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太陽野郎  作者: 成沢光義
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「逃げない、めげない、つるまない」

「逃げない、めげない、つるまない」、草薙稔彦一七歳の闘いの日々です。


いきなり店の中へなだれ込んできた三人の男たちが、厨房で料理の仕込みをしていた梢の腕を引っ張って客間へ連れ出した。右腕にジョーカーのタトゥーをつけた男が、梢の顎を鷲掴みすると顔の下から舐め上げるように睨みつけ、一月前に蒸発した夫の居場所を聞き出している。返答に困った梢が首を左右に振って拒否すると、怒った男は梢の胸を突き飛ばして怒鳴りだした。その様子を学校帰りの厨房の奥から覗き見していた少年が、床に尻もちをついた母親の元へ走り寄り、突き飛ばした相手の男を睨んだ。

「ふん、生意気にガン飛ばしやがる。オヤジに似て目つきが悪いガキだぜ。おい、ケガしたくなかったらすっこんでろ」

店内の喧騒に気づいた近所の住人たちがドアの外へ集まって騒ぎだした。ジョーカーの背後にいた坊主頭がドアを振り向いて舌打ちすると、

「兄貴、野次馬がきやがった、マッポに通報されたらやべぇぜ」

「しょうがねえ、今日は帰るぞ。おい、あんた、また来るから旦那の居場所を探しとけ」

そう言い捨てると三人は、外の人だかりを蹴散らし逃げ出した。その後ろ姿追いかけてドアの外へでた少年は、慌てて車に乗り込んで走り去ってゆく残像をいつまでも睨んでいた。



久里浜線の津久井浜駅の西北に一座の小高い山があり、明治初期に開拓された山頂の平地に赤レンガ造りの神奈川県立太子堂高校がある。文武両方に長じた男女共学校で、国立大学をはじめ難関私立大学に多くの卒業生が進学しており、部活動では柔道、剣道を筆頭にバレーボールやバスケットボールなど多数の運動部がインターハイや国体で上位入賞の成績を残してきた。


その年の四月、新入学生として登校した草薙稔彦はHRが終わるとそのまま帰宅せず、校庭の隅にある枯れた芝生に座り、持参した握り飯を食べながらサッカー部の練習風景を眺めた。その隣のグランドでは野球部員が守備の練習を行っており、監督が打つ金属バットの甲高い音が鳴り響くと、大きな掛け声を発した部員たちが前後左右に走り回っている。その光景をダイヤモンドの外側から遠巻きに見学している多くの新入生たちがいた。

稔彦は握り飯を食べ終わると立ち上がってズボンについた芝の葉を払い落し、足下のスポーツバックを肩に担いで第二校舎の西側にある屋根も外壁も板壁作りの柔道場へ向かった。玄関の分厚く重い扉を開けると二〇〇畳はありそうな畳敷きの広間があり、手前で数名の柔道部員が乱取り稽古を行っている。

稔彦はさらに奥へ視線を向けた。柔道場の奥の狭い角隅に天井からサンドバックが一本吊り下がっていて、二人の男が交互にパンチやキックを繰り返している。玄関先で靴をぬいで畳に上がり、その場で一礼すると柔道部員には目もくれず奥の二人へ向かっていった。

壁際で立ち止まってサンドバックを叩く男たちの動きを注視しながら、自分と同じ高校生でありながらプロのキックボクサーを凌ぐほどのパワーとスピード、そしてその音に驚いた。

間もなく、短髪で日焼けした精悍な顔つきの男が途中で動きを止めると稔彦を振り向き、要件を訊ねてきた。稔彦は一歩前へ出て一礼した後に、簡単な自己紹介と入部希望を申し出た。男は五代目主将の鬼頭三郎と名乗り、隣の男は二年生の梶川大悟だと紹介した。

「知っているとは思うが、うちは来るもの拒まず、去る者追わずだから好きにしていいよ。それからまだ学校側から正式な部活動として認められておらず、創部以来、愛好会としてここを間借りしているんだ。部費はないから空手着は自前で準備してくれ。このサンドバックもあのベンチプレスも全部OBたちからの差し入れだ」

「おす。空手着は自分で用意してきました」

稔彦は中学三年生の時に町道場で茶帯を取得していたが、今日は遠慮して以前に使っていた白帯を持参した。

「そいつは上等だ。それから帯は何色を締めても構わないよ。自由だ。前に中学で初段をとったやつが入部して黒帯を締めて来たが、翌日から来なくなった。稽古時間は決めていないから、授業が終わったらいつ来てもいいし、土日でも構わないが、玄関の鍵は管理人さんに借りてくれ。先に来たら自主トレをやっていて構わない、その内に俺か大悟のどちらかが必ず来るから待っていろ。部員は他に三年が二名、二年が三名いるが当てにならないやつばかりだ。一年は今のところ草薙、おまえ一人だ。ところで家は遠いのか」

「隣の三浦海岸です」

「なら電車通だな。一駅だし、まあ何とか帰宅はできるだろう」

この時稔彦は、鬼頭三郎が言った言葉の意味を理解できず、簡単に受け流した。今日から稽古に参加することになり、空手愛好会は部室がないと言うので柔道場の隅で着替えた。


鬼頭三郎を前に、梶川大悟と稔彦が横に並んで稽古が始まった。

稽古は、柔軟体操から突き、蹴り、受けの基本稽古、パワーをつけるための筋力補強運動、最後に組手稽古が大方の流れで、稔彦は町道場の稽古より単純な内容だと思った。稽古を始めてみたら、基本稽古の段階から町道場のそれとはやり方がまったく異なることに驚き、同じ技を繰り返す回数とその烈しさに圧倒された。

突き技の基本稽古は、最初は正拳中段突きから始めるのが一般的だが、ここでは正拳顎打ちから始まり、裏拳顔面打ち、顔面貫き手突き、肘落としが主流だ。また、基本稽古の後で行う筋力補強運動も尋常ではなかった。拳による拳立て伏せを五〇〇回、次いで五本指の指立て伏せを一〇〇回、この後四本指、三本指、二本指、最後は親指だけをそれぞれ五〇回ずつ行う。腹筋五〇〇回、スクワットにいたっては一〇〇〇回。この日稔彦は最後までついてゆけず、スクワットの途中で膝をついてしまった。

基本稽古が一通り終わると、五分間の休憩を挟んで組手稽古が始まった。鬼頭三郎が自由組手の相手をすることになり、稔彦は、好きなようにどこでも構わないから攻めてこいと言われ、全力で右の正拳突きを鬼頭三郎の分厚い胸板へ打ち込んだ。入ったと思った瞬間、稔彦の拳がはね返され、驚いて動きを止めた直後に強烈が前蹴りを腹に喰らってふっ飛んだ。稔彦は背中から壁板にぶち当たり、意識が遠のいた。気がつくと視界の先で鬼頭三郎と梶川大吾が組手稽古を行っており、立ち上がった稔彦をみた鬼頭三郎が再び声をかけてきた。

稔彦はふらつきながらも前蹴りを繰り出し、次いで右肘で鬼頭三郎の鎖骨を攻めた。次の瞬間右顎下に強烈な左上段廻し蹴りを浴び、そのまま畳の上に横倒しに卒倒した。こうして稔彦が意識を回復する間、鬼頭三郎と梶川大吾が組手稽古を始め、稔彦が目を覚ますと再び稔彦との組手稽古が繰り返された。


初日の稽古が終了した頃にはすっかり陽も暮れ、殴られ蹴られて熱く火照った身体でどうにか着替えを済ませると、地を這うようにして津久井浜駅へ向かっていった。柔道場を出る時に背後から鬼頭三郎の声がしたが、何を言ったのか判らなかった。道の途中で身体が勝手に左右にぶれ、よたよた歩く稔彦を心配した部活帰りの上級生たちが声をかけてきたが、稔彦はただ苦笑いを返すことしかできなかった。生まれて初めて死ぬような思いを味わったが、なぜか心の中に清々し感情が湧いていた。

津久井浜駅から電車に乗ると海側のドアに寄りかかって暗く移ろう窓外を眺めていたら、電車を追いかけるようにして後方から数一〇台の単車の爆音が近づいてきた。間もなく爆音は電車を追い越し、壊れたラッパ音をけたたましく鳴らしながら海岸通りを南下していった。



三浦海岸駅前通りの海寄りに稔彦の実家があり、母梢が女手一つで食事処を賄っていた。店は年中無休で夜は客が帰るまで暖簾を掛けたままにしており、稔彦は小学生の頃から料理運びと皿洗い、そしてレジ会計を手伝ってきた。父親の草薙東吾は、稔彦が八歳の時に家に帰らなくなり、生活に困窮した梢は知り合いが経営していた今の店と家屋を安値で譲り受け、どうにか稔彦を県立高校へ進学させることができた。

稔彦は父親がいなくなってから店を手伝うようになったが、当時は人相の良くない大人たちが店にやってきては梢に父親の居場所を脅すように訊いていた。子供の稔彦には何もできなかったが、強くなって母親を守ってやりたいと言った願望はこの頃から生じていた。

稔彦は小学校の時から父親に嫌われていると思っている。父親は稔彦と公園でキャッチボールをしたり、遊園地へ連れていったり、そして一緒に風呂に入ることさえ一度もなかった。いつも朝早くに出かけ深夜に帰宅する毎日で、時々大けがをして病院や警察から連絡を受けた梢を心配させた。


店はカウンター席が八席、カウンターの手前に四人掛けテーブルが二席あるだけの手狭な店内だが、町内会理事たちの懇談の場として、また海水浴シーズンには東京から来る客を筆頭に、他県から大勢の海水浴客たちが、また最近では海外からの来客も増えて何とかやりくりはできていた。

その日は客足が少なかったので夜一一時に暖簾を下げ、稔彦は店内の掃除と収支をパソコンに入力してから風呂に入った。湯に浸かりながら、凝り固まった筋肉のマッサージを始めたら強烈な痛みが走って思わず顔を顰めた。見ると腕や胸に打撲による青あざがいくつも浮かんでおり、梢がみたら心配するだろうと思って当分の間は裸で歩くのは止めることにした。


店の奥に梢用の八畳部屋があり、二階の六畳二部屋の南側を稔彦が使っている。ベッドの上で寛ぎながらスマホをつけたら、中学の同窓生だった加藤圭太からメールが入っていた。加藤圭太は三崎町の三島高校へ進学して別々になってしまったが、連絡は頻繁に取っていた。加藤圭太は、その先にある城ケ島が近いため暴走族が走り回りうるさくて迷惑だと嘆いていた。稔彦は帰りの電車を追い越して行った爆音を思い出したが、加藤圭太への返信にその事については書かなかった。

翌朝ベッドから起き上がったら全身に激痛が走り、立ち上がるまで少し時間がかかった。この時、入部した黒帯が翌日から来なくなったと笑って言った鬼頭三郎の言葉の意味を理解した。そして稔彦は、その日も授業が終わると第二校舎西側の柔道場へ向かっていった。



柔道場の玄関からやって来た稔彦の姿をみた鬼頭三郎と梶川大悟が破顔した。稔彦はサンドバックを背に立つ二人に挨拶すると柔道場の隅で空手着に着替え始めた。鬼頭三郎は稔彦の身体に生じた青あざを見たが何も言わなかった。そして当たり前のように、この日も昨日と同様に激烈な稽古が始まった。鬼頭三郎の稽古は、基本稽古も組手稽古も手加減がいっさいなかった。

三日目、基本稽古を始める前に鬼頭三郎が稔彦にベンチプレスのやり方を教えた。どんなに技が上達しても体力の勝る相手には勝てないと言いながら自分から実践してみせ、ベンチから起き上がると、

「目標は80kgだ。なあに毎日やればすぐクリアーできる。取りあえず50kgから始めようか。草薙、やってみろ」

最初は鬼頭三郎の手を借りながら50kgのプレートをつけたシャフトを持ち上げた。鬼頭三郎は稔彦が慣れてくると手を放し、一ラウンド一〇回を一〇ラウンド行うよう指示するとサンドバッグを叩き始めた。

空手愛好会に入部して一週間が過ぎても、鬼頭三郎と梶川大吾以外の部員が柔道場に現れることはなかった。二年生と三年生合わせて五名の部員が在席しているはずだった。疑問に思った稔彦はHRが始まる前に、同じ六組で柔道部に所属する水上智也に相談した。水上智也とは中学校は違っていたが、毎日同じ柔道場で稽古を行っているから気が合った。

智也は翌日の六時間目の授業が終わるとまだ窓際の席にいる稔彦に近づき、これは先輩から聞いた話だと断ってから口を開いた。

「みんな噂を聞いて入部するんだけど、二日目から来なくなるそうだ。過去には厳しい組手でケガしたやつの親が学校側へ抗議しにやってきたことも一度や二度ではないらしい」

稔彦はその話を聞いて、これまでの自分と照らし合わせ、それはそうだろうと納得して話の続きに耳を傾けた。

「先輩が言うには、稽古が辛くてやめるやつはまだ正直でいいんだが、名前だけ残したまま稽古に来ない幽霊部員が疎ましいと」

「なんで退部しないの」

「愛好会にいるだけでイジメに合わずに済むからだってさ」

「なんで」

「稔彦、おまえ愛好会の部員なのに知らないのかよ。それだけ歴代の主将たちの武勇伝が有名なんだよ。特に愛好会を創部した初代の主将さんは魔人みたいな人らしいよ。あ、稽古の時間だ。遅れたら怒られる。稔彦、おまえよく続いているよなあ、柔道部の先輩が感心していたぜ」

稔彦は苦笑いすると水上智也に礼を述べ、それからスポーツバックを肩に担いで一緒に柔道場へ向かった。


一〇日目になると70kgをクリアーできて、そのスピードの速さに鬼頭三郎たちも驚いた。その日、稔彦は初めて梶川大悟と組手稽古を行うことになった。高校へ上がってから身長は5cm伸びて現在178cmになった。梶川大悟も身長は稔彦とほとんど同じだが、長身で水泳選手のような鬼頭三郎に比べて肩幅が広くずんぐりした体型をしている。闘い方も違っていた。鬼頭三郎は華麗な足技を得意とするが、梶川大吾は低い姿勢から繰り出す砲弾のような重い正拳突きで稔彦を苦しめた。そんな稔彦を、まだ乱取りの途中なのに、智也が心配そうな顔で垣間見ている。この頃になると稔彦は、愛好会の稽古に身体が充分に慣れてきて苛烈な稽古にもついていけるようになっていた。


ハプニングが起こったのはそれから二日後の金曜日だった。

HRが長引いて稔彦が遅れて柔道場へ上がると、サンドバックの前で鬼頭三郎が初対面の男と立ち話をしており、隣で緊張顔の梶川大悟が男を睨みつけている。。稔彦は二人に向かって挨拶したが、異様なほど緊迫した空気が漂っており、そのまま角隅で着替えて三人とは少し離れた場所に立って様子を覗った。この時、梶川大悟が鬼頭三郎に自分がやると言い出し、それを制した鬼頭三郎は相手の男とルールについて話し始めた。倉田と名乗るその男は、黒のTシャツに太目の黒いトレーニングパンツで両手の拳にテーピングを巻いており、そのテーピングも黒だ。

目、喉、金的への攻撃以外はすべてOKとしたルールで試合が始まった。

上半身を前屈みに、開いた左手を上段へ、右拳で右顎をガードする勇壮な構えで相対する鬼頭三郎。倉田は両手の拳を頭の上へ持ち上げ、蟹股歩行のような格好で左右の膝を入れ替わりに上下させながら間合いを詰めていく。

稔彦の隣で梶川大悟が囁くような声で言った。

「あれはムエタイのワニ歩きってやつだ。パンチより先にハイキックが来るぞ」

稔彦が見ると、二〇秒ほど睨み合った直後、倉田はまだ遠い間合いから、鞭のようにしなる左のハイキックを蹴り上げ、透かさず右ハイキックに切り替えた。この時鬼頭三郎は、倉田の右足の脛を左肘で打ち返し、激痛で一瞬動きの止まった倉田の右顎へ素早い左上段廻し蹴りをぶち込んだ。

肉と肉がぶつかり合う鈍い音が響き、倉田が膝から崩れ落ちた。この時、遠目で見学していた柔道部員たちから大きなどよめきが起こり、その中に一瞬の出来事で口を開いたままフリーズしている智也の姿もあった。

「大吾、倉田さんをあっちの隅で寝かせておけ。草薙、タオルを水で冷やして首に巻いてやれ。時間がもったいないから稽古を始めるぞ」


翌朝稔彦が登校すると、興奮気味に顔を紅潮させた智也がやって来て、昨日の道場破りの件について話題を切り出した。その場にいた柔道部の三年生の言うことには、道場破りは今回が初めてではなく、過去に何度も同じような挑戦者がやって来ては玉砕され帰っていったとのことだ。骨折して歩けなくなった者もおり、当時の主将が救急車を呼んで学校中が大騒ぎになったこともあった。

