終章 二人の夢(四)
志乃はふと我に返ると、演奏の準備が進む、前の舞台に目をやった。
あれから志乃は花奏とともに、慈善会の立ち上げに尽力してきた。
そして今、集まった有志の人々の数は驚くほど増えている。
今回の演奏会が実現できるのも、その人たちのおかげだ。
志乃は皆に目を向ける。
舞台の上では、お師匠様が唯子や門下生らとともに、箏の演奏の準備を着々と進めていた。
その脇では、田所が仲間の医師たちと講演の打ち合わせをしている。
そしてこの会の開催のために、事務方として積極的に動いてくれた谷崎親子。
――皆の支えがなければ、今日の日を迎えることはできなかった……。
志乃の脳裏には、今まで志乃と花奏を見守ってくれた、五木や母、華や藤といった家族の笑顔も浮かんでくる。
――あぁ、みんなありがとう……。
気がつけば、すでに感極まった志乃の瞳には、もう溢れんばかりの涙が溜まっていた。
そして堪えきれなくなった涙は、志乃のほんの少し大きくなってきたお腹の辺りに、ぽつりと零れる。
その瞬間、志乃は自分が感じたものに、はっと息を止めた。
――今のは……もしや……?
志乃は伺うように、ゆっくりと自分のお腹に両手で触れるが、先ほどの感覚は伝わってこない。
今は何も感じない所をみると、やはり思い違いだろうか?
「志乃、いかがした?」
すると志乃の様子に気がついたのか、花奏が慌てて駆け寄ってきた。
「旦那様……今……」
志乃がそう言いかけた時、入り口の扉が開き、ざわざわと人の声が聞こえだした。
どうも、開場を待っていた人たちが、一斉に入って来たようだ。
途端に熱気を帯びた会場は、あっという間に椅子が埋まり、皆が会の開始を今か今かと待ち望んでいる。
「どうしましょう、旦那様……こんなに多くの方たちが……」
会場を埋め尽くすほどの人に、志乃は驚いて声を上げた。
「皆が志乃の想いに、賛同してくれておるのだ」
花奏はにっこりとほほ笑むと、志乃の手を優しく握る。
志乃はその手を握り返すと、小さく首を横に振った。
「いいえ、旦那様。私だけではありません。旦那様と、そして皆の想いです」
志乃の言葉に、花奏は驚いたような顔をした後、目を細めて静かにうなずく。
「そうだな。志乃の言うとおりだ」
二人がほほ笑み合いながら肩を揺らした時、係の者が花奏の側に来て、会のはじまりを告げた。
志乃は関係者席へ移動し、花奏の隣に腰かけると、高鳴る鼓動を感じながら、溢れるほどの想いとともに舞台の上を見つめた。
その時、志乃はまたはっと息を止める。
自分のお腹にそっと触れると、その手に応えるかのように、再びぽこんと小さな感覚が伝わった。
――間違いない……。確かに今、応えてくれた。ちゃんと、ここにいるのだわ。私と旦那様の子が……。
志乃は胸が震えるほどの感動に瞳を潤ませると、隣で舞台を見つめる花奏に向かって顔を上げる。
「旦那様……」
そう小さく声を出そうとして、志乃はぴたりと口をつぐんだ。
――あぁ、こんな素晴らしい日に起きた出来事だもの。何か特別な方法で伝えたい。
その時、志乃の脳裏に浮かんだもの。
それは花奏に、大切な想いを伝えるための、とっておきの方法だ。
あの時は、名も知らぬ“死神の旦那様”へと宛てたものだった。
でも今は違う。
愛する花奏へ、宛てて書くのだ。
舞台の上では箏の合奏が始まり、その音色は会場を優しく包み込んでいく。
志乃はその音色に耳を澄ませながら、小さく自分にうなずいた。
箏の音色を柔らかな風に乗せるように、この溢れる想いを綴ろうと……。
「あぁ、そうだわ」
志乃は小さくつぶやくと、愛しい花奏の顔を見上げた。
はじめの書き出しは、こうしよう。
“拝啓 父になる旦那様”と。
【完】




