終章 二人の夢(三)
「斎宮司殿、少し打ち合わせをしたいのですが、今良いでしょうか?」
舞台の上で作業をしていた人が振り返り、花奏に声をかける。
花奏は軽く手を上げて応えると、志乃をゆっくりと脇の椅子に座らせた。
「身体はきつくはないか?」
「大丈夫です」
「では、少し行ってくる」
志乃は「はい」とうなずくと、会場の前方へ足早に向かう花奏の背中を見送った。
椅子に深く腰かけた志乃は、ふうと息をつくと、ぐるりと会場の中を見渡す。
花奏は演者たちと、今日の会の流れを確認しているのだろう。
ぼんやりとその様子を眺めていた志乃は、急に隣に人影を感じて顔を上げる。
見ると、初めて会った時と同じように、白い軍服に身を包んだ谷崎が笑顔で立っていた。
「まぁ、谷崎様」
「お久しぶりです。志乃さん」
谷崎は黒々と日焼けした顔で、にっこりとほほ笑んでいる。
「今日はお戻りになれたのですね」
「えぇ、最近は軍に留まることが多かったのですが、今日だけは上官に許しを得て戻りました。唯子も絶対に来いと言って、うるさかったですしね」
肩をすくめる谷崎に、志乃はくすくすと笑い声を立てる。
「今日は唯子ちゃんにとっても、晴れの舞台ですからね」
「えぇ。それにしても……」
谷崎は一旦口をつぐむと、優しく志乃を見つめた。
「え?」
不思議そうに首を傾げる志乃に、谷崎は口元を引き上げる。
「以前バルコニーで話をした時、志乃さんは自分の夢について、深く考えたことがないと、おっしゃっていましたが……」
「えぇ……」
「今の志乃さんは、夢を追いかける少女のように、瞳をきらきらと輝かせていらっしゃる」
「え……? 私が、ですか?」
志乃は谷崎の言葉に驚いて、思わず自分の頬に手を当てた。
「はい。その顔を見て、僕も負けてはいられないと、身が引き締まる思いがしましたよ」
谷崎はそう言うと、ぐっと拳を握って見せる。
その姿はとても立派で、谷崎が以前よりも一回りも二回りも成長したことが伺えた。
「あの日、谷崎様の夢のお話を伺えたこと、本当に感謝しております」
志乃がにっこりとして声を出すと、谷崎は途端に以前のような、幼さの残るはにかんだ笑顔を見せた。
すると奥から、谷崎を呼ぶ声が聞こえてくる。
「では、また後で」
「はい、また……」
去っていく姿を見送りながら、志乃は谷崎に言われた言葉を自分の中で繰り返す。
――あぁ、そうなのかも知れない。私は今、旦那様とともに描いた夢を、叶えようとしているのだわ。
志乃は自分にうなずくと、再び目の前に掲げられた横断幕に目をやった。
“ゆりいろ慈善会 第一回 定期演奏会”
横断幕に書かれたその文字を、潤んだ瞳で追いながら、志乃はまた花奏との会話を思い出した。
花奏が志乃の想いを形にするために考えたこと。
それは、慈善会を立ち上げ、病の人を支援する仕組みをつくることだった。
「チャリティー……ですか?」
あの日、花奏の考えを聞いて首を傾げる志乃に、花奏は力強くうなずいた。
「外国ではそう呼んでいる。つまりは、慈善会を立ち上げるのだ」
「あの……慈善会とは?」
花奏の言わんとしていることの意味がわからず、志乃は大きく首を傾げた。
「うむ。詳しく申せば、慈善事業を行う有志の集まりをつくるのだ。例えば、演奏会などを開き、得られた収益を療養所の維持や環境の改善に使うなど。あぁ、そうだ。それと合わせて、講演会も開けるとよいな」
「は、はい……」
「講演会は識者を招いて、一般の人へ向けた、病の話をしてもらうのだ。予防法や家庭内での対処法も学べる内容なら、さらに良いだろう。病に関する知識を、広く皆に持ってもらうのは重要だ」
そう話をする花奏の瞳は、まさに夢を語る少年のようにきらきらと輝いている。
志乃は思わず呆気に取られていたが、途端にくすくすと笑いだしてしまった。
「志乃? どうしたのだ?」
「いえ。あまりに旦那様が楽しそうにお話になるもので、つい嬉しくなってしまって。でも、そのように大それたこと、本当にできるのでしょうか……?」
すると花奏は、ぐいっと志乃に顔を覗き込ませる。
「志乃。俺たちには、皆がいるではないか」
「皆が……?」
「あぁ、そうだ」
花奏はそう言うと、力強い瞳でうなずいたのだ。