「それより稔彦、ヤクザの殴り込みじゃあるまいし、高校生の部活にわざわざ乗り込んでくる大人がいること自体が間違っていると思わないか」

「前に智也が言ったように、それだけ愛好会の武勇伝が有名ってことなんだろう」

「確かに。でもさあ、鬼頭先輩が卒業してもまだ梶川先輩がいるから安心だけど、その次は稔彦、おまえの番だぞ」

「あ、そうだ忘れていた。そうなったらまじでヤバいな」

稔彦が眉を顰めて智也の顔をみた時、朝のHRが始まるチャイムが鳴り担任の三村教師が教室へ入ってきた。



稔彦は、五月の誕生日を迎えるとすぐ一発試験で普通自動二輪の免許を取り、店の手伝いで貯めた金で中古の単車を購入した。単車のもっぱらの用途は店で使う食材の買い出しに出かけることだった。このため購入代で不足した分を梢が負担し、店の経費から落とすよう顧問の税理士に依頼した。稔彦は、学校が休みの日でも柔道場で自主トレを始めていたから、買い出し以外に乗り回す余裕はなかった。


日曜日の夕方、店の開店と同時に町内会の役員たちが集まり、夏本番を迎える前に、七月上旬に海開きする海水浴場の治安をいかに死守するかの取り決めを議題に飲み始めていた。午後七時には近所の家族連れが来店してテーブル二席が埋まり、その後から海岸へ遊びにきた若いカップルがテーブル席に座ると稔彦も忙しくなった。

梢は、カウンター奥の厨房で、時々料理を拵える手を止めて稔彦の仕事ぶりを眺め、いつまでも店の手伝いをさせておくわけにはいかないなと思った。やはりもう一人アルバイトを雇う時期にきたのではないかと考え、その分稔彦にはもっと勉強に集中して貰いたかった。

その夜、加藤圭太からメールがあった。油壷を拠点に躍動する「紫煙」の動きが活発になり、近々三崎街道を南下して215号線を東へ上るルートを走るようだから海岸通りがやかましくなると言ってきた。

稔彦は、加藤圭太がなぜ「紫煙」の動きをそんなに気にするのか判らなかったが、三崎町の高校で騒音に悩まされていたから頭にきたのだろうと単純にそう考えた。電車を追い越していった爆音の正体が油壷の「紫煙」であることは間違いないが、再び海岸通りに騒音をまき散らしにやって来たとしても、稔彦一人ではどうする事もできなかった。


入学してから一月が過ぎ、クラスの中で気の合う者同士がグループを作ってつるむようになった。稔彦は、同じ柔道場で汗を流す智也には心を開いたが、他の生徒には興味がなかった。小学生の頃から店の手伝いを通して大人たちとの接触が多かったので、同じ年代の生徒たちを幼く感じていたこともあったが、父親が突然蒸発したと言うトラウマが稔彦を安寧な環境から遠ざけていた。

クラスの生徒に対して距離を置く稔彦の態度を心良く思わない生徒たちもいたが、空手愛好会の噂を聞いて尻込み、直接手をだす生徒はいなかった。それでもからかい半分にちょっかいを出してくる者もいた。

休み時間に稔彦が窓際の席でぼんやり外の景色を眺めていたら、教室の奥から突然何かが急回転しながら飛んできた。咄嗟に反応した成彦は右手で払うように受け止め、飛来物を確認してみると刃のでたカッターナイフだった。稔彦はカッターナイフの柄の部分を掴んだのでケガはなかったが、教室の中を見回しても誰が投げたか判らなかった。その日を境にこの事件は毎日続き、稔彦はその度簡単に受け止めてやり過ごし大事にはしなかった。

ある日、その場に出くわした智也が憤慨してクラスの生徒に抗議した。誰も机の上に視線を落として無視したが、奥の席から数名の薄ら笑いが聞こえてきた。そっちへ向かって行こうとしたら稔彦に腕を引かれ、振り向いたら首を左右に振りながら笑顔で拒否していた。

「稔彦、やる時やらないとつけ上がるぞ。今のおまえなら誰にも負けないのに」

この時智也は、稔彦の弱者に対する優しさだろうと単純に考えたが、稔彦は不意の攻撃に対応するための反射神経を鍛える良い機会だと考え楽しんでいた。可能ならカッターナイフ一本ではなく、二三本を同時に投げて欲しいくらいだ。


五月下旬に中間考査が三日間続き、学校側からの指示でこの期間中の部活動は禁止されている。稔彦は、中間考査の初日から柔道場で自主トレーニングを始めた。さすがに柔道部員は一人もいない。

ベンチプレスで80kgをクリアーして夏までには100kgを上げたいと願っている。当初は苦痛に感じていたベンチプレスだったが、今では持ち上げる度に腹の底から歓喜が湧き起っていた。体重測定はしていないが、身体中の筋肉が以前より数倍も厚くなったような気がして、全身に強大なパワーがみなぎっているような感覚があった。

稔彦がベンチに寝ながらシャフトを持ち上げようとしたら、玄関先から声がして起き上がって見たら鬼頭三郎が満面の笑みを携えて近づいてきた。

「なんだ草薙、来たのか。考査中の部活は禁止だぞ」

「おす。うちは愛好会ですからい一般の部活とは違うと思いまして」

それを聞いた鬼頭三郎は、柔道場の天井を見上げ大声で笑いだした。

「あはは、この俺と同じ屁理屈を考えるやつがいたとはな。草薙、おもしろいやつだよ、おまえは」

「でも鬼頭先輩はこれから入試考査とかあって、稽古をしている場合ではないのではないですか」

「三年は毎年夏休みの前までが、表向きでは現役最後になる。そこで二年に主将を譲ることになっている。もちろん次は大悟に決まっているが、俺はおまえの代が心配だよ。今年はまだ草薙、おまえ一人しか入部していないからな。ただうちは初代主将の取り決めで、来る者拒まず、去る者追わずだから、無理やり引っ張ってくるわけにもいかない」

この時柔道場の玄関が開く音がして、稔彦は鬼頭三郎と一緒にそっちへ顔を向けた。

「お、もう一人屁理屈野郎がやって来たぞ」

長い間使い古したスポーツバックを右手に下げた梶川大悟が、照れくさそうな笑みを浮かべながら向かってきた。先に稔彦が梶川大悟に挨拶すると、梶川大悟は鬼頭三郎に、中間考査の出来が悪かったことに口をへの字に曲げて嘆いた。

鬼頭三郎は空手着に着替えると梶川大悟と一緒にウオーミングアップを始め、稔彦は中断していたベンチプレスを再開した。

それから三日間の中間考査が終了すると各主力運動部は夏のインターハイに向けて本格的に動きだし、柔道場でも柔道部員たちがいつになく活気づいていた。



関東地方は例年より一〇日遅れて梅雨入りした。

湿気に伴って気温が上昇し、店の食材の保存期間が早まるため稔彦の買い出しへ行く回数が増えた。四輪と違って積載容量が少ないから、店と近隣スーパーの間を何度も往復しなければならなかった。

この日、知り合いの家族連れから急な予約が入った。新鮮な鮪の刺身を食べたいと注文があり、近隣のスーパーへ向かったが望むネタが不足していたので、梢の指図で三崎漁港の直売店まで単車を走らせた。三浦海岸から三崎漁港までは国道134号線から引橋の三叉路を南下して県道26号線に乗るルートが早かった。雨は小雨だったが、加速すると小粒の雨滴がフルフェイスのシールドに音をたてて直撃した。

品物を買いそろえ、さっき来た26号線を北上して油つぼ入口の三叉路で信号待ちをしていると、信号が青に変わった瞬間いきなり右側からピンクの弾丸が走り抜けていった。見るとフルフェイスもジャケットも単車のボディもピンク一色で、後ろ髪をなびかせながら216号線を油壷方面へ消えていった。稔彦はしばらくの間そいつの残像を呆然と眺めていたら、いきなり後ろからクラクションを鳴らされ慌ててアクセルを絞った。


その夜、予約の家族連れで賑わう梢の店に、行方知れずになっている草薙東吾の幼馴染の神谷徹が娘の藍を伴って現れた。神谷徹はドア寄りのカウンター席に腰をおろすと、挨拶をしに厨房から出てきた梢の顔をしみじみ眺めて目に泪を滲ませ、「久しぶりだね」と温和な声で言った。梢は左手で口を押さえ少しの間返す言葉を失った。神谷徹の隣で娘の藍が挨拶すると我に返り、一〇年ぶりだと言って目に泪を浮かべた。神谷徹は、草薙東吾がいなくなってから何かにつけ梢親子の面倒をみてくれた恩人でもあった。

梢は、かつて世話になった礼を改め述べ、それから隣の藍に顔を向けると肩に抱きついて満面の笑みを浮かべた。

「藍ちゃん、大きくなったわねえ、綺麗になって、もうお姫様みたいよ」

藍は照れて俯いたが、神谷徹はテーブルを叩いてお姫様は言い過ぎだよと大声で笑いだした。

「姫は姫でも、男勝りのやんちゃな姫様だよ。中学生の時からバスケを始めて、高校では県大会の決勝まで勝ち上がったんだがアクシデントがあって負けてしまったんだ」

「あら、アクシデントだなんて」

「右のアキレス腱を切ってしまったんだよ。今は完治して後輩の指導をしている」

この時、家族連れから追加の注文が入り、梢は神谷徹と藍にゆっくりしていって下さいねと声をかけ、厨房へ戻っていった。

稔彦は、神谷徹の注文の冷酒を差し出し、藍にはジンジャエールの小瓶と氷を入れたグラスを置いた。藍が稔彦の顔を見上げて微笑んだ。

「稔彦くん、ボクを覚えている」

この時稔彦は、神谷藍が女の自分をボクと呼んだことに違和感を覚え、何も応えなかった。

横から神谷徹が口を挟んだ。

「覚えてはいないだろうな、藍が小学校の二年生で、確か稔彦君は二歳下だからまだ幼稚園生だ」

稔彦は神谷徹に向かって頷いたが、なぜだか藍の顔を見ることを躊躇してしまった。神谷徹は、当時の稔彦が保育園も幼稚園にも通っていなかった事情を思い出し、話題を切り替えた。

この時ドア開いて、男が二人ってきた。短髪を茶色に染めた男と、オールバックでサングラスをかけた男が店内に入るなり勝手にカウンターの奥に座り、壁に貼られたメニュー表を眺めて笑い出した。食事処だから身につく食事のメニューと手作りのお惣菜、アルコール類は日本酒とワイン、焼酎そして生ビールがメインで、若者が好むような酎ハイやカクテルなどはいっさい置いていない。稔彦がおしぼりを二人の手元においた時、二人の男の身体から、冷たい寒風の吹く街を長い間走り回ってきたような荒んだ臭いがした。

茶髪が生ビールを、サングラスはいきなり焼酎のロックを注文した。酒が届くと二人は額を寄せ合わせながら小声で話し始めた。

それから一〇分ほど経つと食事を終えた家族連れの兄弟がスマホでゲームをやり始め、興奮して騒ぎ始めた。

母親が静かにするよう兄弟を何度も窘めたが、スマホの取り合いに夢中でいっこうに聞く耳を持たない。四〇代前後のサラリーマン風の父親は子供たちの世話を妻に任せきりで、他人事みたいに黙然と生ビールを飲んでいる。

いきなりスマホを奪い取った弟の胸を怒った兄が力強く押した。この時後ろへ弾き飛ばされた弟の背中が、これから生ビールを飲もうとして右手でジョッキを持ち上げ口につけた茶髪の背中に当たってビールがこぼれ落ちた。怒った茶髪はジョッキを力強くテーブルに叩きつけると後ろを振り向いて怒鳴り散らした。

「このくそガキが、さっきからやかましいんだよ」

思いも寄らない茶髪の剣幕に圧倒され、兄は茫然と立ち竦み弟は泣きだした。母親が慌てて謝ったが、茶髪は気が収まらないのか椅子から立ち上がって母親を睨みつけながら、

「やぼ用で東京から三浦海岸まで来てよ、今夜は連れと静かに飲もうと話していたのに壊しやがってどうしてくれんだよ」

母親は店のお代は立て替えるから勘弁して欲しいと何度も頭を下げながら許しを請うが、茶髪はそれでも振り上げた拳を下ろそうとはしない。

「あんたらの連絡先を教えてくれたら、今日はここで仕舞いにしてやるよ」

その台詞を聞いた母親の顔が一瞬青ざめた。父親はテーブル席に座ったまま落ち着かない様子で、妻と茶髪のやりとりを卑屈なほど顔を歪めながら見ている。

この時、店内の喧騒に気づいた梢が厨房から出てきて奥のテーブル席へ行こうとした。その梢を左手で制した神谷徹が腰を上げた時だった。神谷徹の横から床を滑るように通り過ぎていった稔彦が、母親と茶髪の間に分け入り、店のことは自分が仕切ると言いだした。その台詞を聞いた茶髪が顔を歪めて笑いだし、

「おめぇ、まだガキのくせによお、俺らを相手に仕切るだと。聞いたか慎二、笑っちまうぜ」

茶髪に慎二と呼ばれたサングラスが焼酎のロックを一口飲むと唇をへの字に曲げて言った。

「兄貴よお、こいつが仕切るって言うなら仕切って貰おうじゃん」

「そうだな、そうするぜ。おいガキ、どう仕切ってくれるんだよ」

稔彦は、ここでは他の客に迷惑だから外で話そうと持ちかけた。その言葉を聞いてにやけた薄ら笑いを浮かべた茶髪とサングラスが店の外へ出て行き、稔彦がその後をついていった。前を行く男の背中を眺めながら、風体の割には二人があまり喧嘩慣れしていないことに気づいた。稔彦を叩くつもりなら、先に茶髪が歩き、そして稔彦を挟んでサングラスが後ろにつくはずだった。二人が先に一緒に行くようでは、稔彦はいつでも逃げだせた。


店の外に出ると、稔彦はその先の路地を右に折れた小さな公園を指差した。稔彦を心配した神谷徹が再び立ち上がり、梢に向かって外の様子を見てくると言って入口のドアへ向かった。神谷徹がドアのノブに手をかけた時、ドアが開いて稔彦が現れた。

神谷徹は一瞬驚いてその場に立ち止まったが、稔彦の身体を目で確かめながらケガはないようだねと言ってため息をついだ。

「ところであの二人はどうしたんだい」

「突然、東京の用事を思い出したとか言って帰って行きました」

「そうか、それなら良かったよ。さあ中へ入ろう」

安堵した神谷徹は、藍の隣で心配そうに顔を向けている梢に頷いて見せ、それから稔彦の肩を押すとテーブル席へ戻っていった。家族連れの母親が稔彦に礼を述べ、神谷徹が娘の隣に腰を下ろして再び冷酒を口に含んだ時、遠くから近づいてくる救急車のサイレン音を聞いて顔を上げた。



七月に入り、梅雨の晴れ間に気温が上昇する日が数日続いた。三浦海岸海水浴場では初日の日曜日に海開きのイベントが催され、招待された近所の子供たちが曇り空の中をはしゃぎながら海へ駆け込んでいった。その光景を見守る町内会の役員たちも一安心したように目を綻ばせたが、これからの治安維持を考えるとすぐ気が重くなった。


空調設備設置工事が遅れている柔道場では、高温と湿気で蒸せるような暑さの中インターハイの県大会を控えた柔道部員たちが稽古に励んでいる。稔彦は、空手愛好会へ入部して三か月が経つが、常識を超越した苛烈な稽古を一日にも休んだことはなかった。組手稽古では、鬼頭三郎を相手に三分間、次いで梶川大悟と三分間、休みなしにまた鬼頭三郎を相手する日が続いた。その甲斐があり、稔彦の身体は日に日に打たれ強くなり、またベンチプレスの効果も加わって強靭な肉体に成長していた。

この頃稔彦は、外の世界で自分の実力を試したいとする願望が芽生えていた。愛好会と他の運動部との大きな違いは、愛好会には試合がないことだった。インターハイとか、甲子園とか耳にするだけで羨ましく思う。この稔彦が自分の実力を外で試したいと願う気持ちは、やがて暴力を含めた大きな闘争の渦の中へ引きずり込まれる運命を目覚めさせることになるが、それはまた暑すぎる夏と三浦海岸が持つ特有な土地環境のせいでもあった。


この日の部活帰り、久しぶりに智也と一緒に津久井浜駅まで向かった。予選が迫った先輩たちの意気込みを熱く語る水上智也に対して稔彦は、正直に羨ましい気持ちを話した。この時水上智也は駅の改札口で電車を待つ間、地元横須賀駅前で一年前に道場開きした仙道空手道場の名前を口にした。

