手が来ていないか、気づかれていないか、不安だった。
一緒に暮らす母と養父がお酒に酔って寝ている間に家を出てきた。
昼も夜も関係なくお酒に入り浸る両親の目を欺くのは簡単だった。
しかし、気づかれれば、きっと怒る。容赦なく手や足が飛んでくる。それだけで済めばいい。
だから、もう戻らない。たとえ彼に会えなくても。
新しい場所で生きていく。そう決めた。
そのために、この旅で最初に向かう場所を決めた。
馬車の揺れが止まり、人々の流れに乗って馬車を降りる。
大都会だ。今まで暮らしていた田舎とは大違い。
小さな家が転々と並んでいるわけでも、広い畑が広がっているわけでもない。
いろんな建物が隙間なく並び、綺麗に整備された道を、たくさんの人々が足早に行き交う。
今までとの違いに圧倒される彼女は、それでも、と唇を噛んだ。
巨大な鉄の門。見上げるだけで威圧される。門の前に立つ騎士たちが怖い。
それでも、母の前にいるよりずっとマシだった。
くすんだ灰色の髪は、輝きもなく。この国の平民では、当たり前の生活レベルだ。
髪が輝く、なんて表現は、貴族でなければ使わない。
ハイライトの消えた暗い瞳に強い光を宿し、ようやく一歩踏み出した。
「何者だ」
門に近づくだけで、騎士が剣に手を置く。
彼女は、麻布袋の中から小さな便箋を取り出した。
「このお手紙を、公爵様に」
冷たく冷えた手で差し出したそれを、騎士が受け取り、裏表と見る。
「待っていろ」
冬が近づき始めた寒空の下、彼女は黙って頷いた。
それから間もなく、大きなお屋敷の一室に通された。
そこは、綺麗な調度品に囲まれた豪華な部屋。しかし、周りを見る余裕なんてなかった。
目の前には、威厳に満ち溢れた男性。がっしりとした体格、キラキラ輝く銀髪。そして、厳しい顔つき。
この人物が、自分の半身の元。会ったことのない、父親という存在。
かつて水面に映し出されて見た自分の顔と照らし合わせても、似ているかどうかわからない。
ただじっと黙って、息を殺すことしかできない。
ここさえ突破できれば、あとは大丈夫。これが最大の関門だ。
「……これは」
ようやく聞こえてきた声は、地面から響くほど低かった。
「事実か」
「は、い」
震える声に、気力を振り絞って冷静を装う。しかしそれは、あまりにも頼りなくて。
「母が慰謝料を要求していたと聞きました。まだ払われていないことも知っています」
大貴族であるこの人の子どもを身籠った母は、何かと理由をつけて慰謝料と養育費を要求していた。
しかし、この人はそれを拒み続けているという。
それは、小さい頃から、母に聞かされていた。『あんたの父親はろくでなしだ』と。
まさかその人がここまでの大貴族だとは思わなかったが、利用しない手はない。
こういうところが母に似ていると実感して、不快だった。
しかし、生きていくためにはそれもこらえる。
「君が、私の娘だと?」
「……はい」
信じてもらえるだろうか。彼女自身、半信半疑なのに。
自分がこんなに立派な人の娘だなんて。今までの生活から考えても、絶対に信じられない。
しかし、これは生きていくため。
「母に聞きました。14年分の養育費をください」
母からの言葉しか証拠がない。それは、あまりにも頼りなくて。
どうか、どうか。母の嘘に、気づかれませんように。
「母親から、養育費を取ってくるように言われたのか」
「……はい」
これは、彼女自身の嘘だった。
母に、ここに来ることは言っていない。何も言わずに出てきたのだから。
彼女の返事を聞いた彼は、すっと立ち上がった。
暴力が飛んでくる。はっと身構えた彼女は、何よりも先にお腹を庇った。
しかし、そんな衝撃はいつまで経っても来ず。
彼は扉の近くに立っていた燕尾服に告げる。
「明日、神官を呼べ。親子鑑定を依頼する、と」
「畏まりました」
主人からの言葉に、燕尾服は静かに答えた。
男が出て行き、代わりに燕尾服が近づいてくる。
「客間にご案内いたします」
深い青に白髪が混じり始めた初老の燕尾服の男性に言われ、彼女は戸惑いながらソファから立ち上がった。
コープランド公爵家。といえば、この国で一番の大貴族。
王家に近しい家柄であり、唯一公的に騎士団を持つことが許されている貴族。
そんな家の当主である、オースティン・コープランド公爵が自分の父親だと知った時には、さすがに驚いた。
まさか、と思った。この国一番の大貴族と、田舎の片隅で畑を耕す母。共通点なんてないに等しい。
物心ついた時から一緒に暮らしていた男が、父親じゃなかったことを、初めて知った。
でも、なるほど、と納得した。
彼女が知る父親というのは、優しくて、おおらかで。我が子を傷つけるような人物ではない。
だから、義父からの暴力は、愛のあるしつけではなくただの暴力なのだと知った。
そして今、生きるために、その家を飛び出した。