「実は興味があって、四月に行われた道場見学に参加したんだ。僕が思うに、見た目の練習風景は愛好会と似ているような気がしたよ」

「へえ、うちと似ているのか」

「稔彦、そんなに他とやりたいのなら、体験入門者を募集していたから参加してみてはどうかな。ただで教えてくれるよ」

「体験か、いいかも。智也、ありがとう、考えておくよ」

「がんばれよ、あ、電車がきた、稔彦、また明日な」

「智也、またな」

先に上りの電車がやってくるアナウンスが流れると智也は、横須賀へ向かう上りホームへ走り出していった。

その夜、店の手伝いが終わり風呂からあがった稔彦は、自室に戻るとパソコンの電源を入れ、智也が話していた横須賀の仙道空手道場を検索してみた。

トップページにいきなり両腕を組んだ空手着姿の男が現れ、師範仙道明人と表示があり、画面を下へスクロールしていくと師範紹介や練習風景の画像、練習日程と共に体験入門生募集のキャッチが現れた。

仙道明人は、独立する以前は東京神田に本部道場を構える本流派空手に所属しており、最終の最高取得段位は四段。昨年、自分流の空手道のあり方を追求するため独立して横須賀にフルコンタクト制の仙道空手道場を開いた。まだ道場生は三〇名ほどで小中学生が中心だが、道場見学はいつでもOKで、年齢問わず体験入門を募集していた。稔彦は、夏休みに入ったら参加してみようと考え、HPの問い合わせ用のボックスに希望日と希望内容を書き込んだ。


七月半ばから鬼頭三郎は、何かに急き立てられるように自分が得意とする技のすべてを稔彦に伝授した。左のローキックから素早い左上段廻し蹴りへの切り替えし、向かってくる相手の動きを止める左前蹴り、相手がローキックを蹴ってきた瞬間に前蹴りの合わせ技でバランスを崩す応用技、左右の連続上段廻し蹴りのタイミングの難しさを実践してみせ、これはバランスが難しいから相当な余裕がない限り使うなと教えた。そしてキックやムエタイを相手にする場合は接近戦に注意するよう、有効な技は頭突きと肘と裏拳だと言った。

「いいか稔彦、接近戦はいきなり頭突きがくるから注意しろ、相手との間合いを計れ。相手の攻撃を待つ前に、自分の間合い入ったら裏拳で相手の鼻頭か目を狙え」

それから鬼頭三郎は、相手の脇腹下部へ狭い角度で蹴り込む三日月蹴りのやり方を教えた。

「こいつはタイミングが合えば、相手の肋骨が陥没するから本気でやるなら覚悟が必要だ」

稔彦にとって過酷な日々が続いたある日、鬼頭三郎が稔彦の頭を軽く叩いて言った。

「稔彦は気づかないかもしれないが、おまえには天賦の才がある。このまま稽古に励めば、もしかするといつの日か、あの男を超えるかもしれない」

「あの男」

「そうだ、愛好会を創った初代主将だ」

「まだお会いしたことはありませんが」

「心配しなくても、いずれ現れるさ」

「鬼頭主将、その人の名前を教えて下さい」

「段田剛二、この名前を覚えておけ。段田先輩が教えてくれた技は必ずおまえを強くしてくれるはずだ」

「おす」

夏休みが近づくにつれ鬼頭三郎の指導はいつよりも増して烈しくなってゆくが、稔彦はへとへとになりながらも乾いた砂地に水が吸い込むように着実に吸収していった。その姿を隣で見守る梶川大悟でさえ羨ましく思うほどだった。そしてその光景を柔道場の反対側から鋭い眼光で見つめるもう一人の男がいた。柔道部主将三年の加藤康宏だ。加藤は、柔道と空手と世界は違うが、鬼頭三郎がやっている愛好会の空手に関しては一年生の頃から一目置いていた。近い将来、鬼頭三郎と一戦交える日が来るだろうと予感はしていたが、インターハイが終了してから卒業するまでの間だろうと考えている。


夏休みの四日前に稔彦はベンチプレスで100kgのシャフトをクリアーした。鬼頭三郎は、100kgを上げた稔彦を喜んだが、それは同時に一撃で人を卒倒させるパワーが身みついたことを話した。この後は自分で次の目標をたてやり遂げるよう指導すると、それからこれはおまけだと付け足してから、喧嘩に遭遇してしまった場合の対処方法についてアドバイスした。

「喧嘩と試合の違いは間合いと攻撃する部位だ。喧嘩の間合いは互いの額がくっつくほど紙一重の距離で始まるから、そうなったら上段廻し蹴りなどの足技はほとんど使えない、最良の武器は裏拳と肘、そして貫手による顔面攻撃だ、貫手の指が目を掠っただけで相手の戦闘意識が萎えるから、その時が勝機だ。隙だらけだからどこでも狙える」

それから柔道の寝技や絞め技をかけられたら躊躇わず相手のどこでもいいから嚙みちぎれ、それが一番有効的だと言って苦笑いを浮かべ稔彦の肩を叩いた。

「まだ二日早いが、この帯をおまえに譲る」

そう言って腰に締めた黒帯を解き、稔彦に手渡そうと差し出した。

「え、鬼頭主将、でもこれは」

「構わない、おまえの腰に締めて貰った方がこいつも嬉しいはずだ」

稔彦は一瞬躊躇ったが、気を取り戻すと破顔して応えた。

「おす。ありがとうございます」

「俺は明日からしばらく東京へ行くから今日が取り敢えず現役としては最後になる。この後は大悟が六代目主将として愛好会を仕切ってゆく。大悟、後を頼んだぞ。歴代の誇りを守ってくれ」 

そう言って柔道場から立ち去る鬼頭三郎の背中に向かって、目に泪を浮かべた梶川大悟が声を振り絞って叫んだ。

「おす。鬼頭先輩、おす。今まで本当にありがとうございました、おす」

これが空手愛好会五代目主将鬼頭三郎との、なんの送別会もない淋しい別れだった。

稔彦は、柔道場の玄関先へ消えてゆく鬼頭三郎の背中を見つめながら、腰の白帯を解くと、譲り受けた黒帯を締め直した。締めて結び目を臍の下へぐいっと押し下げた瞬間、身の引き締まるような電流が身体中を流れるのを感じて身震いした。

鬼頭三郎の姿が見えなくなってからしばらくの間沈黙していた梶川大悟が、稔彦を振り向いて口を開いた。

「稔彦、夏休みに入ってからも柔道場へ来るか」

「おす。昼間は店の手伝いありますが、その後から夕方まで稽古に来ます」

「そうか。俺も毎日顔をだすから一緒にやろう」

「おす。梶川主将、よろしくお願いします」

よし、そう返えした梶川大悟の顔が、稔彦から初めて主将と呼ばれ少し照れて赤面した。そんな自分を隠すように両手で頬を叩いて気合いを入れ、稔彦に向かって組手稽古を始めようと切り出した。

「おす、よろしくお願いします」

稔彦は、さっきまで鬼頭三郎との一時間以上続いた自由組手でへとへとだったが、いっさい顔には出さず新主将梶川大悟との手加減のない壮絶な組手稽古を始めた。



夏休みの三日前、稔彦が学食から教室へ戻ると、珍しく一人で三階のベランダに立つ智也の背中が見えた。まだ昼休み中で生徒も少ない閑散とした教室の中を、何気ない顔で窓際に近づいていった。驚かせてやろうと思って窓越しに水上智也の横顔を覗いたら、何か思い詰めたような真剣な顔つきで校庭を見つめているので思わず声を掛けそびれてしまった。

間もなく午後の授業開始のチャイムが鳴りだすと急に廊下が騒がしくなり、室外へ散らばっていた生徒たちが戻ってきた。

稔彦が窓際の席で次の授業の準備をしていると、ベランダから中へ入ってきた水上智也が足を止め、夏休み初日から横浜で練習試合があると言って面倒くさそうな顔で嘆いた。

「智也も応援に行くのか」

「一年と二年は全員強制招集なんだ」

「インターハイ前の県大会は誰がでるの」

「今年は団体戦がだめで、個人戦では90kg以下級に三年の加藤先輩、81kg以下級は二年の赤木先輩、73kg以下級が同じ三年の茂木先輩だ」

「本戦へ行けそうなの」

「加藤先輩はいい線いっているし、県大会で優勝すればインターハイだ。ただな」

水上智也が、ただなと言って口を閉ざした時にドアが開いて午後から始まる五時間目の担当教師が入ってきた。

「稔彦、後で相談するよ」

そう言い残すと慌てて廊下側の自分の席へ戻っていった。稔彦は智也が後で話す、ではなく相談すると言った言葉の意味を考えたが判らないまま授業が始まり、終わる頃には忘れてしまった。そして翌日も智也は、思い詰めた表情でベランダに立ち校庭の先を見つめていた。


浜は夏休みに入ると遠方からの家族連れの海水浴客たちで賑わった。民宿も以前よりかなり増えていたがどこも満席でキャンセル待ちする宿泊客が続出した。三浦海岸は家族連れに人気があったが、その中に若者のカップルや学生たちも大勢混じり騒いでいた。

梢は先月突然店を訪れた神谷徹から連絡を受け、娘の藍が友達と二人で海水浴に行きたがっているが民宿がとれず何とかならないかと相談された。梢は二階西側の六畳部屋があいているからそこで良いならいつでも構わないと返事した。もちろん部屋代や食事代をとるつもりはない。二日後の朝に神谷徹から電話が入り、明日から藍と友達の中川桃子がお世話になりますと丁寧な口調で言ってきた。梢は慌てて二階へ上がると、ベランダに二人分の布団や枕を干し始め、それを見た稔彦が誰か来るのかと訊ねた。稔彦は、神谷藍と女友達がしばらく遊びに来ると聞いて驚いた。

「え、聞いてないよ。二階の隣に女が寝泊まりすんのかよ、まじかよ」

「稔彦、かよかよってうるさいの。愚痴を言う暇があったら、お昼になる前に食材の買い出しにいってちょうだい」

「梢ちゃん、午後は学校に行くからね」

「前に教えた三崎町の直売店よ」

「なんだまたあっちかよ」

稔彦は面倒くさそうに口をへの字に曲げ、机の引き出しから単車のキーを取り出すとTシャツと短パンのまま階段を降りて行った。この時期の134号線は渋滞が続くので少し遠回りになるが215号線を南下していった。


三崎町の直売店は大勢の買い物客で活気づいており、稔彦は目当ての刺身を購入するのに予定時間を大幅に遅れた。このため帰りは26号線を北上して134号線に乗り継ぐルートを選んだが、油つぼ入口の交差点の100mほど手前で金属バットをぶら下げた三台の改造車に囲まれた。この時稔彦が心配したのは身の安全ではなく、帰宅時間に遅れることだった。

三台の単車は、二人乗りが二台いて後部席の男が金属バットを道路に垂らして引きずっており、もう一台は一人乗りだった。稔彦は減速すると左側の路肩に寄って停止した。一人が金属バットで荷積みの箱を突っついた。それを見て激怒した稔彦は、思わずその金属バットの太い部分を握るとねじりながら奪い取り、道路淵の溝へ放り投げた。

この時三人が大声で怒鳴りだしたが、何を言ったのか判らなくて首を傾げていたら傍の一人がいきなり金属バットで殴りかかってきた。稔彦は襲われる理由が判らないまま、その金属バットの太い部分を右掌で受け止め、そのまま引っ張ってバランスを崩した相手の腹の上部を右の拳で打ち抜いた。男は2mほど後方へふっ飛んで動かなくなった。それを見た他の男たちが驚いて動きを止めた瞬間、右の男の右膝に関節蹴りを入れ、同じ足で左の男の左脇腹を靴の爪先で蹴り込んだ。一瞬で三人が道路の上に倒れて呻き始めた。稔彦は残りの二人が完全にやる気をなくしたのを確かめると、通行の邪魔だから三人を連れて早く立ち去るよう命じた。それから単車に乗りアクセルを全開にしぼり、油つぼ入口の三叉路26号線を疾走して行った。


この油つぼ三叉路前で起こった一連の騒動は、その日の内にSNSで発信され拡散していった。仲間がやられて憤慨した油壷「紫煙」は、稔彦の人相や乗っていた単車の特徴を情報収集し、警察の目を抜けるため二三台に分担して26号線から134号線を北上して葉山逗子方面、また三崎町から134号線の海岸道路を探し回った。


翌日朝早く、キャリアケースを引きながら神谷藍と中川桃子がやって来た。二人は店の外まで出迎えにきてくれた梢に挨拶すると中へ入り、厨房で皿洗いをしている稔彦に向かって手を振った。真夏の青空のようなブルーのTシャツと白の短パン姿の藍に圧倒された稔彦は、ヘビに睨まれた蛙みたいに委縮して動けなくなり、それを見た桃子がかわいいと言って笑いだした。

梢が二人を二階の部屋に案内している間に、洗い物を終えた稔彦は駅の反対側にあるスーパーまで食材の買い出しに徒歩で出かけた。

まだ午前中なのに熱光線にも似た陽射しが降り注ぎ、暑いというより火傷したように肌が痛かった。この時海岸通りから狂った怪獣の咆哮のようなエンジン音が走り抜けてゆき、その爆音を聞いた稔彦は顔を上げ、夜ならまだしも朝から珍しいなと思った。

藍と桃子は、荷物の整理を済ませると水着に着替えた。それからパーカーを羽織って日傘を持つと厨房で料理の仕込みをしている梢に、昼までに戻ると声をかけ浜に向かった。

浜では近所の民宿に宿泊していた家族連れが、朝早くからあちこちに色とりどりのビーチテントを張って寛いでいる。藍と桃子は、後ろから追い越してきて波の中へ突入していく子供たちを眺めながら、波打ち際から少し離れた砂浜に腰を下ろし日傘をさした。

しばらく水平線に霞む南房総を眺めていたが、浜の雰囲気に馴染んできた桃子が、ため息をついで嘆くように小声で話し始めた。藍は、打ち寄せる白波が引き返すのを眺めながら桃子の話に耳を傾けていたが、相手が卒業後にイギリスへ留学しても、オンラインで会話すれば淋しくはないだろうと応えた。

「それにあっちの大学は日本と違って三年制度だから待っていてあげれば」

「うちは手が届くところにいないと耐えられない人なの。藍とは小学校からずっと一緒だから、うちの性格わかるでしょう」

藍は、桃子が相手の男と中二の時からつき合っていたのは知っていたが、五年間つき合って三年待てない心境がよく理解できなかった。自分なら待てるだろうかと考えていたら、波打ち際で遊んでいた子供たちが戻ってきて、水しぶきをまき散らしながら藍たちの横を走り去っていった。

「冷た」

桃子は顔にかかった水滴を掌で拭い、もうと憤慨して顔を顰めた。藍は桃子にハンカチを手渡すと周りを見回した。右も左も家族連ればかりだったが、昼が近づく頃には若いカップルや数人の男女のグループも姿を見せた。

少し離れた津久井浜寄りの海岸では、サングラスをつけた七人の若者がビーチバレーをやりながら騒いでいる。藍がよく見ると、缶ビールや酎ハイの缶を手に持ったままゲームを楽しんでおり、時々空を見上げてのけ反りながら飲んでいる。その内の三人が何か話し込んでいたが間もなくこっちへ向かってやって来た。藍はトイレだろうと単純にそう思い、再び白波が立ち始めた海原へ顔を戻した。昼前になり風がでてきた。いきなり桃子がお腹がすいたと言い出し、腕時計をみた瞬間藍は、梢に昼までには戻ると言った約束を思い出した。足の砂を払い二人が立ち上がった時、背後から男の声がして振り向いた。


藍と桃子は無理やりサングラス集団の元へ連れて行かれ、いきなり酒を勧められた。藍は未成年だから飲めないと言って断ったが、唇に金のピアスを刺した男が藍の水着の胸元に視線をやりながら卑猥な笑みを浮かべた。右肩にマウスのタトゥーをつけた男はいきなり桃子の腕を引っ張り、自分が今まで飲んでいた酎ハイの缶を握らせ、

「飲めよ、楽しくなるぜ」

桃子が思わず眉を顰めて汚いと言って払い除けたらマウスがいきなり怒りだした。他の六人から大声で揶揄(からか)われたマウスは、桃子の顎を掴んで無理やり飲ませようとした。藍がマウスの脇腹を両手で押して突き放した。再び笑い声が湧き起り、やられたマウスが今度は藍の肩を引き寄せ唇を重ねようとした。マウスの顔を両手でブロックした藍が、サングラス集団の背後から稔彦の声を聞いたのはこの時だった。

一瞬マウスの手が緩み、その手から逃れた藍は青ざめた顔で佇む桃子の手を引いて稔彦の背後へ逃げた。稔彦が飄然とした顔で、サングラスたちに顔を向けたまま背後にいる藍にこう言った。

「昼が過ぎても戻らないから、梢ちゃんが心配して見てこいってさ」

「ごめん稔彦くん、一緒に帰ろ」

この時マウスとピアスともう一人が前へ踏み出しピアスが、ガキが大人の邪魔をすんじゃねえと稔彦に向かって毒づいた。稔彦は聞こえないふりして藍に、昼飯をつくってあるから早く戻ろうと言って二人を先に行かせ、シューズの靴底で砂を踏み込んで足場の具合を確かめた。歩きかけた藍が稔彦を心配して立ち止まり振り向いた時、ピアスの男が稔彦に近づいて行った。

高校生の稔彦に無視され激昂したピアスが後ろから稔彦の腰を蹴った。蹴ったと思った瞬間、視界から稔彦の姿が消え、ワープしたみたいにピアスの隣にいるマウスの真横に立っていた。稔彦が振り向くマウスの膝裏へ関節蹴りを蹴り込むと、ガクンと膝を折って仰向けに倒れた。

「この野郎」

敵を威嚇する大猿みたいに歯をむき出して咆哮するピアスの鼻頭へ、左の裏拳を飛ばした。一瞬何が起こったのか判別できないで立ち竦むピアスの鼻から大量の血が噴き出し、足下の砂地を真っ赤に染めた。それを見た一人が首に巻いたタオルでピアスの鼻を押さえ、残る四人が二人ずつになって足場の悪い砂地でバランスを崩しながら駆け込んできた。稔彦は腰を落とすと最初の右側の男の水月(すいげつ)(水落ち)へ右フックを叩き込み、左の男の脇腹へ角度の狭い三日月蹴りを蹴り入れた。後からやって来た二人は足元に転がる二人に阻まれ立ち止まった。次の瞬間、眼前の空中に稔彦が浮かんでいた。稔彦は左右の靴底で二人の顔面を軽く蹴とばし、着地するともう一人の男を加えた三人に対して他の四人を連れて早く海岸から出ていくよう命令した。三人がそれぞれ肩に四人を抱きかかえながら、よたよた状態で駐車場へ逃げて行った。


この光景をたまたま海岸通りから見物していた大学生が、「驚異の三浦海岸サングラス七人斬り! たった一人で七人の不良をなぎ倒した少年A」のキャッチでSNSに投稿すると、瞬く間に拡散していった。そしてネットユーザたちから少年A探しが始まったが、どこぞの誰君に違いないなど勝手な憶測が出回るばかりで最後まで的を得ることはなかった。同時にサングラス七人の内三人の身元がバレ、地元の女子高校生をナンパして無惨に返り討ちされた愚か者たち、のレッテルを貼られSNSで非難を浴びた。

SNSをやらない稔彦はそんな世間の喧騒をまったく知らなかったが、その夜に加藤圭太と智也からのメールでその少年Aとは稔彦のことだろうと言ってきたが、自分はまったく無関係だと強調した。

廊下から藍の稔彦を呼ぶ声が聞こえ、襖を開けたらそこの藍と桃子が神妙な顔で立っていた。

「こんな時刻にどうしたの」

稔彦が驚いて訊ねたら、昼間の件でもう一度お礼がしたいと言ってきた。

「あの時、稔彦君が来なかったらボクたち今ごろどうなっていたか」

「ほんとだよ、想像しただけで身震いする。大嫌いだよあんなやつら」

稔彦は、特にこの時期の海岸沿いは危ないやつが大勢いるから気をつけた方がいいよ、そう言って二人を部屋に戻した。部屋に戻った桃子は藍に、歳下の子に叱られたと言って舌をだして笑った。昼間の男たちにナンパされた件を喜んでいるような顔つきで、飽きれて見返す藍に、

「それはうちらが魅力的ってことよ」

そう胸を張るともう一度舌をだして破顔した。藍は、あの場に稔彦が現れなかったらどうなっていたか考えろと言おうとしたが、口には出さなかった。



藍と桃子は、三日間の約束で三浦海岸へ遊びに来たつもりだったが、勉強に集中することを理由に滞在期間をしばらく延期することにした。開店前の午前と準備中の午後は受験勉強に集中することにして、客がいる間は店にでて梢の手伝いを始めた。

稔彦は相変わらず朝から買い出しに単車を稼働させ、昼が終わると再び単車に乗って太子堂高校の柔道場へ向かい、梶川大悟を相手に手加減なしの組手稽古に専念した。最近は梶川大悟の強烈な正拳突きを正面から喰らってもたじろがないほど身体全体がパワーアップしていた。そしてこの頃、サンドバックを叩く梶川大悟の姿を眺めている内に、空手家がサンドバックを叩いて強くなれるのだろうかと言う疑問を抱くようになった。やがて疑問は否定になり確信に変わった。相手を倒すため必要なのは、身体の四肢を指先まで石のように硬く鍛えることだと考えるようになった。


八月の第一土曜日、その日稔彦は柔道場へは行かず、横須賀の仙道空手道場へ単車を走らせた。約束の午後三時に横須賀駅前の雑居ビルの三階へ上がり、玄関先から道場の中を覗き込んだら、ちょうど四階から降りて来た空手着姿の男にが中へ入るよう声をかけてきた。

稔彦は慌てて振り向き、ネットのHPで申し込んだ体験入門希望の草薙稔彦だと申し出た。男は玄関先で立ち話もなんだから中で話そうと言って、自分から先に道場の中へ入っていった。

道場の中央で男が正座するのをみて、その正面に稔彦も正座した。男は仙道明人と名乗り、HPでも書いたが一年前に開いたばかりだと言い、

「道場の中が狭くて驚いただろう。あちこち探したんだが、なかなかいい物件が見つからなくてね、結局ここに落ち着いたんだよ。ところで草薙君は16歳と書いてあったが地元の高校生かい」

「いえ、津久井浜の太子堂高校です」

「空手愛好会所属とあるが、正式な部活ではなく愛好会として活動しているのかい」

「はい、部員が少なくて登録ができず、稽古のやり方が他と違うため県連からも拒否されています」

「なるほど、どんな稽古をしているかは君の身体つきをみたら判るよ。よし、とにかく奥のロッカールームで着替えてきたまえ。身体をほぐしたら君の希望通り、倒れるまで自由組手をやってみようじゃないか」

「仙道先生、ありがとうございます。よろしくお願いします」

「礼なら後でいいから、早く着替えてきなさい」

稔彦は仙道に急かされロッカールームで自前の空手着に着替えた。道場のHPに書いてあった師範紹介欄に仙道明人36歳、身長178cm、体重85kg。現役時代はかなりウエイトトレーニングで筋肉を鍛え、身体全体の重量感は稔彦の1.5倍あった。

着替えをすませた稔彦が再び仙道の前に現れると、仙道は、すぐ仙道流柔軟体操を二〇分間行い、休憩して水分を補給した後、稔彦と道場の中央で向き合った。

「草薙君、君の流儀でいいから好きに攻めてきなさい。隙あらば反撃させてもらうがいいね」

「おす、お願いします」

「よし、始めよう」

稔彦は、教えを乞うつもりで最初から攻めた。一気に間合いを詰め、強烈な左のローキックを仙道の右膝へ刈り込み、次の瞬間素早い左上段廻し蹴りへの切り替え。そのパワーとスピードに驚いた仙道は咄嗟に両腕を立ててブロックして踏み込み稔彦を圧迫した。稔彦は、その短い間合いからタックルをぶちかまし、同時に右肘を仙道の水月に突き入れた。ごおっと息を吐いた仙道が後ろへ跳び退き、間合いを開けると驚嘆した顔で稔彦を見つめた。

「驚いたよ、凄いな、いや凄まじいと言うべきかな。君の空手愛好会はいったい何者なんだい。さっき後ろへ跳ばなかったら沈んでいたよ」

稔彦にそう言いながらも仙道は、忘れかけていた現役時代の躍動が蘇える気がしてわくわくしてきた。それから三分間、稔彦は覚えた技をすべて繰り出し仙道を攻め続け、壁際に追い込んだ。勝機をみた稔彦が、真下から仙道の顎下を蹴り上げ、顔をのけ反って躱した仙道の脳天に、蹴り上げた足の踵を頭上から落とした。

仙道は咄嗟に両腕を頭上でクロスさせブロックした瞬間、がら空きになった稔彦の腹へ強烈な前蹴りを蹴り入れた。圧倒的なパワーで蹴とばされて尻もちをつきそうになったが、何とか四股立ちになって踏ん張った。稔彦はその場で大きく息を吸い込み力強く吐き出し、乱れた呼吸を整えた。

その姿をみた仙道が右手をあげ、

「草薙君、今日はここまでだ。しかし技のスピードやパワーだけじゃなく、三分間フルに攻め続ける体力も凄まじいね」

「仙道さん、ありがとうございます」

「いやあ、久しぶりに血が熱くなったが、冷や汗をかいたよ。草薙君、近いうちにまた来てくれるかな」

「夏休み中はこの時間でしたらいつでも大丈夫です」

「そしたら私のスケジュールを送るから、必ず顔をだしてくれ。その日は道場の鍵は開けておくから先に着替えて自由に使ってくれて構わないよ」

「おす。ほんとうにありがとうございます。嬉しいです。必ずまた来ます」

「待っているからね」

稔彦は仙道にもう一度礼を述べ、ロッカールームへ向かった。衣類を入れたスポーツバックを手に持って現れた稔彦に仙道が驚いて言った。

「草薙君、まさかその恰好で単車に乗るのかい」

「外は暑いですから、これなら海風が直で当たるので気持ちがいいと思って。仙道さん、失礼します」

スポーツバックを肩に担いで道場から立ち去る稔彦の後ろ姿を眺めながら仙道は、心の中が子供のようにはしゃいでいる自分がおかしく思えた。短い間だったが稔彦とやり合った時間に感動している。今の本流派道場に、あの稔彦と互角にやりあえる門下生が何人いるだろうかと考えた。思い浮かぶのは、昨年の全日本で上位入賞した顔ぶればかりだった。まだ一六歳だ。仙道は、とんでもない逸材に出会った気がした。


稔彦は空手着を着たままビルの陰に停めておいた単車に跨り、エンジンを始動して走り出した。国道16号線を三春町二丁目で134号線に乗り、そのまま海岸道路を三浦海岸へ向かって走りながら、仙道明人を倒すつもりで攻めたが倒せなかった原因を考えた。パワーやスピードでは大差ないように感じたが、試合慣れした経験差は大きいと思った。そして一番の要因は、仙道の受け手や攻め手を玉砕でなかったことだ。そのためにはやはり、身体の四肢を石より硬く鍛える必要があることを強く感じた。


店の開店三〇分前に到着して裏のガレージへ単車を押し戻していたら、梢からスマホに着信が入り、追加買い出しの緊急連絡だった。六時に町内会の予約が入り、大量の刺身が必要になったので急いで三崎町の直売店へ向かうよう指令があった。午後に三浦海岸と横須賀を往復したばかりで、今度は反対方向の三崎町まで行くことになった。稔彦はガレージに干しておいたレインコートを空手着の上から着込み、それからガソリンタンクの残量を確かめるとエンジンをかけた。

さっき戻ってきた134号線を南下して引橋の三叉路を左に折れ26号線に乗って三崎町へ向かった。途中で一台の改造車がすれ違う時、雨でもないのにレインコートを着込んだ稔彦を一瞬振り返ったがそのまま通り過ぎていった。


いつもよりかなり大きめの発砲スチールを直売店から借りて単車の後ろに荷積みすると、稔彦は26号線を走り出し三浦海岸までの帰路を急いだ。夕方近くだったから道路は昼間より渋滞していなかったが、それでも通勤帰宅途中の車が列をなして信号待ちをしている。

稔彦は車と車の隙間を上手に蛇行して通り抜け、引橋の三叉路を134号線に乗ることができた。ここから三浦海岸まで一本だと安心していたら、途中の下宮田交差点で信号待ちをしているとバックミラーに二台の改造車が写った。「紫煙」の偵察隊に間違いなかった。

しつこいなと嘆いて信号が青に変わった瞬間、いきなり右折して小道を突っ走り途中の路地に隠れ、慌てて追いかけて来た二台をやり過ごすと今の小道を戻って134号線を飛ばした。この小道をそのまま直進してゆくと215号線に出て左へ進めば海岸道路に乗る。稔彦は二台が海岸道路を探しに行くのは間違いないと思い、途中でルートを変えて三浦海岸駅前へ出て商店街の方から店へ戻っていった。

稔彦は「紫煙」が自分をターゲットにしていることを理解した。二台の後をつけ、油壷「紫煙」のアジトのアタリをつけておきたかったが今は時間がなかった。このまま「紫煙」が黙って引っ込むはずはないし、必ず再び現れて騒動を起こすに違いなかった。稔彦は、「紫煙」のメンバーの総勢人数さえ知らなかった。怖いとは思わないが、この後執拗に絡まれるのが面倒臭かった。


稔彦が大きな発砲スチールを抱えて店に入ると、すでに奥のテーブル席で町内会の役員五名が飲み始めていた。藍が酒や肴の小鉢を運び、厨房で桃子が皿洗いを手伝っている。稔彦は急いで発泡スチロールの中身を大型冷蔵庫に入れ、それから奥の部屋からつり銭用の小銭をもってくるとレジの準備をした。準備を終えると桃子と洗い場を代わり、藍と一緒に接客に回ってもらった。藍と桃子は昼と夜を手伝いのため店にでていたから、二人の評判が広まって若者だけではなく中年のサラリーマンたちも店にやって来るようになり、このため稔彦は客の要望から急いでキャッシュレス用のスキャナーを導入した。使ってみると現金を受渡しするより楽で効率的だった。

料理を運んで来た藍と桃子に誘いの声をかける若者も現れ、その下心を満載した男たちのにやけ顔を眺めながら稔彦は、先日のサングラスたちのようにならないかと心配した。

その夜は町内会の役員たちがここぞとばかりに遅くまで飲み続け、店じまいした時には午前〇時を過ぎていた。梢は先に藍と桃子を交代で風呂に入れ早く休むよう伝え、片付けは稔彦に任せて自分は調理場の整理を始めた。最後に稔彦が風呂から上がり二階の自室に戻ったのは午前二時前だった。

隣の部屋の照明が消えているの確かめ、店が忙しかったせいで疲れて眠ってしまったのだろうと思った。藍と桃子は鬼頭三郎と同年の高校三年生で、夏休み中は予備校の夏期講習や模擬試験があり、まして来春は大学入試が控えているのにこんな所で店の手伝いなんかやっていて大丈夫なのだろうかと心配になった。

稔彦はそれとなく梢に二人の滞在期間を訊ねた。当初は三日間の予定だったが三浦海岸が気に入りしばらく滞在することになったと言った。しばらくと言うのは、いつまでのことだろうかと考えたが、それを気にしている自分に気づき慌てて頭を振るとスマホをつけた。

梶川大悟から着信があり、今日の仙道道場での稽古について訊いてきた。稔彦は、道場内の様子や初日の組手稽古の内容を正直に書き込み、夏休みの間はお互いのスケジュールが合う日にいつでも道場へ来るよう誘われたことも書き加えた。それに対する梶川大悟からの返信はなかった。

朝食は店のテーブル席で、今日の昼と夜の簡単な打ち合わせを行いながら四人一緒に食べることになった。藍と桃花は、目の前で黙々とどんぶり飯を三杯お代わりする稔彦の食欲に圧倒された。

「まるでお相撲さんみたい」

桃子が呆れて呟いたら、これも経費で落とすから何杯食べても大丈夫なのよ、と的外れな返事をした梢が笑いだした。


午後、稔彦は太子堂の柔道場で稽古を始めた。梶川大悟は稔彦に、夏休み中の稽古は自由参加だから、こっちは気にせず思い通りにやってみろと助言した

柔道場の反対側では、二〇人ほどの柔道部員が乱取り稽古を行っており、稔彦は智也を探したが見当たらなかった。お盆前に父親の実家に帰郷する予定だと話していたから、当初の予定が早まったのかもしれない。

柔道場からの帰り、稔彦は津久井駅までの途中にある雑木林の中へ入った。その先に狭い空き地があり、コンクリート制で大人の腕回りほどの太さの電信柱が立っている。右の拳を握り、自分の胸の高さの箇所を突いてみた。鈍い痛みが拳頭から指の第三関節、そして手首に走った。次いで裏拳、肘、ローキックと順番に打ち込んでみる。稔彦はいつの間にか夢中で繰り返し行い、やっている内に腹の底から宝物を見つけたみたいな歓喜が湧き上がってきた。電信柱へ打ち込んだ四肢の部位に痛みは残ったが、気持ちのいい痛みだった。突然松の木の上でカラスが鳴き出した。辺りを見回したら薄暗くなり始めていることに気がつき、店の開店時刻を思い出し慌てて駅へ駆け込んだ。


一一


夏休みの間は仙道明人のスケジュールに合わせ、横須賀と太子堂の柔道場を交互に訪れ稽古に励んだ。愛好会のベンチプレスは100kgまでしかなかったから、300kgまでプレートが完備されている仙道道場は都合がよかった。道場へは予定時間より三〇分前に入り、仙道が現れるまでベンチプレスを続けた。

仙道との組手稽古を始め一〇日が過ぎた頃、稔彦の身体の異変に気づいた仙道が訊ねた。稔彦は身体の四肢を硬くする意義について自分なりの考えを正直に話した。仙道はしばらく考え込んだが、仙道が求める柔の空手道とは真逆ではあったがあえて反対はしなかった。

仙道は、自分の体力が衰えてゆく過程で、体格や力で押し切る空手ではなく、歳を経て枯れ木になっても若者を翻弄できる技の会得を目指していた。現在三六歳、まだまだ現役で通用すると自負しているが、稔彦とのガチの組手で徐々に押されつつある現状に、体力の衰えと稔彦の三倍速の成長の差を思い知らされ愕然とした。


藍と桃子は、お盆前に桃子が先に帰り、その一週間後に藍が三崎口の実家へ戻っていった。梢は自分の娘がいなくなったような一抹の索漠感を覚え、二階の部屋も店の中も静寂として物淋しく感じたが、稔彦は相変わらず横須賀と太子堂の柔道場の間を走り回っていた。その合間に、雑木林の電信柱で四肢の打ち込みを続けた。

この頃になると刺身の注文が減って三崎町の直売店へ行く機会が少なくなったが、それでも土曜日に急な予約が入り慌てて買い出しに出かけた。帰り道の26号線、油つぼ入口の三叉路で信号待ちをしていると、左側の216号線から以前見かけたピンクのライダーが稔彦に顔を向けながら信号待ちしているのが見えた。以前と同様に、フルフェイスもジャケットも単車のボディもピンク一色で、フルフェイスで顔は見えなかったが、間違いなくこっちを見ていた。その後ろに改造車が二台ついていたが、いつものような爆音は鳴らさず雰囲気も違っていた。

信号が青に変わり、三台は稔彦に顔を向けたままスピードを落としながら通り過ぎていった。稔彦は、ピンクのライダーが油壷の関係者だと知って少し驚いた。


八月末から二学期の授業が始まったが、智也は登校してこなかった。夏休み中に何度もメールでやり取りしていたので学校へ来ないことを心配していたら、三日目になってやっと教室に現れた。稔彦は、智也が額に貼り付けた厚手の伴倉庫と腕に巻いた包帯をみて驚いた。智也は稔彦の質問に、窓の外へ視線を投げるようにして顔を逸らし、それから重い口をひらいた。

「休みの一週間前に知り合った子と城ケ島へ行ったら、族に絡まれたんだ」

「族、あの辺りだと油壷のやつらか」

「どこのやつらかは知らないが。ただその子とは知り合いだったみたいだ。よくあるパターンさ。俺の彼女に何すんだってね、いきなり金属バットで殴りかかってきた」

「それでやられたのか」

「相手が一人なら何とかできたさ。三人もいたら勝てないよ。おまけにバイクも奪われた。もしかしたら最初からそれが目的だったのかも」

「それで休み中ずっと寝ていたのか。全治三週間ってとこか」

「まだ完治していないから、四週間だよ」

それから稔彦が奪われたバイクの特徴を訊いているとチャイムが鳴り、智也は自分の席へ戻っていった。稔彦は、夏休み前に智也がベランダで思い詰めたような顔で校庭を眺めていたことを思い出し、あれはその子のことだったのかと納得した。そして智也はそれ以後、柔道場に現れることはなかった。


昼休みに学食でカレーライスの大盛を食べながら、三島高校の加藤圭太にメールを送った。とにかく油壷「紫煙」のアジトと人数を知りたかった。夏休み中は海岸通りを頻繁に走り回り、一般の海水浴客たちからも苦情を受けた町内会が、警察のパトロール回数をもっと増やすよう要請した。それでもパトロールがない時間帯に現れ、二三台の少数に分かれて海岸通りを走り回っていた。

それから二日後に加藤圭太から返信か届いた。油壷の動向に詳しい生徒の情報では、紫煙の構成員は四〇名ほどで、二代目総長は初代大城昌行の妹大城みゆきが継承したが、新たに「レディース紫煙」を創って勢力の拡大を図ろうとする幹部の黒田善太と内部対立が起こっていた。

黒田は初代の大城昌行の右腕として奮闘してきた立場を利用して、最近になって大城みゆきを押さえ好き勝手に振る舞いだしていた。「紫煙はレディースを持たない」と語っていた初代とそれを継承した大城みゆきを支持する一派と、勢力拡大に躍進する黒田を支持するもう一派に分裂を始めていた。最後に加藤圭太は、これから油壷は騒がしくなるが、こっちにとばっちりが来るのは困るとそう書いてよこした。この時稔彦は、加藤圭太の色白な顔が歪むのを思い浮かべた。

スマホから目を離して天井を見上げ、ピンクのライダーと大城みゆきを重ね合わせてみたが、族の女総長とピンクのイメージがあまり釣り合わないような気がした。ピンクのライダーが胸にさらしを巻いている姿が想像できなかった。ただ油つぼ入口の三叉路で二度目に出会った時、無言でじっとこっちへ顔を向けていたピンクのライダーの動作が気になった。


一二


仙道明人との組手稽古は、徐々に烈しさを増していき、どちらかが倒れるか降参するまで続け、余力があれば時間が許す限り二ランド、三ランドと回数をこなしてゆく。稔彦が夏休み中は三本のうち三本を取っていた仙道だったが、今は一本取れるか引き分けに終わっていた。仙道は、稔彦の類まれな素質と尽きることを知らない体力、そして四肢の硬さに翻弄された。

その日の組手稽古が終了した後、ロッカールームからスポーツバックを担いで来た稔彦に、仙道は頭から流れ落ちる汗を拭いながら、来年の本流派主催の全日本空手道大会に出場してみてはどうかと提案した。驚いた稔彦が訊き返した。

「え、仙道さん、そんなことができるんですか」

「八月で申し込みが締め切られたから今年は間に合わないが、来年なら時間も充分あるから、そのための稽古ができる。草薙君、考えておいてくれないか」

「仙道さん、いつもありがとうございます。愛好会での稽古もあり、先輩にも相談してみます」

「ぜひそうしてくれ。吉報を待っているよ」

「おす。失礼します」

「今日もその恰好で帰るの」

稔彦は、少し呆れ顔の仙道へ苦笑いを返すと速足で出て行った。組手稽古に時間がかかり過ぎて、梢から頼まれた帰りの買い出しに間に合わなくなるから、今日は着替えの時間さえ惜しんだ。


加藤圭太から、毎日のように油壷の動向に関するメールが届いていた。稔彦が気になったのは、黒田がレディース紫煙の初代総長に祭り上げようとしている相手がまだ中学生で、もしかすると智也と城ケ島へ行った子ではないかと言うことだ。智也がその子の素性をどこまで知っているか判らないが、明日学校へ行ったら訊いてみるつもりだ。

そしてこの日は梶川大悟から珍しく着信が入った。明日は鬼頭先輩も来るから必ず柔道場へ顔をだすように、とのことだった。稔彦は、全身全霊で自分を鍛えてくれた鬼頭三郎の精悍な顔つきを思い浮かべ、久しぶりに会えることを嬉しく思った。


翌日、稔彦はHRが終わると柔道場へ急いだ。鬼頭三郎と梶川大悟に、仙道師範から誘いを受けた全日本空手道大会への出場について相談したかった。勇み足で柔道場へ入ると、奥のサンドバックの前で鬼頭三郎と梶川大悟が緊張した顔つきで話し込んでいた。玄関側の柔道場では柔道部員たちが柔軟を始めている。

稔彦が二人に挨拶すると、鬼頭三郎は陽焼した顔に真っ白い歯をむき出しにして笑み、稔彦の身体を上から下まで見回すとしばらく見ないうちに逞しくなったな、そう言ってもう一度、今度は少し憂いを浮かべて微笑んだ。その隣で、時計をみた梶川大悟が鬼頭三郎に言った。

「おす、鬼頭先輩、間もなくです」

「よし、玄関前でお出迎えだ。稔彦、一緒に来い」

その意味が理解できないまま、稔彦は前を行く二人の後について柔道場の玄関先へ向かった。鬼頭三郎を中央に、梶川大悟が右、稔彦は左に立った。この時大きな音とともにいきなり玄関の扉が開き、獣の生臭い臭いを含んだ突風が吹きこんできた。その後ろから巨大な影が現れると、鬼頭三郎と梶川大悟がその影に向かって大声で挨拶した。

「おす。お待ちしておりました、段田先輩」

段田と聞いて稔彦は慌てて挨拶した。巨大な影、空手愛好会初代主将段田剛二が稔彦の目の前に聳え立っている。

段田剛二は、玄関口で肩に担いでいた大きなリュックサックを鬼頭三郎へ向かって放り投げ、その中に山で捕った猪肉が二頭分入っている、そう言うと靴底の分厚い登山靴を無造作に脱ぎ捨て、畳の上を踏みしめながら奥のサンドバックへ向かっていった。

稔彦は、三人の後ろに付いて行きながら、長身の鬼頭三郎より頭一つ高く、梶川大悟の二倍はありそうな肩幅をみて驚いた。黒のTシャツの袖から伸びた腕が丸太のように太い。稔彦が柔道場内の静けさにふと気づいて振り向いたら、さっきまで柔軟体操を始めていた柔道部員たちの姿が消えていた。


段田剛二は三人の前で仁王立ちしたまま、野太くしゃがれた声で鬼頭三郎に最初の相手は誰かと訊いた。

「おす。一年、草薙稔彦です」

「ほう、こいつは一年生か。知っているとは思うが、どこでも好きな場所を攻めて来い」

「おす」

稔彦は、3mの間合いの先に立つ段田剛二の全身から発せられる闘気を受けながら、その威圧感の凄まじさに感動した。どこをどう攻めても通用しないと判っていたから、玉砕覚悟で跳び込んでいった。

充分に腰を入れた左のローキック。それを見た鬼頭三郎が叫んだ。

「稔彦、ローキックが通用する相手か。よく見ろ」

段田剛二は受けも躱しもせずまともに喰らって微動だにしない。

「ちっ」

慌てて右へ回り、段田剛二の左膝へ足刀関節蹴りを蹴り込む。段田剛二が少しだけ重心を下げ、稔彦の足刀を膝ではね返す。はね返され、バランスを崩した直後だった。太くて丸い中足(足のつけ根の腹)が真っすぐ伸びて稔彦の腹を直撃した。稔彦は身体を二つ折りにしながら畳と水平にふっ飛んで意識を失った。

気がついたら自分の隣に梶川大悟が寝かされており、段田剛二は鬼頭三郎を相手に組手稽古を続けていた。右のフックを脇腹に受けた鬼頭三郎が膝をついて悶え苦しんだ。稔彦が立ち上がったのをみた段田剛二が再び稔彦へ声をかけた。

「草薙、来い」

「おす」

稔彦は返事と同時に走って空中高く跳び上がった。稔彦が空中から段田剛二の喉元へ左の足刀を蹴り込んだ瞬間、段田剛二の右腕が水平に伸び、プロレスのラリアットみたいに稔彦の身体ごと弾き飛ばした。稔彦、今度は柔道場の壁板に激突して意識が朦朧とした。その薄れていく意識の中で、段田剛二が梶川大悟を呼ぶ声を聞いた。

こうして鬼頭三郎、梶川大悟、稔彦の三人を交互に行った組手稽古が三〇分ほど続いた。段田剛二が右手を上げ、稽古終了を告げた。汗一つかいていない。三人はその声を聞いた瞬間、軽く息を吐くとその場に両手と膝をついて項垂れた。

「鬼頭、駅前の三浦屋に話はつけてあるから、今夜は猪鍋だ。早く着替えろ。草薙、おまえも来い」

店の開店前で困り顔の稔彦の代わりに、鬼頭三郎が段田剛二に稔彦の実家の事情を説明した。段田剛二は一つ返事で了解すると、鬼頭三郎と梶川大悟を連れて先に三浦屋へ向かった。三人と入れ違いに、いなくなっていた柔道部員たちが戻ってくるとその柔道部員の一人がぼやいた。

「やっと帰ったか。県大会前でケガでもさせられたら最悪だからなあ」

「あの人、相手を選ばないから怖いよ」

稔彦はその声を背中で聞きながら柔道場を後にした。途中で雑木林の中へ入り、電信柱を叩き始めた。一〇分ほどで切り上げ、津久井浜駅から電車にのり、海側のドアに寄りかかって窓外を眺めた時、段田剛二に打たれ蹴られ続けたが、なぜか一段強くなったような気がした。そして清々しい気分と満足感が腹の底から湧き上がってくる。今夜は山で捕った猪肉だと話していたが、猪を素手で捕獲したのだろうかと疑問に思った。不思議な男だった。あれだけやられてもまた会いたいと思う。そして稔彦はやっと自分の目標を見つけたような気がした。


稔彦が三浦海岸駅から駅前通りを歩いて店の前へ着くと、ドアの前で中学の同じクラスだった三崎順子が俯きながら佇んであいた。稔彦が声をかけたら今にも泣きだしそうな顔を上げ、お願いがって会いに来たと言った。稔彦は店の中で話を聞こうと思ったが、三崎順子の様子に異変を感じ、梢に聞かれるのはまずいと考えて路地裏の公園に誘った。

三崎順子の相談事とは二歳下の妹薫子の件だった。三崎姉妹は親の都合で久里浜にアパートを借りて二人で生活していたが、夏休み前から妹の帰宅が遅くなり、排気音のうるさい単車が送り迎えをするようになった。心配して妹を問い質したら、もうすぐレディースの総長に君臨するから、そうしたら一躍有名人になれると目を輝かせて言うのだった。怒った三崎順子が妹の頬を叩いたら、その場で出て行ったきりアパートへ帰って来なくなった。それから散々探したら、相手が油壷の「紫煙」だと知り、稔彦が以前にそのメンバーと路上で揉めていた情報を得て、何か知っていたら教えてもらおうと考えて訊ねてきた。

稔彦はその話を聞いて、加藤圭太の情報と繋がったと思った。たぶん智也と城ケ島へ行ったのも薫子だろう。以前に一度だけ会ったことがあるが、まだ幼い薫子は姉の後ばかり追いかけていた記憶が残っており、その薫子が「レディース紫煙」の総長だなんておかしな話だった。

稔彦は何か情報が入ったら知らせることを約束し、それからこれ以上は動かないよう注意すると三崎順子を帰した。

数日後、一〇台ほどの単車がけたたましい破裂音を響かせながら海岸通りを爆走していった。黒の革ジャンに坊主頭でサングラスをつけた男が集団の先頭を走り、その単車の後部席に喜々とした表情で頭を振り乱す三崎薫子の姿があった。


一三


四時間目の授業の後で、弁当派の智也が珍しく学食で食べると言いだしたので、稔彦は智也を連れて第二校舎の学食へ向かった。六人掛けと四人掛けのテーブル席が交互に並び、窓際に一人用のカウンター席が横一列に設置されている。稔彦はカレーライスの大盛りをトレイに乗せ、ラーメン定食を頼んだ智也と四人掛けテーブルで向き合って座った。

三席離れたテーブル席で先に食べていた女子たちが智也を指差して騒ぎ始めた。相変わらずもてるなと内心羨ましく思いながら稔彦は、城ケ島の女の子とはその後どうなったのか何気なく訊ねてみた。

「あれっきりさ。バイクも戻ってこないし、散々だよ」

「名前は訊いたの」

「確か薫とか言っていたけど、単純に誘われて警戒もしないで付き合ったこっちも悪いんだ」

「そうか、そう思うのならこれっきりにしたらいいよ。智也、もう柔道場には来ないの」

「折れた肋骨の後遺症がまだ残っていて、投げられるのが怖いんだ」

「時間がたてば治るんじゃないのか」

「稔彦、おまえとは違うんだよ。おまえ、あんなにどつかれ蹴られてなんで平気なの。普通、逃げ出すよ。二度と行かないよ。異常だよおまえの精神構造は」

いきなり稔彦が椅子から立ち上がったので智也が驚いて、

「あ、怒ったのか」

「いや、お代わりだ」

「まじかよ」

稔彦は再び厨房の前でカレーライス大盛の食券を買って智也を振り向いたら、さっきの女子生徒たちが智也のテーブルを囲んでいた。稔彦はカレーライスを受け取ってトレイに乗せると苦笑いを浮かべ、それから窓際の一人用のカウンター席へ向かった。


その夜、加藤圭太から直接スマホに電話があり、レディースの結成式が一〇月第三金曜日の深夜にやるらしいと言ってきた。

「場所は」

「油壷公園だ。ただ、レディースを持つことに反対している二代目派から黒田派へ流れる兵隊たちが目立ち始め、今では人数的に三対一まで減ってしまいかなりヤバいみたいだぞ」

「まあ共倒れでもこっちは構わないけどね」

そう言いながら、ピンクのライダーが大城みゆきだとしたら、内部抗争の悲惨な断末魔を見るのはかわいそうな気もした。稔彦は、加藤圭太から油壷とはどこまで関わるつもりだと訊かれたが、三崎順子と妹の件は話さなかった。とにかく「紫煙」の執拗なつき纏いと薫子の件を解決して、来年の全日本大会に集中したかった。

加藤圭太の電話を切った後、机の引き出しからヌンチャクを取りだして軽く振り回してみた。中学生の時にネットで購入したものだが、ネットで調べてみたら棒と棒が鎖でつながれているものは動きが鈍いため、登山用の細いロープに付け替えた方が良いと書いてあった。近所に売っている店がなかったので仙道道場の稽古の帰りに横須賀のホームセンターへ立ち寄ってみようと思った。できれば使いたくはなかった。

稔彦は、レディースの結成式当日に「紫煙」の二派が抗争を起こすだろうと考え、この時が薫子を救い出すチャンスだと思った。ただ一人で乗り込むには相手の頭数が多すぎた。抗争を利用して薫子を連れ出すには、その前に黒田派の頭数をもう一方と同じくらいに減らしておかなければ釣り合わない。そのためには26号線と油壷方面へ向かう216号線に自ら身を乗り出し、相手から仕掛けさせる必要がある。


稔彦は買い出しのない土曜日の昼過ぎに単車のブルーのタンクに黒のカバーを被せ、フルフェイスも黒に替え、トレーニングパンツに軽めのシューズを履いて結成式の数日前から予定のコースを走り回った。

間もなく「紫煙」の偵察隊は、自分たちのエリアを我が物顔で走り飛ばすターゲットが稔彦だとは気づかないまま追いかけた。稔彦は住宅地から離れた脇道へ先回りして待ち伏せ、追いついてきた三台の改造車から先に手をださせ応戦し、相手が戦意を失う程度の肉体的ダメージを与えて抗争からの離脱をはかった。こうして第三金曜日までに八人を駆除したが、それでもまだ黒田派の頭数の方が多かった。

ただ、全く予想もしていなかった部外者からの攻勢に二代目派の兵隊たちが奇声をあげて勢いづいた。その喧騒の中、憂い顔の大城みゆきが、幹部の武藤真治に相手の男を探すよう指示したが、結成式まで時間はなかった。そして数日前から、「紫煙」の妙な動きを察知していた26号線沿いに築を構える三崎署も動き始めていたが、まだ正確な時間は把握していなかった。


結成式の夜、稔彦は三崎順子に妹を連れて帰るから寝ないで待っているよう電話をかけた。


一四


街灯の薄暗い照明に照らされた油壷公園に、ヘッドライトを消した十数台の単車が円陣を組んでその時を待っている。円陣の中央に革ジャン姿の黒田長治が両腕を組んで仁王立ちしており、その隣に純白の特攻服に赤の鉢巻きを額に巻いた三崎薫子が緊張した顔で闇の先を睨みつけている。

黒田の隣にいる兵隊が時計をみて話しかけた。黒田が頷いて右手をあげると、いきなり単車のヘッドライトがいっせいに点灯し円陣の中央を照らした。黒田がレディース紫煙結成の名乗りを上げようとした時、それまで公園の入り口で待機していた一〇台ほどの単車が乗り込んできた。

先頭を走るピンクのライダー大城みゆきが、単車から降りると堂々とした足取りで黒田に近づいていった。黒田は大城みゆきを睨みつけ邪魔するなと毒づいた。

「黒田、聞いて、紫煙は初代総長の信念を守り、レディースは持たない」

「みゆき、もう遅いんだ、走りだしちまったんだよ。おまえも知っていると思うが、横須賀の奴らが勢力拡大をはかってこっちにも現れ始めた」

「だったらチームを一つにまとめるのが先だよ」

「みゆき、俺らはもうまとまっているんだよ。これ以上話すことはない。マッポが来る前に終わらせるから、帰れ」

「黒田」

「うるせえんだよ」

この時、黒田の横から三崎薫子が出しゃばって大城みゆきの頬を平手打ちした。それが合図だった。円陣の背後で構えていた数名が怒声を張り上げ、殴り込んできた。慌てて応戦する黒田派の兵隊たち。両者が入り乱れて争い始めた茂みの中から、黒の帽子と黒のマスクをつけた稔彦が躍りでた。稔彦は真っすぐ速足で薫子に向かって行き、阻止しようと殴りかかって来る者だけを叩き伏せ三人の前へ進んだ。

大城みゆきと黒田が初めて稔彦に気づいた。

「誰だ、おめえ」

「あんた、あの時の」

稔彦は驚く黒田と大城みゆきを無視して薫子に話しかけた。

「薫子、一緒に帰るぞ」

「帰る、冗談、バカなことを言うんじゃねえ」

黒田の背後から取り巻きの兵隊が三人、金属バットを振りかざしながら稔彦に襲いかかった。稔彦は落ちてくる金属バットを素手で受け止め、相手の脇腹へ強烈な右フッをぶち込み、関節蹴りと裏拳で一瞬の間に三人を倒した。背後で罵声が飛び散って騒々しくなってきた。長いは無用だと判断した稔彦が薫子の手を引いて連れ出そうとした時だった。いきなり黒田が腰のベルトに隠し持っていたジャックナイフを抜き、稔彦の顔を薙いだ。顔をのけ反って何とか躱したが、鋭利な切っ先が頬の皮一枚を裂き血が流れた。

再び黒田が右手に握ったジャックナイフで稔彦の顔を横に払った時、その手首を稔彦が手刀で弾き返した。黒田の右手からジャックナイフが転げ落ちた次の瞬間、稔彦は単車のシートに跳び乗り、そこを踏み台にしてさらに高く跳び上がると、空中から黒田の右肩に足刀を蹴り込んだ。うめき声をあげた黒田が右肩を押さえて地面にうずくまった。この時、遠くから数台のパトカーのサイレン音が聞こえてきた。


稔彦は気が狂ったように頭を左右に振りながら嫌々する薫子を無理やり引っ張り、公園の隅に隠しておいた単車へ向かおうとした時、初めて大城みゆきと目が合った。だが稔彦は、大城みゆきとは何の言葉も交わさずその場から離れていった。地べたにしゃがみ込んで歩こうとしない薫子を肩に担ぎ上げて単車に乗せ、用意しておいた赤ちゃん用の抱っこ紐で無理やり自分の背中へ括りつけ走り出した。

パトカーは26号線を下って油つぼ入口から216号線でこっちへ向かってくるはずだった。その前に油壷の岬を離れ、小道を回って引橋の三叉路から134号線に乗る。

それから海岸通りを突っ走り、姉の待つ津久井浜のアパートに着いた頃は辺りが白み始めていた。

三崎順子は待ちくたびれたようにアパートの階段にしゃがみ込んでいた。単車の排気音に気づいて顔をあげると立ち上がり、妹の名を叫んで駆け寄っていった。稔彦は薫子を抱きかかえ、抱っこ紐のまま三崎順子に渡した。

「風呂に入れたらもっと落ち着くよ」

「稔彦君、血が」

「大したことはないよ。いいから早く部屋に戻れ」

「帰るの」

「まだやり残したことがあるんだ。後は自分たちで解決しろ」

そう言い残すと稔彦は、今きたルートを猛スピードで引き返していった。

夜明け前の油壷公園には後処理の警察官が二名残っていたが、稔彦は素知らぬ顔で公園の中を見回しながら智也のバイクを探した。公園の隅に忘れられた改造車が一台転がっているだけで、残りはすでに撤収されていた。

その足で三崎署へ向かい、駐車場の奥に並べられた改造車を一台ずつ探してみたら、左端に横浜ナンバープレートをつけたスクーターが置いてあり、確かめてみると智也が教えてくれた番号と同じだった。稔彦はその場でスマホを取り出し、目的のスクーターを撮影すると智也に、三崎署へ運転免許証を持参して引き取りに行くよう送信した。


その一時間後、大城みゆきが三崎署を訪れ、「紫煙」の解散届けを提出した。

黒田は右肩を複雑骨折して入院した。


月曜日の朝、HRが始まる前にスクーターの礼を言いに稔彦の席に智也がやってきた。智也は、よく見つかったなと嬉しそうに白い歯を覗かせて笑んだ。

「三崎町の知り合いから連絡があって、あっちで抗争事件が起こり、大量の単車が回収されたって聞いたんで見にいったんだ。そしたら智也が話していたスクーターが見つかったから驚いてメールした」

「助かったよ。あれ、結構高かったから」

「智也、ケガは治ったんだろう。柔道場へ来いよ」

「なんかやる気がなくなっちまったみたいだ。もともと柔道に興味があったわけではないし、、休みの日でも応援に駆り出されるし、これを機会に受験勉強に専念するつもりだ」

「そうか、そんなもんか」

「稔彦、そんなもんだよ。みんな、おまえとは違うんだ。とにかく見つけてくれてありがとうな」

稔彦は廊下側の席に戻っていく智也の背中を眺め、そんなものなのかともう一度口の中で呟いた。


一五


翌年の春、二年生に進学した稔彦は、大学の専攻科目に理工系を選択した智也とは別クラスになった。廊下ですれ違う時に簡単な挨拶をかわす程度だったが、それでもたまに学食で昼を一緒に食べることもあった。

稔彦は相変わらず柔道場と横須賀の仙道道場を往復する毎日を過ごし、時間をみつけては雑木林で電信柱を相手に身体の四肢を鍛え続けた。この頃の稔彦は、コンクリートの壁を全力で叩いても痛みは感じなくなっていた。


その一月ほど前に神谷徹から梢に、藍がお茶の水の国立女子大学へ、桃花は青山の私立大へ合格したと吉報が入った。愛好会三年の鬼頭三郎も早稲田のスポーツ科学部へ進学してスポーツ医科学を専攻し、様々なトレーニング法を学び始めた。同時にまだ一年次ながら空手部を創部するつもりでおり、梶川大悟に来年はこっちへ来るよう誘いをかけていた。


四月になって空手愛好会に待望の新入部員が入部した。三浦翔太は稔彦と同じように中学生の時に町道場へ通って初段を取得していたが、身体全体が長身痩躯の体型をしており全力でどつき合う愛好会恒例の組手稽古に耐えられるか心配した。梶川大悟は、それでも愛好会は「来る者拒まず、去る者追わず」だと言い捨て、いつものように手加減なしの稽古を続けた。


稔彦は仙道明人の提案で、仙道空手道場へ正式に入門することになり、一般の門下生とは時間の都合で一緒に稽古はできなかったが、今まで通り仙道との組手稽古を続け秋に行われる全日本空手道大会に出場するため励んだ。

横須賀からの帰り道、16号線を南下して134号線に差しかかった時、稔彦の後ろからピンクのライダーが追い越していった。後ろ髪を靡かせながら道路を滑るように走り抜けていく後ろ姿にしばらく見惚れていたが、「紫煙」を解散してもまだ走っていることを知って嬉しく思えた。

その夜、稔彦は加藤圭太に、解散した「紫煙」の行方をメールで訊ねてみたら、他はどうなったかは知らないが、女総長は県内の短大へ進学したと返信があった。この時、柔道をやめて受験勉強に専念すると言った智也の顔を思い浮かべ、それまで身近にいた鬼頭三郎や短い期間だったが同じ屋根の下で生活した神谷藍、中川桃子、そして「紫煙」二代目総長だった大城みゆきもみんな大学生になった。稔彦はこの時、自分はこれからどうすべきか考えたが判らなかった。判らなかったが、不安はなかった。


智也と別クラスになった稔彦は教室で孤立した。孤立したと言うよりは、クラスの生徒から声をかけられた場合は応えたが、稔彦から話しかけることはなかった。そしてみんな稔彦の噂話を知っていたから、巻き添えをくわないようなるべく距離をおいた。そしてその頃の稔彦は、窓側の一番後ろの席から窓外を眺める機会が増えていた。


学食でかつ丼の大盛を食べていると、向こうのテーブル席で女子生徒としゃべりながら食事をしていた智也が稔彦に気づいてやって来た。今日はカレーライスじゃなくてかつ丼かと言って稔彦の正面に腰かけた。稔彦は智也がさっきまでいたテーブル席から恨めしそうにこっち睨んでいる女子生徒を指差して言った。

「あっちを放って置いていいのか、怖い顔して睨んでいるぞ」

「構わなさ、気にしなくていいよ。そんなことより最近横須賀が大変なんだ」

「横須賀なら毎週仙道道場へ稽古しに行くけど、特にこれと言って気にならないが」

「夜だよ夜、それも深夜。横須賀基地にいる米兵の子供らが集まって結成した横須賀TAITAN族ってのが台頭してきて走り回っているんだ。それも全員がハーレーダビットソンときたから普通じゃないよ。近いうちにそっちにも行くぞ」

「紫煙が消えたと思ったら今度はTAITAN族か。きっとみんな暇なんだな」

稔彦は、二日前に店へきた町内会の役員たちが、黒い集団の話をしてことを思い出した。その相手が横須賀TAITAN族に間違いないなかったが、自分には関係のないことだと思った。


放課後、稔彦が進路相談で遅れて柔道場へ入ると、梶川大悟が両手でサンドバックを押さえながら、三浦翔太に上段廻し蹴りの蹴り方を教えていた。稔彦は二人に挨拶すると柔道場の隅で空手着に着替え、それからを少し離れた場所で柔軟を始めた。

稔彦の様子をみた梶川大悟が、

「今日は時間がないから組手を始めよう。稔彦、翔太の相手をしてやれ」

「おす。翔太、来い」

「稔彦、最初は受け手に回ってやれ。翔太は稔彦のどこでも構わないから攻め続けろ」

「おす」

「三分間だ。始め!」

それから翔太は左右の正拳突きを連打し、ローキックから上段廻し蹴りへと自分が覚えた技を繰り出したが稔彦にはまったく通用せず、三分間が長く感じて息苦しくなった。この時稔彦が翔太の腹を前蹴りで蹴り飛ばした。翔太は2mほどふっ飛んで尻もちをついた。それを見た梶川大悟が怒鳴った。

「翔太、稔彦が受けに回ったからと言って安心するな。攻撃中に隙だらけだぞ。もう一回だ」

腹を押さえながら必死に立ち上がる翔太。稔彦はその翔太を見つめながら、鬼頭三郎に同じように蹴とばされていた一年前の自分を思い出していた。


一六


七月初め、予定通り三浦海岸海水浴場は海開きした。毎年恒例のイベントが催され、招待された近隣の小学生たちが歓声をあげながらまだ冷たい海の中へ飛び込んでいった。


梢は、夏休み前に行われた三者面談で、担任教師から、まだ進路先が定まらない稔彦の今後をどうするつもりなのかと問われ、返答に悩みながらとりあえず国立の大学を志望していると応えた。言ってから恥ずかしくなり、思わず視線を外して下を向いた。稔彦の家庭事情を聞いて知っていた担任教師は、大きなため息をついてから、今は私立でも奨学金制度が充実しているから、私大も視野にいれて幅を広げておいた方がいいとアドバイスした。

梢の隣で終始無言だった稔彦は、愛好会の稽古があるため校門の前で梢と別れたが、駅へ向かって歩く梢の背中が小さく見えて仕方なかった。店の中では客たちを相手に気丈に振舞っているが、この頃、奥の部屋で一人ぽつんと座って思い悩む姿を目にかけることが増えていた。だが今の稔彦は、そんな母親の憂いを裏切るように、大学進学に関してはまったく興味がなかった。


三浦翔太は、稔彦の予想以上に厳しい稽古に耐え、毎日柔道場へ顔をだした。喜んだ梶川大悟が受験勉強の時間を惜しまず三浦翔太を鍛えた。

夏休みの二日前、稔彦が柔道場へ入ると、先に来ていた梶川大悟と三浦翔太がサンドバックの前に正座して稔彦を待っていた。稔彦は二人に挨拶してから空手着に着替え、着替え終わると二人の正面に正座した。梶川大悟は凛と表情を引き締め、稔彦の目を真っすぐ見つめて話し始めた。

「稔彦、本日をもって愛好会六代目主将をおまえに譲る。これからはおまえの時代だ、好きなようにやってゆけ」

「おす。梶川主将、お疲れまでした。ありがとうございました」

「うむ。さてと、稔彦、始めようか、ガチの勝負だ。三浦はそこで見ていろ」

梶川大悟はそう言って立ち上がり、帯の結び目を握ってへその下へぐいっと下げた。稔彦もその場に立ち上がり、それから2mほど間合いをおいて構えた。

「行くぞ」

重心の低い姿勢から繰り出す左右の正拳突き。受けも躱しもせず稔彦が一歩跳び込み、強烈な連打を胸で弾いた。踏み込むことによって梶川大悟の肘が充分に伸びず、威力が半減した状態で稔彦の胸を直撃した。稔彦は左の前蹴りで梶川大悟を蹴り離し、開いた間合いで真下から梶川大悟の顎を蹴り上げた。顔をのけ反って躱す梶川大悟。前屈みになって稔彦の膝へ強烈なローキックを蹴り込む。この時、梶川大悟の頭上から蹴り上げた稔彦の踵が落ちてきた。ローキックを放った直後、梶川大悟は後頭部に衝撃を受け思わず膝をついた。膝をつきながら拳を稔彦へ向け、

「まだだ」

そう言って奥歯を食いしばり立ち上がった。

左右ローキックの連打、跳び込んで右の拳を稔彦の鎖骨へ頭上から叩きつける。肘で弾き返す稔彦、その肘の硬さに梶川大悟の顔が痛みで歪んだ。それでもひるまず左の拳を打ち込む。稔彦がその拳を外へ受け流し、身体を反転させ強烈な後ろ廻し蹴りを梶川大悟のこめかみへ跳ね上げた。一瞬動きを止めた梶川大悟が稔彦に抱きつき、左右の膝で稔彦の腹の下を蹴り上げる。右の拳を梶川大悟の胸に当て押し返す稔彦。直後、左ローキックを梶川大悟の右膝へ蹴り込み、梶川大悟の意識が下半身へ集中した瞬間、同じ左足で素早い左上段廻し蹴りを放った。

稔彦の左が梶川大悟の右顎を直撃した。大きな衝撃を受けた梶川大悟が畳の上に両膝を落とし、それから両手をつき、仰向けに寝転び大の字になって天井を見上げた。

「稔彦、強いなあ、おまえは」

「梶川先輩」

「もっともっと強くなれ。強くなってあの段田剛二に勝ってみろ」

上半身を起こし、二三度首の後ろを揉んでゆっくり立ち上がる。それから腰に締めていた黒帯を解くとしばらく預かっておくよう稔彦に手渡した。

「稔彦、翔太、後はたのんだぞ」

そう言って使い古したスポーツバックを手に取ると右手を掲げ、広い肩を左右に揺らしながら柔道場の玄関先へ消えていった。

稔彦は梶川大悟の後ろ姿を見届けると、まだ淋しそうな顔で玄関口を見つめている三浦翔太に声をかけた。

「翔太、組手を始めよう。好きなようにかかって来い」

「おす。草薙主将」

それから一〇分ほど三浦翔太を相手に組手稽古を続け、稽古が終わると雑木林に立ち寄って電信柱を叩き始めた。


夏休みに入った翌日の午後、キャリアケースを引きずった神谷藍が一人でやって来た。この時稔彦は横須賀に出かけて留守だった。昨年一緒だった中川桃子は、大学のサークル合宿で北海道へ出かけて店には来なかったが、新しい出会いを求めて心躍らせながら仲間たちと旅立っていった。

梢は事前に片付けておいた二階の部屋で一休みするよう声をかけ、厨房へ戻ると再び夜の仕込みを始めた。数日前に神谷徹から、大学が夏休みの間しばらく藍を預かって欲しいと頼まれていた。深い事情は知らされていなかったが、中学一年生の時に実の母親が亡くなり、その五年後に再婚した継母と折が合わないことは聞いていた。


藍は、荷物の整理を終えると海岸へ散歩にでかけ、夕方五時の開店と同時に店を手伝うため客間へでた。藍一人が増えただけで店内が明るく活気づき、夏休み中と言うこともあって藍の噂を聞いて遠方からやって来る若者が増えた。稔彦は皿洗いやレジの勘定をやりながら、ちょっかいを出してくる輩がいないかそれとなく見張っていた。

三日後の開店前、厨房に入ってきた藍が梢に料理の手伝いを申し出た。母親が亡くなってから父親が再婚する五年間、ずっと料理を作り続けてきたから自信があった。梢が試しにお惣菜を作らせ、町内会の会合の席に並べてみたらすこぶる評判が良かった。今まで一人で昼も夜も料理を拵え続けてきたから、隣で手伝ってくれる藍の存在は大きかった。そして話し相手が増えたことを喜んだ。受験に関してまったく無知な梢は、大学生になった藍に稔彦の進学のことや受験勉強のやり方、入試までのスケジュール感について相談してみようと考えていた。


仙道道場の稽古の後で、秋に行われる全日本空手道大会運営執行部へ稔彦の出場を正式に申し込んだことを聞かされた。仙道は稔彦の肩を叩き、あと二ヶ月足らずだと言って顔を強張らせた。

「草薙君、君の実力なら六位入賞は可能だ。しかもまだ一七歳だから、そうなったら世間が騒がしくなるよ」

稔彦は仙道に破顔して応えたが、内心では大会優勝を狙っている。今、身長が5cm伸びて183cmになり、体重も80kgをこえていた。ベンチプレスでは150kgをクリアーしていたが、仙道は大会の上位入賞者はみな200kg近くは持ち上げていると言って笑った。ただ今大会ではパワーより稔彦の四肢の硬さが武器になるだろうと言い、稔彦のやり方が間違っていない証になると話した。


一七


夏休み中の藍は、梢の隣でお惣菜や酒のつまみを主に調理していたが、客が立て込んできた時は梢の指示でメイン料理を手伝うようになっていた。実生活では亡き母親の代わりに、父親のため朝と晩の食事を作っていたから手際が良かった。出来あがった料理は厨房の配膳用カウンターに並べられ、それを確認した稔彦が客席に運んだ。


午後八時を過ぎると一通り注文が落ち着き、客たちは酒と会話に没頭した。稔彦が手のあいた時間に洗い場で皿やジョッキを洗っていると、ドアが開いて二人の男が入ってきた。

長身で陽焼けした精悍な顔つきの男が手前のカウンター席に座ると、接客のため厨房から出てきた梢が挨拶する前に話しかけてきた。

「この店は、稔彦、いや草薙稔彦君の実家だとお聞きしましたが、間違いありませんか」

男の鋭い目つきを見た梢は、過去にそうした連中から受けた悲惨な脅しがフラッシュバックして、どう応えたらいいか迷った。

そんな梢の様子を見た男が慌てて両手を振り、自分は断じて怪しい者ではないと強調した上で簡単な自己紹介を始めた。この様子を厨房の調理場から、調理の手を休めた藍が心配そうな顔で覗き見している。洗い場の稔彦を振り向いたが、そこに稔彦はいなかった。

「そうでしたか、高校のクラブの先輩だったなんて、これはたいへん失礼しました。稔彦なら奥で洗い物をしておりますので、お待ち下さい」

梢が稔彦を呼ぶと、稔彦は洗い場ではなく二階から降りてきた。梢の話を聞いて急いで客間へ走り、男の名を叫んだ。

「鬼頭先輩」

稔彦の顔をみた鬼頭三郎が満面の笑みを浮かべ破顔した。

「稔彦、久しぶりだな」

「いきなりなんでびっくりしました」

鬼頭は、観音崎の近くにある大学の研究センターで、講義と実体験の研修に参加するためしばらく滞在すると説明した。

「おまえの実家を思い出して、こいつと一緒に来ることにしたんだ」

それから隣に座る鳴海健太を紹介し、とにかく喉がからからだと唇をへの字に曲げて生ビールを注文した。

鳴海健太は小学校の時から水泳教室で学び、中高の全国大会で優勝した経歴を持っており、現在は鬼頭と同じスポーツ科学部に所属しながら水泳の練習に励んでいた。

稔彦が大ジョッキを二人の前へ置くと、乾杯もせずがぶ飲みしてあっという間に飲み干した。鬼頭が追加を頼み、稔彦が大ジョッキを運ぶと、また一息で空にして三杯目をお代わりした。

この若者たちの飲みっぷりをみた梢は、興奮のあまり身体を震わせながら喜んだ。稔彦が食事のメニューを訊ねると、にんにく生姜焼きと野菜サラダの大盛りを頼んだ。それから四杯目を追加した後で、稔彦に、秋の全日本大会へ出場する意気込みについて訊ねた。稔彦は仙道明人の勧めもあったが、外の世界で実力を試したいと願う自分の意思で決めたことを正直に話した。

「当日は大悟を連れて応援に行くよ」

「鬼頭先輩、ありがとうございます」

この時、鬼頭との会話に夢中になっている稔彦に代わり、藍が大皿に乗せた野菜サラダを運んできた。その藍を一目みた瞬間、鬼頭三郎の身体が硬直し、しばらく唖然とした顔で藍を見つめた。その様子に驚いた鳴海健太が鬼頭の背中を叩いて、もう酔ったのかと話しかけた。鬼頭は我に返ると後頭部を二三度力強く叩き、それからジョッキのビールをあおった。

鬼頭の異変に首を傾げた稔彦は、藍と鬼頭が同い歳だと言おうとして言葉を飲み込んだ。なぜそうしたのかは判らなかった。そんな稔彦の内面の動揺などおかまいなしに、焼酎の水割りを注文すると藍に自己紹介を始めた。

鬼頭は、藍の通う大学の最寄り駅が茗荷谷駅と聞いて、

「それなら位置的には、首都高5号線を挟んで対極ですね」

鬼頭の言う5号線を知らない藍が上目で考え込んでいると、二人の間に割り込んだ稔彦が焼酎のジョッキを二つ並べ、奥で梢が呼んでいることを藍に耳打ちした。藍は鬼頭に挨拶すると急いで厨房へ駆け込んだ。稔彦も他の客からの注文で忙しくなり、鬼頭たちのカウンターから離れる回数が増えた。

それから鬼頭と鳴海健太は、にんにく生姜焼きと野菜サラダを追加し、焼酎の水割りを三杯飲み干すと稔彦にタクシーを呼んで貰い、宿泊先の研修センターへ帰って行った。

梢は午後一一時に暖簾を下げ、先に藍を風呂に入れた後で調理場の整理を始めた。稔彦は残りの洗い物を済ませ、それからレジごと抱えて二階へ上がった。

ベットに座った瞬間どっと疲れがのしかかった。先ほどまでカウンター席で飲んでいた鬼頭の動作を思い浮かべた時、鬼頭が藍を目に留めたことに間違いはないと思った。それからなんども頭を振り、今後二人の間に何かが芽生えても自分には関係のないことだと否定した。下から梢の呼ぶ声が聞こえ、バスタオルを持つと階下へ降りていった。

この日から稔彦は、悶々たる睡れない夜を過ごすようになる。


翌朝、客間のテーブルで朝食を食べながら、今日一日の予定について打合せた。梢は稔彦に、今夜は町内会の集まりがあるから、午前中に三崎の直売店に買い出しに行くよう指示した後で、何気なく大学の夏休みの期間について藍に訊ねた。藍が大学の授業は第一期から四期に分かれ、夏休みは九月末まであると応えた。それを聞いた稔彦は、八月から九月まで二ヶ月も休んで、しかも他の休みを含めたらいつ勉強するのかと単純に思い首を傾げた。


食事の後、藍が稔彦に三崎まで一緒に行きたいと言い出したので、稔彦が梢の顔をみたら笑いながら頷いた。

稔彦は裏のガレージから単車を外に出し、藍に青のフルフェイスを渡して自分は黒のフルフェイスを被った。単車の後席に藍を乗せるとエンジンを始動させ、海岸通りを走り出した。

稔彦が加速すると、感激した藍が稔彦の背中にしがみついた。藍は、潮風が気持ちいいと叫んだが、稔彦は何を言ったのか判らなかった。

134号線を引橋三叉路で左折して26号線に乗り換え、三崎へ向かう途中の反対側の路肩に改造車が二台止まっており、静止したまま稔彦の単車が通り過ぎてゆくのをただ見つめていた。稔彦の姿が見えなくなるといきなり爆音を轟かせ、油つぼ入り口から216号線を猛スピードで疾走していった。


三崎の直売店で買い物を済ませ、単車の荷台に固定してエンジンを始動した時、後部席の藍がまだ時間があるから途中で浜に降りたいと言い出した。稔彦は26号線から215号線に乗り換え、しばらく蛇行しながら走って三浦海岸の手前にある菊名海岸で単車を止めた。

藍はフルフェイスを稔彦に預けるとすぐ、一人で先に浜へ走り出していった。途中でサンダルを脱ぎ捨て、初めて海をみた子供のようにはしゃぎながら波打ち際へ駆け込んでゆく。後から追いかけた稔彦は、放り捨てられたサンダルを拾い上げ藍をみた。打ち寄せる波を両手ですくい上げ、青空へ向かって舞い散らす藍の身体が朝の光に溶けて稔彦は思わず目を細めた。眩しいなと思った。

この時、海原に顔を向ける稔彦は、少し離れた海岸通りの路肩から、三台の改造車が監視していることに気づかなかった。


午後は仙道道場で仙道明人を相手に組手稽古に没頭し、帰る途中でいつものように津久井浜の雑木林の空き地にある電信柱を叩いた。どんなに強く叩いたり蹴っても、四肢の部位に痛みは感じなくなった。稔彦は、次から胴回りの太い喬木を相手に打ち込むことにした。目標は、拳一撃で喬木の腹を陥没させることだ。


この日は、開店と同時に鬼頭三郎が一人で現れた。手前のカウンター席に座り、稔彦に大ジョッキを頼んだ。厨房から藍が顔を覗かせ挨拶すると、いつもの精悍な顔をはにかんで笑い、何も言わず頭をちょこんと下げた。にんにく生姜焼きと野菜サラダの大盛りをつまみに大ジョッキを五杯飲み干し、それから焼酎の水割りを三杯お代わりして帰って行った。

稔彦は店の外まで鬼頭三郎を見送りにでた。商店街を駅に向かって帰る鬼頭三郎の背中が、淡い街灯の先へ消え入るのを見ながら一抹の淋しさを覚えた。在校時代は鬼のような強靭な肉体で死ぬほど蹴り飛ばされてきたが、今はなぜだかその苛烈な闘気が薄れているように感じた。大学で空手は続けていると話していたが、稽古の内容については訊いていまかった。

背後に人の気配がして振り向いたら、トレイを両腕に抱いた藍がドアの入口に立っていた。藍は稔彦に薄い笑みを浮かべ、奥のテーブルのお客から酒の注文が入ったことを伝えた。稔彦は、「さあ仕事、仕事」を連発して両手で頬を叩き、藍と一緒に店の中へ戻っていった。


一八


九月の連休中に町内会の急な会合があり、稔彦は久し振りに三崎の直売店へ買い出しにでた。

食材を単車の後ろへ積んで26号線を走り出して間もなく、バックミラーに改造車が三台追走してくるのが写った。油壷の「紫煙」は一年前に解散したはずだから妙だなと思いながら、先を急いだ。

引橋の三叉路で134号線に乗り換えた時、バックミラーで確かめたら三台はまだ後方に付いていた。うざったいなと思った稔彦は、以前みたいにしつこくつき纏われるが嫌でここで決着をつけようと決め、その先にある盛り土を削った空き地で単車を停めた。

稔彦が待っていると、三台は間近で急加速して通り過ぎていった。その後ろ姿を首を傾げながら眺め、三台の目的を考えたが判らなかった。ただ、以前の「紫煙」とはどこか雰囲気が違っているような気がした。


この日の昼は、連休のため大勢の客たちで混雑し、いつもより遅れて横須賀へ向かった。

仙道道場の玄関に入ると、道場の中央で仙道明人が見知らぬ男を相手に難しい顔で話し込んでいた。稔彦は、仙道に挨拶して着替えのため奥のロッカールームへ向かった。

着替えて再び戻って来た稔彦に、仙道がその男、神脇正則を紹介した。稔彦より長身だが、身体全体が筋肉で締まって鋼のようなバネを感じた。陽焼けした顔に真っ白い歯を覗かせて笑う仕草が鬼頭三郎にどこか似ていた。

「彼は本流派薩摩支部の師範代で、今度の全日本の優勝候補の一人だ。師範の黒田さんは本流派時代の先輩でね、それでここを訪ねて来たんだ。神脇君、彼がさっき話した草薙君だ」

神脇正則は、仙道から紹介された稔彦がまだ一七歳だと聞いて驚いた。目の前に立つ稔彦の強靭な肉体から発散するオーラとその威圧感に思わず唸り声をあげた。

「仙道どん、こん男、わっぜ強かね」

「ほう、神脇君、さすがに判るか。草薙君、彼は薩摩藩のお家芸、薩摩示現流を空手に応用した、薩摩示現流手刀打ちの遣い手だ」

稔彦は初めて耳にした薩摩示現流について聞き直した。仙道はその場で、薩摩藩のお留流で初太刀に全身全霊を込めて斬り倒す一撃必殺の剛剣だと簡単に説明した。

「つまり一の太刀を疑わず、二の太刀は負けと教える兵法の一環で、彼は初太刀を剣ではなく空手の手刀に置き替え独自に改良したんだよ」

その手刀打ちはブロックを五個重ねて粉砕する威力があるとつけ足した時、横から神脇正則が割り込んできた。

「論より証拠、実際に試してみんかね」

「おいおい、お互い大会前にけがでもしたら取り返しがつかないぞ」

「仙道どん、どしここん男が強うても、おいがけがすっなんて考えられんが」

「神脇君、彼の人間凶器を甘く見ない方がいい」

「人間凶器、人間凶器とはなんか」

仙道は、それは大会までのお楽しみだと言ってそれ以上は話さなかった。その代わり今から自分と稔彦で組手稽古を始めるから見物したらどうか提案した。仙道は着替えのため神脇正則を連れて奥のロッカールームへ向かい、その間に稔彦はベンチプレスを始めた。仙道たちが道場へ戻ってくると三人ですぐ柔軟体操を行い、間もなく仙道と稔彦が道場の中央で向き合った。神脇正則は窓側の隅で正座しながら、これから始まる仙道と稔彦の組手稽古に着目した。


仙道と稔彦が組手を始めた三分間、仙道は防戦一方で稔彦は攻め続けた。神脇は、稔彦の技のスピードやパワー、そして三分間攻め続けても一向に落ちない体力に驚いた。稔彦は空手着以外は身に何もつけていなかったが、仙道は手足に厚手のプロテクターを装着している。最初にそれを見た神脇は、仙道が相手を傷つけないためだと思っていたがそうではなく、自分の身を守るためだと知って目を疑った。現役を引退したとは言え、元本流派空手四段で全日本大会でも六位入賞したの仙道を相手に、一方的に攻め続ける一七歳がこの世に存在する現実に驚愕した。

五分が過ぎ、八分が過ぎても稔彦の動きに衰えはなかった。どちらかが倒れるか降参するまで続けるとは聞いていたが、神脇が見る限り仙道の体力はほぼ限界に近づいているように思えた。そして間もなく一〇分が過ぎようとした時、右手を上げた仙道が膝をついた。その姿を見た神脇が唸り声をあげて立ち上がり、仙道にタオルを手渡した。

「久しぶりにひったまがった。そして見ちょいてよかった」

それから神脇は稔彦に向かってこう言った。

「草薙君、お礼においん示現流手刀打ちをみせっど」

神脇はそう言うなり道場の端へ向かい、腰を沈めて構えた。

「キエ―」

天井に響き渡る甲高い声で叫び走り出すと道場の中央で跳び上がり、空中で大きく体を反らした。

「チェスト」

空中で気合いを発すると落下しながら身体を戻す反動を利用して右手の手刀を打ち下ろす。稔彦はこの時、神脇の手刀が空気を斬り裂く摩擦音を聞いた気がした。道場の床に着地した神脇が姿勢を戻し稔彦を見て笑った。

「どうで少しはたまがったかな」

稔彦は神脇の薩摩弁をあまり理解できなかったが、判ったような顔で頷いた。神脇は少し安心したのか陽焼けした顔に真っ白い歯をむき出してもう一度、今度は軽快な声で笑い出した。稔彦はそんな快楽的で純朴なこの薩摩隼人に好感を抱いた。この後神脇は、本部道場の夜の稽古に参加すると言って先に帰って行った。

いつも一人で寡黙に稽古を続ける稔彦の孤独を気にしていた仙道は、神脇を見送る稔彦の横顔が和んでいるのを見て安心した。仙道は、年齢的な差はあるが、神脇正則という豪快で痛快な男に稔彦が心開いたのは確かだと思った。


一九


店の開店と同時に一人の男が入ってきた。稔彦は、裏の倉庫へ生ビールの樽を取りに行きその場にいなかった。

坊主頭で強張った顔つきをしたその男は、ドアの前に無言で立ったまま、まだ客のいない店内を眺めている。人の気配を感じた梢が厨房から客間にでた時、梢を振り向いた男が恥ずかしそうな顔で深々と頭を下げた。

「姉さん、ご無沙汰しております」

梢はしばらくその男の顔を見つめて思い出そうとしていたが、頬から唇の左端までかかる古傷を見て思わず両手で口を押さえた。

「あなた、寛ちゃんじゃないの」

男はもう一度頭を下げ、安心したように顔の表情を緩ませた。

「はい、大城寛(かん)()です。長い間何の連絡もせず、申し訳ありませんでした」

「あれから一〇年よ、どこに居たの、どこで何していたの」

「はい、神戸の知り合いのヤサに厄介になりながら何とか凌いでおりましたが、ほとぼりが冷めたんで戻ってきました。藤沢の方も代替わりをして、今ではあの件から手を引いたと聞き、何より先に姉さんに挨拶をと思いやって参りました」

梢は張りつめた肩の力を落としてため息をつき、「元気そうで良かった」と言って大城寛治を手前のカウンター席に座らせた。大城寛治は、夫東吾が県内を走り回っていた頃の舎弟も一人だった。当時はまだ二〇代前半だった梢は、未成年の大城寛治の食事や身の回りの世話をしていた。

大城寛司は、稔彦の父親の消息を知る唯一の人間だが、その件に関しては梢にさえ話してこなかった。そして訊かれても話すつもりはない。


厨房から出てきた藍がおしぼりを差し出すと、梢は大城寛治に、三崎口の神谷さんとこのお嬢さんだと紹介した。大城寛治は椅子から立ち上がり、当時はまだ小学生だった藍の面影を探しながら頭を下げた。

藍は、大城寛治の記憶はなかった。頬の傷や裸の上半身に着た白の開襟シャツの首に光る金のネックレスに違和感を覚えたが、嫌悪感はなかった。この時、生ビールの樽を担いだ稔彦が戻ってきた。梢が稔彦を紹介すると稔彦を見て目を潤ませたがそれ以上は何も話さなかった。梢がお酒は何がいいか訊いたら、ぬるめの燗酒を頼んでそれからカウンター席に腰を落とした。


稔彦がぬる燗の徳利とお猪口をテーブル席に置いた。大城寛治は手酌でお猪口に酒を注いだ。お猪口を舐めるように口つけ、それから一気に飲み込んで深く息をはき、またお猪口に酒を注いで今度は躊躇わず飲み干した。厨房から大城寛治の様子を気にしていた梢は、長い間酒を断っていた男の飲み方のような気がして、神戸での一〇年間の生活を想像した。

大城寛司は、稔彦の父親の消息を知る唯一の人間だが、その件に関しては梢にさえ話してこなかった。そして訊かれても話すつもりはない。

厨房から梢が酒の肴は何がいいか訊ねると、梅干しのたたきを頼んだ。梅肉の刻みを口にしながらぬるめの酒をちびちびやるのが趣向だと言って、少し照れたように俯いた。


大城寛司が稔彦に二本目のぬる燗を追加した時、店のドアが開いて一人の女が入ってきた。ストレートの長い髪を揺らしながら大城寛司の隣のカウンター席に腰掛けた。

「遅かったじゃねえか」

大城寛司がそう話しかけたら、134号線が事故で渋滞したと嘆いた。藍に代わって稔彦がおしぼりを手渡すと、その手を押さえて女が稔彦を見上げいきなり大城みゆきだと名乗った。稔彦は驚いて女の顔をしばらく見つめたが、ピンクの印象がどこにも見当たらず無言のまま首を傾げた。

「やっと見つけた、稔彦君。これでもずいぶん探したのよ。今日はあの晩のお礼を言いに来たの」

稔彦は想定外の展開にもう一度驚いたが、ストレートの長い髪と細い顎先をみて、レディース紫煙結成式の晩に目を合わせた二代目総長の白い顔を思い出した。それから稔彦にグラスワインを頼み、兄妹で何も語らずただ酒を飲み続けた。稔彦は厨房やレジからしばらく大城兄妹を交互に眺め、二人の目的がまだ他にあるような気がした。


大城寛治が三本目のお銚子を追加した時、店内を見回して他に客はいないのを確かめた大城みゆきが稔彦を呼んだ。注文だと思って近づいた稔彦に、大城みゆきは躊躇うことなくいきなり本題を話し始めた。黒田の弟善次郎が昨年解散した「紫煙」の残党を集めて「NEO紫煙」を結成したと語った。その隣で大城寛治は、他人事のようにただ酒を飲んでいる。

稔彦は、黒田善次郎が兄の仇みたいに稔彦を探していると聞いても動ぜず、無表情で大城みゆきの話に耳を傾けた。ただ近くの厨房でお惣菜を調理している藍に聞こえていた。


藍は、素知らぬ顔で、ワインのつまみにサラミとチーズの盛り合わせを大城みゆきのカウンターに差し出した。夏の間に若い客が増え、ワインを好む客のつまみにと藍が梢に提案して用意したものだが、それを見たチーズ好きの大城みゆきが喜んだ。

大城みゆきは、初対面の藍を稔彦の姉だと勘違いして挨拶したら、隣で大城寛治が、昔世話になった人の娘さんだと説明した。大城みゆきは藍が自分と同い歳だと知り、警戒心の強い性格だが珍しく親近感を抱き、東京の話題で盛り上がった。


二人のサラリーマンが入ってきて、カウンター席の奥に座ると生ビールと枝豆を注文した。稔彦はおしぼりと生ビールのジョッキを運び、藍は小鉢の準備に厨房へ戻った。

大城寛司は、四本目のお銚子を稔彦に頼み、隣でワイングラスをゆらゆらさせている妹に、要件は済んだのかと呟くような小声で話しかけた。

稔彦がお銚子をテーブルに置くと、大城寛司は妹に、

「みゆき、これを飲んだら帰るぞ」

大城みゆきはグラスワインをお代わりした後で、頬杖をつき嘆いた。

「稔彦君、事の重大性を理解していないみたい」

「噂で聞いたが、横須賀のやつらか」

「最近、26号線まで出張るようになってきた」

「ほう、油壷も舐められたもんだな」

「黒田は引退したし、まだ一六歳の善次郎率いるNEO紫煙じゃ力不足で太刀打ちできない。昌幸兄さんが心配していた」

「心配してもあいつが出てくるわけでもないしな。だから頼みはあの少年か」

「善次郎は、表向きでは黒田の仇討ちを名目に仲間を集めているけど、本心は稔彦君の力を利用するつもり。ただその当事者が自覚していないだけ」

「ふん。ガキどもが入り乱れ騒がしくなりそうだな」

「すべては稔彦君がどう動くかで決まる。横須賀のやつらは、米軍を後ろ盾にして好き放題やるからヤバいよ。だから近いうちに昔の仲間に声をかけるつもり」

「治外法権の枠内に逃げられたら最後、マッポでも手がだせなくなる」

さらに二人の男がやって来ると、大城寛治が腰を上げた。稔彦に勘定を頼み、厨房の奥で調理をしている梢に声をかけた。梢は調理の手を休め、レジで勘定を計算している稔彦に、今夜は自分のおごりだと言って笑いかけた。大城寛治はそれでは義理がたたないと財布を出したが、梢は頑として受け取らなかった。結局大城寛治が折れて梢に礼を述べ、大城みゆきは藍に今度また会いに来る約束をして帰っていった。


二人と入れ違いに鬼頭三郎がやって来た。陽焼けした顔がさらに黒くなり、口元から真っ白い歯をむき出しにして笑う爽快さが店内の空気を明るくした。

鬼頭は大ジョッキを一杯だけ飲み干すとにんにく生姜焼きを運んで来た藍に、研修センターでのカリキュラムが終了して明日東京へ帰ることを話した。藍は単純にお疲れさまを言ったが、鬼頭は東京で会うことはできないかと誘ってきた。

返答に困った藍が厨房の奥を振り向いた、鬼頭が藍の視線の方向へ顔を向けたら、稔彦が洗い場で洗い物をしていた。この時鬼頭は藍と稔彦を交互に眺め、胸の奥に突き刺さる棘のような痛みを覚え、そう言うことかと呟いた。ただこちらから誘った以上は引き下がれない、鬼頭がこの後の展開について悩んでいたら、厨房のキッチンで藍を呼ぶ梢の声がした。藍は、鬼頭が帰るまでに返答することを約束して厨房の奥へ戻っていった。


八時を過ぎた頃、近所の家族連れが二組やって来て賑わいだした。その内の一組は、以前にカウンターで飲んでいた二人の男に子供たちが粗相して揉め事になり、稔彦が無理やり仲介に入って騒動を収めたことがあった家族だった。

二組の家族は晩ごはんを個々に注文したので梢は調理に時間がかかり、お腹を空かせた子供たち待たせないよう藍にも手伝わせ、稔彦に出来あがった料理をすぐ運ぶよう指示した。その合間にカウンター席から生ビールの追加と酒のつまみに小鉢の注文が入り、稔彦も藍も忙しく動き回った。

その様子を三杯目の生ビールを飲みながら眺めていた鬼頭三郎は、先ほどまで藍との再会を強く念じて張りつめていた気力が萎えいだ。藍も稔彦も店全体が忙しくなり過ぎ、とても自分が入り込める余地が見つからなかった。居場所を失った鬼頭は、にんにく生姜焼きを平らげると稔彦を呼んで勘違を済ませ、厨房の奥で調理する藍の背中に微笑みかけると店を出ていった。稔彦が鬼頭を玄関先まで見送り、店が混んで相手ができなかったことを詫びると、鬼頭は右手を翳して真っ白い歯を覗かせ、機会があったらまた来るよ、そう言い残し駅へ向かっていった。

藍は、出来上がった料理をカートに乗せて稔彦を呼ぼうと客間を覗いたら、カウンター席の鬼頭も稔彦もそこにいなかった。驚いてドアを見たら、鬼頭を見送った稔彦が戻ってきて藍と目があった。稔彦は、藍によろしくと言い残した鬼頭の伝言を話すと厨房の洗い場へ戻った。すぐに梢の声がして、調理場のカートに乗ったオムライスと中華丼を手前の家族連れのテーブル席に運んだ。また梢の呼ぶ声で、今度はカレーライスとチャーハンをトレイに乗せ奥のテーブル席へ向かった。


二〇


九月半ばを過ぎると一気に陽射しが翳り、浜も雑木林も夏から秋へと様相を変えていった。

稔彦は雑木林の空き地のさらに奥へ入った斜面に聳える、大人の腕回りほどの杉の喬木を相手に四肢の鍛錬を始めていた。拳一撃でどれだけ陥没できるかを試したが、コンクリート制の電信柱と違い、杉の木肌は弾力があって拳がはね返された。それから何度も裏拳を鍛え、手首から前腕、肘を打ち込み、足の中足、甲から脛をローキックで蹴り込んだ。杉の喬木は無機質な電信柱と違い、長い年月を育んできた生命力が溢れていた。稔彦は打ち込む度に、「もっと強くあれ」と話しかけてくる声をきいた。風もないのに頭上の枝葉がざわめき、それが隣接する他に木々に連鎖して歌い始めるのだった。


稔彦が三崎順子から、久里浜近くの県道212号線で「NEO紫煙」と「横須賀TAITAN族」がかち合った件を聞いたのは翌日の朝だった。その日の晩、店に大城みゆきが一人で現れ、抗争現場の悲惨さを語った。一〇人足らずの「NEO紫煙」は、三倍以上の「横須賀TAITAN族」に囲まれぼこぼこにされてほとんど壊滅状態だと語った。

その現場がいかに壮絶な惨状で、「NEO紫煙」が壊滅したとしても稔彦には関係のないことだった。稔彦は、引退した大城みゆきがここまで「NEO紫煙」に肩入れするのは、二代目総長として躍動した過去の栄光を引きずっているからだと思った。かつての仲間たちが傷を負うのが居た堪れないのだろう。稔彦は、全日本空手大会を目前に控えていたから、他のことに構っている暇はなかったが、大会の件は大城みゆきには話していなかった。

二日後には大城寛治が店にやって来て、大城みゆきがかつての仲間に集合をかけたことを話した。

「それでも集まるのは十数名で、頭数では横須賀の比ではねえな」

「大城さん、俺に手を貸せと」

「いや、別にそうは言ってねえよ。飲むとおしゃべりになるだけだ」

「横須賀なんてほっといたらいいのに」

大城寛治はそれには応えず、お猪口の酒を飲み込んで息をはいた。

「五年前、昌幸が紫煙を創ったのは、よそ者から地元を守るためだった。ここもそうだが、油壷や葉山も海岸線はよその奴らのターゲットになるから、紫煙が走るだけで東京や千葉埼玉の連中が来なくなったのは確かだ。横須賀の奴らが横須賀内で走り回っているだけなら誰も文句はねえさ。それが134を南下して26や216までハーレーの排気ガスを撒き散らされたら頭に来るわな。おまえだって、浜が荒らされたら嫌だろ」

今度は稔彦が黙り込んでしばらく何かを考えた。大城寛治がお銚子の追加を頼んだ。稔彦は空になったお銚子を受け取り、大城完治の目をみた。

「時間と場所は」

「次の金曜日の深夜、場所は観音崎灯台下」

「承知」

稔彦は、二本目のぬる燗をテーブルの前に置いて金曜日の件は梢と藍にはぜったい内緒だと釘を刺し、それからこの話はいっさい口にしなかった。


二一


週末が近づくにつれ、フィリピン沖で発生した台風が勢力を増大させながら沖縄から九州四国沖を北上して関東へ上陸した。金曜日は朝から雨風が烈しく、駅前通りが川のように雨水が浜へ向かって流れて行った。それでも梢は定時に店を開けたが、暖簾は飛ばされそうなので掛けずにおいた。開店して間もなく、町内の様子を点検しに回っていた消防や役員たちが集まってきた。梢の店はいつの間にか防災対策本部になり、藍と一緒に握り飯やお惣菜を作ってテーブル席に並べた。


未定

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